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第四十話:「取り付け騒ぎ」とブラック・スワン


アデニア王国の繁栄は、砂上の楼閣か、それとも盤石な城か。 その真価が問われる瞬間は、唐突に訪れた。

「王立アデニア銀行」の設立と「人材引き抜き(ヘッドハンティング)」作戦の成功により、王都は未曾有の好景気に沸いていた。 だが、その日の早朝。王城の作戦室に飛び込んできた伝令の報告が、その熱狂を一瞬で冷やした。

「緊急報告!! 西のハイウェイ、および南の港湾ルートにて、大規模な『魔獣被害』が発生!」 「魔獣だと?」バルガスが詰め寄る。「たかが野良モンスター数匹で、報告に来たのか!」 「違います! 数百頭規模です! しかも、ただ暴れているのではない……『橋』と『中継倉庫』だけを、ピンポイントで破壊して回っています!」

「なっ……!」

黒田哲也は、手元のコーヒーカップを強く置いた。 「(……来たか)」

恐れていた事態だった。 「Eエコノミスト」は、アデニアとの「競争(通貨戦争・人材獲得)」では勝てないと悟り、盤面ルールをひっくり返しに来たのだ。 軍事力による「侵攻」ではなく、経済の急所である「物流サプライチェーン」を物理的に切断する、外科手術的なテロ攻撃。 経済学で言う「供給ショック(サプライ・ショック)」だ。


影響は、即座に、そして劇的に現れた。

物流が止まったことで、王都への「小麦」や「鉄」の供給がストップした。 モノ不足の噂が広まり、市場では商品の値段が倍、三倍へと跳ね上がる。 「悪いインフレ(コストプッシュ・インフレ)」の発生だ。

そして、その不安は、人々の足を、ある「一点」へと向かわせた。

「銀行だ!」 「銀行からカネを引き出せ!」 「物価が上がってる! 紙切れなんか持ってても意味がない! 『きん』か『現物』に変えろ!」

王立アデニア銀行の前は、開行以来の長蛇の列となっていた。 だが、それは「投資」のための希望の列ではない。 預けたカネを我先にと回収しようとする、恐怖と怒号に満ちた暴徒の列だった。

「取り付け騒ぎ(バンク・ラン)……」 銀行の二階からその光景を見下ろし、レオンハルトが蒼白な顔で呟いた。 「教授。まずいぞ。銀行には今、預金者全員に返せるだけの『現金キャッシュ』はないはずだ」

「ええ、ありません」 黒田は、冷静に(しかし冷や汗を拭いながら)答えた。 「我々は集めたカネを、鍛冶屋やハイウェイ建設に『貸し出し(投資)』てしまった。金庫にあるのは『準備金』だけ。全員が一度に引き出せば、銀行は破綻デフォルトします」

これが「信用創造」の唯一にして最大のリスクだ。 銀行は「あるはずのないカネ」を貸し出すことで経済を回している。その魔法は「みんなが同時に返せと言わない」という「信用」の上でのみ成立する。

バルガスが剣を抜いた。 「俺が出る! 暴徒を鎮圧し、銀行を封鎖する! 『引き出し停止』を宣言すれば……」

「ダメです!!」 黒田の怒号が飛んだ。 「それをやった瞬間、アデニアの『信用』は死にます! 『銀行はカネがないから封鎖した』と認めることになる! 経済は崩壊し、二度と戻らない!」

「ではどうする! このままでは、あと数時間で金庫は空になるぞ!」

その時、宰相オーレリアス(二重スパイ)の監視役が、一枚の羊皮紙を持ってきた。 魔王軍からの、緊急の書簡だった。

『黒田顧問へ。 貴殿の作った「エンジン(銀行)」は素晴らしい。だが、「タイヤ(物流)」がパンクすれば、車は走らない。 恐怖は伝播する。貴殿の愛する「合理的」な市民たちは、今や「利己的」な逃亡者だ。 ――チェックメイトだ。経済協定(降伏)の準備はできているか? E』

「……チェックメイト、か」 黒田は、その手紙を握りつぶした。

「(ナメるなよ、エコノミスト)」 黒田の目から、迷いが消えた。 「(お前は『恐怖』を計算に入れた。だが、お前は一つ見落としている)」 「(人間は『恐怖』だけで動くのではない。『グリード』と『希望』がセットになった時、最も非合理な『熱狂』を生み出すのだ)」

黒田は、レオンハルトとバルガスに向き直った。 「バルガス団長。騎士団を総動員してください。ただし、銀行の『鎮圧』ではありません」 「では、どこへ?」 「『魔獣討伐』です。今すぐ西のハイウェイへ出撃し、魔獣を駆逐し、物流を回復させる『姿勢』を見せてください」

「レオンハルト殿。あなたは、私と一緒に銀行の正面玄関に立ちます」 「なっ……暴徒の前にか!?」 「はい。そして、演説をしてください。私が用意する『新商品』を売り込むのです」

「新商品……? カネがないのにか?」 「カネがないからこそ、売るのです」


銀行の正面玄関が開かれた。 怒号を上げていた群衆は、王代理レオンハルトと、筆頭顧問黒田の姿を見て、一瞬静まり返った。

きんを返せ!」 「銀行が潰れるぞ!」 すぐに罵声が飛ぶ。石が投げ込まれそうになる。

レオンハルトは、一歩前に出た。 彼は震える足をマントの下で隠し、黒田に教わった「王の威厳」で声を張り上げた。

「静粛に! アデニアの民よ! 諸君が不安に駆られるのは無理もない! 卑劣なる魔王軍の『テロ』により、物流が一時的に滞っている!」

「だからカネを返せと言ってるんだ!」 「紙切れになんか用はない!」

「聞け!」レオンハルトが叫ぶ。「銀行は逃げない! 預金は全額保護する! だが、今ここで全員がカネを引き出せば、どうなるか? 物流は止まったままだ! 物価はさらに上がる! 諸君が手にする『わずかな現金』など、明日のパン一個も買えない紙切れになるぞ!」

群衆がざわめく。彼らも薄々、それが「自滅」だと気づいている。だが、恐怖が止まらない。

そこで、黒田が動いた。 彼は、銀行員たちに、巨大な看板を掲げさせた。

『緊急発行! 戦時国債ウォー・ボンド』 『年利 15%』

群衆が、その異常な数字に目を剥いた。 銀行の預金金利は、せいぜい数パーセントだ。「15%」など、あり得ない高金利だ。

「な、なんだそれは……!」

黒田が、学者の冷静な声で、しかし会場の隅々まで届くように語りかけた。 「これは、バルガス騎士団長が、今まさに魔獣を討伐し、物流を回復させるための『軍資金』です」

黒田は、群衆一人一人の目を見た。 「今、預金を引き出して、インフレに怯えて暮らすか。 それとも、その預金をこの『国債』に切り替え、物流回復後に、魔王軍から奪い取る『賠償金』を上乗せして、莫大な『利益』を得るか」

「これは『賭け』ではありません」 黒田は断言した。 「我々には『実績』がある! ハイウェイを作り、ガラスを作り、鉄を作った我々だ! 物流さえ戻れば、アデニアの経済は必ず復活する! その時、諸君は『逃げ出した臆病者』になりたいか? それとも『国を救い、富を得た投資家』になりたいか!」

「選べ!!」

沈黙。 長い、長い沈黙。

誰かが、叫んだ。 「……俺は、買うぞ!」 声の主は、あの「新型溶鉱炉」を成功させた、鍛冶屋の親方だった。 「銀行が俺たちを信じてくれたから、俺たちは成功した! 今度は俺たちが銀行に賭ける番だ!」

「私も買う!」ガラス工房の親方が続く。「どうせ引き出しても、ガラスの材料は買えねえ! ならば騎士団に道を開けてもらうしかねえ!」

「俺もだ!」「私も!」

流れが、変わった。 「恐怖(損をしたくない)」という感情が、「欲(15%の利益)」と「連帯感(国を救う)」という、より強い感情に上書きされた瞬間だった。

窓口の行列は、「預金の引き出し」から「国債の購入」へと、オセロのように裏返った。 銀行からカネが出ていくのではなく、タンス預金までもが、銀行へと吸い込まれていく。

黒田は、その光景を見ながら、膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえていた。 「(……勝った)」

これは、経済学における「最後の貸し手(Lender of Last Resort)」機能の、さらに攻撃的な応用。 危機を「投資のチャンス」にすり替えることで、流動性を確保する荒業だった。

数時間後。 西のハイウェイから、早馬が戻ってきた。 「報告! バルガス騎士団、魔獣の群れを撃破! 現在、工兵隊が橋の修復を開始! 明日には物流が再開します!」

銀行の前で、歓声が上がった。 国債を買った人々は、自分たちが「勝利した」ことを確信し、抱き合って喜んだ。

黒田は、作戦室に戻り、Eからの手紙の裏に、返信を走り書きした。 それを、呆然とする宰相オーレリアスに手渡す。

『Eへ。 チェックメイトにはまだ早い。 貴殿は「タイヤ」をパンクさせたが、私は「燃料(資金)」を注入して、空を飛ぶことにした。 ――ところで、貴殿の国の「インフレ率」は大丈夫か? これだけのテロを仕掛けるための「戦費」、かなり高くついたのではないか?』

黒田は、冷徹に笑った。 「さあ、カウンターだ。 物流が戻ったら、この『国債』で集めた莫大な資金で、今度はそちらの市場を『買い占め』に行こうか」



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