第四十三話:「格差」という名の時限爆弾
魔王軍の「経済制裁」を逆手に取り、ガリア帝国すらも顧客に取り込んだアデニア王国。
王都は、アデニア・グラスの輝きと、新型溶鉱炉の煤煙、そして銀行が生み出す「信用」の熱気に包まれ、我が世の春を謳歌していた。
だが、光が強くなれば、影もまた濃くなる。
黒田哲也は、王都の繁華街を見下ろすバルコニーで、眉間に深い皺を刻んでいた。
「……ジニ係数が、跳ね上がっている」
「ジニ係数? なんだそれは、新しい魔導具か?」
隣でワインを傾けていたバルガス団長が、上機嫌で尋ねる。
「いいえ。不平等の度合いを示す数字です」
黒田は、手元のフィールドノートを指差した。
「見てください。ガラス職人、鍛冶屋、銀行と取引のある商人……彼らはこの一年で資産を十倍に増やした。
一方で、昔ながらの農夫、スキルを持たない日雇い労働者、そして傷痍軍人たちの所得は、横ばいか、インフレのせいで実質的に目減りしている」
黒田は、経済発展に伴う避けられない痛み――「クズネッツ曲線」の、最も残酷な上昇局面に直面していることを悟っていた。
急速な成長は、必ず「持てる者」と「持たざる者」の断絶を生む。
「Eなら、この『歪み』を見逃すはずがない」
その予感は、翌朝、最悪の形で的中した。
「教授! 大変だ!」
レオンハルトが、顔面蒼白で駆け込んできた。
「王立鉄工所(旧・鍛冶ギルド)が、止まった!」
「事故ですか? 炉が爆発でも?」
「違う! 『ストライキ』だ!」
黒田たちが現場へ急行すると、そこには異様な光景が広がっていた。
工場の入り口を、数百人の労働者たちが封鎖している。だが、彼らはただ暴れているのではない。
彼らは、整然とプラカードを掲げ、シュプレヒコールを上げていた。
『搾取を許すな!』
『俺たちの労働が、銀行家の腹を肥やしている!』
『富の再分配を!』
バルガスが激怒して剣を抜こうとする。
「貴様ら! 国の重要拠点を封鎖するなど、反逆罪だぞ! 魔王軍と戦うための鉄を作れ!」
「嫌だね!」
労働者のリーダー格の男――以前、ハイウェイ工事で水汲みをしていた男だ――が、叫び返した。
「俺たちは気づいたんだ! 俺たちが汗水垂らして作った鉄で、親方や銀行はボロ儲けだ! だが俺たちの給料は、インフレでパンが値上がりして、ちっとも楽にならねえ!
あっち(魔王軍)から来た『活動家』は教えてくれたぞ! 『労働こそが価値の源泉』だってな!」
「活動家、だと……?」
黒田は、群衆の中に、見慣れぬフードを被った数人の男たちが紛れているのを見逃さなかった。
彼らは、労働者たちに「パンフレット」を配っていた。そこには、扇動的な言葉と共に、アデニア王国の「貧富の差」を示すグラフ(Eが作ったものだろう)が印刷されていた。
「Eめ……」黒田は歯噛みした。
敵は、今度は「マルクス経済学(労働価値説)」の武器を、アデニアの「プロレタリアート(労働者階級)」に配ったのだ。
「成長の果実」が行き渡らない不満を、「階級闘争」という炎に変えて、内部から国を焼き尽くそうとしている。
「鎮圧しますか、教授」バルガスが問う。
「ダメです」黒田は即答した。
「彼らは『敵』ではない。我が国の『生産力』そのものです。武力で弾圧すれば、彼らは本当に魔王軍の思想(共産主義的な統制経済)に染まり、アデニアの産業は死にます」
「では、どうする! 賃上げ要求を飲むか? 無理だぞ、彼らは『利益の半分をよこせ』と言っている!」
「ええ。ただの賃上げでは、インフレを加速させるだけです」
黒田は、暴徒と化した労働者たちの前に、たった一人で歩み出た。
「話を聞こう!」
黒田の声が響くと、労働者たちは一瞬静まり返った。彼らにとっても、この「異界の賢者」は畏怖の対象だったからだ。
「諸君の言い分は正しい!
諸君の労働こそが、この国の富の源泉だ!
だからこそ、私は諸君に『賃上げ(カネ)』などは与えない!」
「なんだと!?」
「やっぱり銀行の手先か!」
怒号が飛ぶ。石が投げられる。だが、黒田は動じない。
「私は、諸君に『権利』を与える!」
黒田は、懐から一枚の書類を取り出した。
「今日から、この王立鉄工所を『株式会社』化する!」
「かぶ……しき?」
「そうだ! 親方や王家だけがオーナーではない!
諸君ら労働者にも、勤続年数と貢献度に応じて、この工場の『株式』を配分する!」
黒田は、Eが仕掛けた「労働 vs 資本」の対立構造を、「労働者=資本家」にすることで無効化しようとしていた。
「株を持てば、工場が儲かれば儲かるほど、諸君には『配当』が入る! 工場の価値が上がれば、諸君の資産も増える!
諸君は、ただの『歯車』ではない! 今日から、この工場の『共同所有者』だ!」
労働者たちが、顔を見合わせた。
「俺たちが……オーナー?」
「働けば働くほど、俺たちの『株』の値打ちが上がるのか?」
「その通りだ!」黒田は畳み掛けた。
「E(魔王軍)の扇動家は、諸君に『パン(分配)』を約束したか?
違うだろう! 彼らは『対立』を持ち込んだだけだ!
私は諸君に『未来』を約束する!
さあ、選べ!
他人の工場を壊して、今日だけの鬱憤を晴らすか!
それとも、自分の工場を動かして、子や孫に『資産』を残すか!」
沈黙の後。
カラン、と一人の男が鉄パイプを落とした。
「……俺は、自分の工場を持ちてえ」
その一言が、潮目を変えた。
労働者たちは、扇動家たちが配ったパンフレットを捨て、黒田が差し出した「株式譲渡契約書」に殺到した。
紛れ込んでいたEの工作員たちは、舌打ちをして逃げ去っていった。
「資本主義の権化め……! 『欲望』で『不満』を上書きしたか!」
騒動が収束した後。
王城のバルコニーで、黒田はぐったりと手すりにもたれかかっていた。
「見事だった、教授」
レオンハルトが、冷たい水を差し出した。
「だが、危ない賭けだった。株式の配分など、貴族院が黙っていないぞ」
「黙らせますよ」
黒田は、冷徹な学者の目に戻っていた。
「今回の件で、痛感しました。
『トリクルダウン(富の滴り落ち)』を待っていては、その前に国が割れる。
レオンハルト殿。次は『税制改革』です」
「税、だと?」
「はい。儲かっている商人や貴族から、ガッポリと取ります。
『累進課税』 の導入です。
そのカネで、貧困層への『教育』と『医療』を無償化する。
Eが『格差』を突いてくるなら、我々は『再分配』という盾で防ぐしかありません」
黒田は、逃げていった工作員たちの背中を思い浮かべた。
「(Eよ。お前は、私の国に『労働問題』という宿題を出した。
おかげで、アデニアは『修正資本主義』のステージへと、強制的に進化させられたよ)」
黒田の戦いは、経済成長の「光」だけでなく、その「影」すらもデザインする、より複雑で、より高度な領域へと突入していた。




