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第三十七話:「通貨統合」という名の植民地化


王立アデニア銀行の奥まった場所にある、貴賓室。 そこには、黒田哲也とレオンハルト、そして「東の旅商人」を名乗る男が向かい合っていた。 男は、書類上のサイン「E」の正体である「学者エコノミスト」本人ではなかった。だが、その洗練された身のこなしと、感情を一切見せない瞳は、彼がただの商人ではなく、高度に訓練された「代理人エージェント」であることを物語っていた。

「単刀直入に申し上げます」 代理人は、黒田の前に一枚の地図を広げた。 それは、アデニア王国と、魔王軍の支配地域を、境界線なく「一つの色」で塗りつぶした、極めて挑発的な地図だった。

「我が主(E)は、貴国との『通貨統一』を提案されています」

レオンハルトが眉をひそめる。 「通貨統一、だと?」

「はい。現在、貴国と我が軍の間では、交易(塩と鉄など)が活発化しています。ですが、その都度『物々交換』や『重量計算』をするのは非効率です」 代理人は、流暢に続けた。 「そこで、我が軍の『魔石通貨』と、貴国の『銀行券』を、固定レート『一対一』で交換可能にするのです。両国の商人は、為替リスクを気にせず、自由に商売ができる。アデニアの経済は、大陸全土という巨大な市場を手に入れることになります」

レオンハルトの目が輝いた。 「なるほど。確かに、我が国の商人が魔王領へ自由に売り込みに行けるなら、大きな利益になる」

だが、黒田哲也の声が、冷たく響いた。 「お断りします」

室内の空気が凍りついた。 「教授? なぜだ。合理的ではないか」 「いいえ、レオンハルト殿。これは『経済協力』の皮を被った、『侵略』です」

黒田は、代理人の目を真っ直ぐに見据えた。 「『一対一の固定レート』での統一。聞こえはいい。ですが、それはすなわち、アデニア王国が『金融政策の自由』を捨てることを意味します」

黒田は、レオンハルトに説明を始めた。 「もし通貨を統一すれば、我々は二度と、独自の判断で『カネ(銀行券)』を増やしたり減らしたりできなくなります。 例えば、我が国が不景気になった時、我々はカネを供給して景気を刺激したい。だが、統一通貨であれば、経済規模の大きい『魔王軍』の都合に合わせて、通貨量が決定されてしまう」

黒田は、代理人に冷ややかな笑みを向けた。 「Eの狙いはそこでしょう。 経済規模(GDP)で勝るそちら側が、通貨の『発行権』を実質的に握る。 アデニアは、独自の『財布』を持てなくなり、魔王軍の『経済圏』という名の『植民地』に成り下がる。 これを『マンデル・フレミングモデル』における『金融政策の無効化』の罠と言います」

代理人の眉が、わずかに動いた。 この田舎の王国に、そこまでの理論を見抜く知性がいるとは、想定外だったようだ。

「……では、黒田顧問。貴殿は『対話』を拒否すると?」

「いいえ」 黒田は、手元の書類にペンを走らせた。 「統一ユニオンは拒否します。ですが、『通貨スワップ協定』なら結びましょう」

「スワップ……?」 「そうです。互いの通貨を『必要になった時』に、『その時点での市場価値(変動レート)』で交換する枠組みです。 これなら、我々は『財布』を別にしたまま、交易の決済だけを円滑にできる。 ――我々は『属州』ではない。『対等な貿易相手』としてなら、手を組みましょう」

黒田が差し出した「対案」を、代理人はしばらく見つめていた。 やがて、彼は書類を受け取り、恭しく一礼した。

「……承知いたしました。我が主(E)に、そう伝えます。 『アデニアの知性は、想定以上に強固である』と」

代理人が退出した後、黒田は椅子に深く沈み込んだ。 「危ないところでした。甘い蜜(市場拡大)の中に、猛毒(主権喪失)が隠されていた」

レオンハルトは、冷や汗を拭った。 「教授がいなければ、私は喜んでサインしていたかもしれん……。戦争よりも、よほど恐ろしい駆け引きだ」

「ええ。通貨戦争は、まだ始まったばかりです」 黒田は、窓の外を見つめた。 「ですが、これで敵は認識したはずです。アデニアは、もはや『飲み込める小国』ではないと」


通貨戦争という国家レベルの緊張から数日後。 アデニアの城下町は、好景気の影響で、娯楽産業も賑わいを見せていた。

特に話題なのは、王都に新設された「大劇場」だ。 今夜は、隣国から招いた「歌姫」の公演があるということで、劇場の前には長蛇の列ができていた。

だが、その行列の横で、バルガス団長が真っ赤な顔で怒鳴り散らしていた。 「貴様ら! 恥を知れ! チケットを買い占めて、民に法外な値段で売りつけるなど、盗っ人猛々しい!」

バルガスが捕まえていたのは、いわゆる「転売屋(ダフ屋)」たちだった。 彼らは、発売と同時にチケットを買い占め、定価「銀貨一枚」の席を、「銀貨十枚」で売ろうとしていたのだ。 民衆からは「高すぎて買えない!」「卑怯だ!」と不満の声が上がっている。

「教授!」バルガスが、視察に来た黒田に助けを求めた。 「こいつらを全員投獄してくれ! そして、チケットは『定価』以外での譲渡を禁止する法律を作ってくれ!」

「やれやれ」 黒田は、捕まった転売屋と、怒れる民衆を見て、頭を掻いた。 「団長。転売屋が現れるのは、彼らが『悪』だからではありません。 主催者が設定した『定価(銀貨一枚)』が、実際の『需要(人気)』に対して『安すぎる』からです」

「なんだと? 安く売るのは、民への優しさだろう!」

「その優しさが、転売屋という『歪み』を生んでいるのです」 黒田は、劇場主に指示を出した。 「次の公演から、チケットの売り方を変えます。 『転売禁止』などの規制はしません。コストがかかるだけで、彼らは地下に潜るだけですから」

黒田が提案したのは、「価格差別プライス・ディスクリミネーション」だった。

「まず、最前列から五列目までの『特等席』。これを『銀貨二十枚』で売ります」 「に、二十枚!? そんな高い席、誰が買うんだ!」 「金持ちと、転売屋が買いますよ。彼らは『金はあるが、並ぶ時間がない』人たちですから」

「そして」黒田は続けた。 「その特等席で稼いだ利益を原資にして、後方の『一般席』を『銀貨半枚(半額)』に値下げします。 ただし、この一般席は『購入時に名前を記入』し、本人以外は入場不可とします」

結果は、劇的だった。 「どうしても近くで見たい」金持ちたちは、転売屋から買う手間を惜しみ、公式の「特等席」を喜んで買った。劇場側には莫大な利益が入った。 一方、「カネはないが、見たい」民衆たちは、値下げされた「一般席」を手に入れ、大喜びした。本人確認の手間はあるが、安さには代えられない。

そして、転売屋たちは? 「特等席」は公式が高値で売っているため、上乗せして売る余地がない。 「一般席」は本人確認があるため、転売できない。 彼らの「商売」は、黒田の「価格設定」によって、物理的に消滅してしまったのだ。

規制ムチではなく、仕組み(デザイン)で解決する」 バルガスは、静かになった劇場前で、また一つ、黒田の恐ろしさを思い知らされていた。



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