第四十四話:「累進課税」と貴族たちの反乱
アデニア王国に吹き荒れた労働ストライキは、黒田哲也による「株式譲渡」という奇策によって収束した。労働者たちは「経営者」側に取り込まれ、Eが仕掛けた「階級闘争」の火種は消し止められたかに見えた。
だが、黒田は知っていた。火種は消えたのではなく、場所を移しただけだということを。
王城の大会議室。
この国の政治と経済を牛耳る大貴族や、豪商たちの代表が集められていた。彼らの多くは、ここ数年の「黒田景気」に乗じて莫大な富を築いた「勝ち組」である。
彼らは、上機嫌で葉巻をくゆらせていた。今日の議題は「更なる経済発展のための施策」だと聞かされていたからだ。
だが、演壇に立った黒田が発表した「施策」は、彼らの笑顔を瞬時に凍りつかせた。
「……えー、ただいまより、新たな『税制改革案』を発表します」
黒田は、黒板に一本の急角度なグラフを描いた。
「『累進課税』の導入です」
「るい、しん……?」
「簡単に言えば、『儲かっている人から、たくさん取る』制度です」
黒田は、具体的な税率を書き込んだ。
「年収が銀貨百枚以下の庶民は、税率5%。
銀貨千枚までの中産階級は、20%。
そして、それ以上稼ぐ富裕層、すなわちここにいる皆さんは…… 『55%』 とします」
会議室が、静まり返った。
数秒後、爆発のような怒号が渦巻いた。
「ご、五割五分だと!? ふざけるな!」
「半分以上持っていく気か! 強盗だ!」
「我々はリスクを負って投資し、この国の経済を牽引してきたのだぞ! その報酬を奪うとは、恩知らずにも程がある!」
貴族たちの怒りはもっともだった。彼らの論理は「古典的資本主義」そのものだ。努力と才覚で得た富は、自分のものであるはずだ。
だが、黒田は動じない。
「皆さんの貢献は理解しています。ですが、現実を見てください」
黒田は、貧富の差を示すデータ(ジニ係数)を突きつけた。
「あなた方の資産が十倍になる一方で、物価上昇に苦しみ、パンも買えない層が増えている。彼らの不満が爆発すれば、先日のストライキ以上の暴動が起きる。そうなれば、あなた方の『資産』も無事では済みませんよ」
「脅しですか、顧問!」
「いいえ。『保険料』の話をしているのです。この税金で、貧困層の教育と医療を無償化する。社会の安定を『買う』のです。55%で『革命』が防げるなら、安いものでしょう?」
「黙れ、元・平民の学者が!」
ついに、最も力を持つ保守派の筆頭、ガネフ公爵が立ち上がった。彼は、国内の鉱山と物流の大半を握る実力者だ。
「貴様のやり口は、魔王軍の『共産主義者』と同じだ! 労働者に株を配り、今度は我々の財産を没収する! この国を『赤』に染める気か!」
ガネフ公爵は、レオンハルト王代理を睨みつけた。
「殿下! このような暴挙、貴族院は断じて認めません! もし強行するなら……我々にも考えがありますぞ!」
その夜。ガネフ公爵の屋敷の地下室に、反・黒田派の貴族たちが集結していた。
そして、その中心には、招かれざる客――Eの「エージェント」が座っていた。
「……話は聞いているよ、諸君」
エージェントは、同情的な声で言った。
「黒田は危険だ。彼は『平等』という美名の下に、君たちの特権を解体しようとしている。最終的には、王政すら廃止するつもりだろう」
「くそっ……! だが、どうすればいい! 王代理は完全に黒田の傀儡だ!」
エージェントは、冷酷な笑みを浮かべた。
「簡単なことさ。彼が一番大事にしているものを、人質に取ればいい」
「人質?」
「『経済』だよ。
――諸君。明日、一斉に諸君の『資産』を、王立銀行から引き上げたまえ」
エージェントの提案は、悪魔的だった。
「諸君の預金がなくなれば、銀行は『貸し渋り』を始める。中小の商人は潰れ、失業者が溢れる。経済は一気に冷え込むだろう。
黒田の『信用』は地に落ちる。そうすれば、彼を失脚させる口実ができる」
「だが……それでは我々の事業も手痛い打撃を受けるぞ」
「心配無用。我が魔王軍が、裏で諸君の資金を『保証』しよう。
Eは、黒田のような急進的な平等主義者ではない。我々は『秩序』と『既存のヒエラルキー』を尊重する。諸君の財産権は、魔王様が守護する」
Eは、労働者の次は「資本家」の不満に火をつけたのだ。
「敵の敵は味方」。古今東西変わらぬ、政治工作の基本だった。
翌朝。
王立アデニア銀行に、再び「危機」が訪れた。
今度は、怒れる群衆の取り付け騒ぎではない。
静かな、しかし致命的な「資本の逃避」だった。
「報告します! ガネフ公爵をはじめ、大口の預金者たちが、次々と口座を解約しています!」
「国外への送金依頼が急増しています! このままでは、銀行の『準備金』が枯渇します!」
作戦室で報告を聞いたレオンハルトは、青ざめた。
「貴族たちが、国を捨てる気か……!」
バルガスが激怒する。「売国奴どもめ! 全員捕らえて財産を没収しろ!」
「落ち着いてください」
黒田は、いつものコーヒーをすすりながら、冷徹にモニター(複式簿記の集計表)を眺めていた。
「(Eめ。ストライキがダメなら、今度は『資本ストライキ』か。手を変え品を変え、よくやる)」
黒田は、予想していた事態に、静かに「罠」を発動させた。
「レオンハルト殿。バルガス団長。
彼らは大きな勘違いをしています。自分たちが銀行を『支えている』側だと思っている」
黒田は、銀行の「貸付金元帳」を開いた。
「見てください。ガネフ公爵。彼は確かに莫大な預金を持っていますが、それ以上に、ここ数年の事業拡大のために、銀行から『巨額の借金』をしています。
他の貴族たちも同じだ。『レバレッジ(借入による投資)』をかけすぎている」
黒田は、銀行頭取に、一通の命令書を渡した。
「直ちに、ガネフ公爵を含む、資本逃避を試みた全リストの者に対し、通達を出せ。
『当行は、貴殿の不審な資金移動を検知した。よって、銀行取引約款に基づき、貴殿に対する全ての融資の“期限の利益”を喪失させる』と」
「きげんの……りえき?」レオンハルトが問う。
「簡単に言えば、『貸しているカネを、今すぐ全額耳を揃えて返せ』という宣告です」
ガネフ公爵の屋敷に、その通達が届いた時、彼は勝利の美酒に酔いしれていた。
だが、紙面を見た瞬間、彼の顔色は土気色に変わった。
「ば、馬鹿な! 今すぐ全額返済だと!? そんな現金、手元にあるわけがない!」
彼の資産は、鉱山や土地、在庫といった「固定資産」ばかりだ。すぐに現金化できる「流動資産」は少ない。
「銀行頭取を呼べ! 担保の土地を差し出せば待ってくれるはずだ!」
だが、部下は首を横に振った。
「ダメです! 銀行は『今、この国の通貨(銀行券)で返せ』の一点張りです!
もし返せなければ、担保は全て『競売』にかけられ、二束三文で買い叩かれます! 公爵家は……破産です!」
ガネフ公爵は、膝から崩れ落ちた。
Eのエージェントは、「預金を引き上げろ」とは言ったが、「借金を返せと言われるぞ」とは教えてくれなかった。
彼らは、黒田が設計した金融システムの「罠」――債務者(借り手)は、債権者(銀行)に生殺与奪の権を握られている――という事実を、忘れていたのだ。
数時間後。
王城の会議室に、青ざめた顔の貴族たちが、再び集められていた。
もはや、反乱の気配など微塵もない。あるのは、破産の恐怖だけだ。
黒田は、彼らを冷ややかに見下ろした。
「皆さん。資本逃避はおやめになったのですか?」
「……も、申し訳ありません、顧問」ガネフ公爵が、屈辱に震えながら頭を下げた。「我々が……間違っておりました」
「結構」
黒田は、黒板の「55%」の数字を指差した。
「では、この税率で合意いただけますね?」
「は、はい……。喜んで……納税させていただきます」
「よろしい」
黒田は、彼らが完全に屈服したのを確認すると、少しだけ声を和らげた。
「ただし、抜け道 を用意しましょう」
貴族たちが顔を上げる。
「納税額の半分までは、公共事業への『寄付』で代替することを認めます。
『ガネフ記念病院』『〇〇伯爵奨学金財団』……。
税金で取られるより、自分の名前が残る建物が建つ方が、あなた方の『プライド』も満たされるでしょう?」
これは、行動経済学における「ナッジ(誘導)」だ。
強制的な「徴収」を、自発的な「名誉ある貢献」にすり替える。
貴族たちの目に、少しだけ生気が戻った。
「そ、それなら……まあ、悪くない」
黒田は、彼らが安堵のため息をつくのを見ながら、心の中でEに語りかけた。
「(Eよ。お前は人間の『欲望』を煽った。
だが、私は『恐怖(破産)』と『虚栄心(名誉)』のコンボで、それを上書きした。
――残念だったな。この国の財布の紐は、まだ私が握っている)」
アデニア王国は、貴族たちの反乱を鎮圧し、いよいよ本格的な「福祉国家」への道を歩み始めた。
だが、Eがこれで諦めるはずがなかった。
経済、労働、そして資本。あらゆる揺さぶりを防がれたEは、ついに、最も「血なまぐさい」手段に手を染めようとしていた。




