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第三十二話:敵からの「贈り物」


黒田哲也が放った、意図的に「傲慢ごうまん」なシグナル――『私(黒田)の“次の手”は読めまい』――が、二重スパイと化した宰相オーレリアスを通じて魔王軍(の背後にいる「学者」)に渡ってから、数日が経過した。

作戦室の空気は、張り詰めていた。

バルガス団長は「学者とやらの『返答』が『軍事行動』であった場合に備え、全軍の警戒レベルを上げている」と息巻いている。

レオンハルトもまた、黒田の「挑発」が吉と出るか凶と出るか、王代理として緊張を隠せずにいた。

その沈黙を破り、監視役が血相を変えて飛び込んできた。

「報告! 宰相オーレリアスが、魔王軍の連絡役と再び接触!」

「来たか!」バルガスが剣の柄に手をかける。

「して、敵の反応は!?」レオンハルトが叫ぶ。

「それが」監視役は、困惑した顔で、一枚の羊皮紙と、一つの「木箱」を差し出した。

「軍事行動の指示はありませんでした。ただ、これを黒田顧問へ、と」

木箱。

黒田、レオンハルト、バルガスの三人が、毒でも入っているかのように、それを遠巻きに見つめる。

「教授、罠だ」バルガスが低く唸る。「開ければ呪いが発動する類のものかもしれん」

「その可能性もゼロではありませんね」

黒田は冷静に答えつつ、まず羊皮紙メッセージの方を手に取った。そこには、またしても端正な、しかし有無を言わせぬ筆跡でこう記されていた。

『黒田哲也顧問へ。

貴殿の「計画デザイン」が、単なる「挑発」による「時間稼ぎ」でないことを祈る。

当方も「戦争コスト」は望んでいない。ただ「合理的」な「経済圏」の構築を望むのみ。

貴殿の「次の手」が、貴殿自身が指摘された「属人的な脆弱性の克服(非属人化)」であるならば、これらが「合理的」な第一歩であろう。

対話の用意があるという「シグナル」として、これを贈る』

「シグナル、だと?」

レオンハルトが、黒田の許可を得て、慎重に木箱の蓋を開けた。

中に入っていたものを見て、三人は絶句した。

武器でも、黄金でも、呪いの品でもない。

そこには、ただ、静かに二つの「道具」が収められていた。

一つは、このアデニア王国で使われている、分厚くゴワゴワした羊皮紙とは似ても似つかぬ、驚くほど「薄く」、そして「均質」な、純白の「紙」の束。

そしてもう一つは、その「紙」の上に置かれた、一冊の簡素な冊子だった。

黒田は、まるで聖遺物に触れるかのように、その「紙」を一枚、指でつまみ上げた。

「(この製紙技術……なんだ、この平滑度は。これならば、インクの滲みも最小限に抑えられる。偽造防止技術が、飛躍的に向上する……!)」

だが、黒田の「知性S+」を本当に戦慄させたのは、もう一つの「冊子」だった。

彼はそれを手に取り、開いた瞬間、呼吸を忘れた。

『資産の部』『負債の部』

借方デビット』『貸方クレジット

そこに描かれていたのは、黒田がこの国で必死に「概念」から教えようとしていた「近代会計学」の基礎――「複式簿記」の、完璧な手引き書だった。

「……!」

黒田は、敵の「学者」の、底知れない知性と、その「意図」に、背筋が凍る思いだった。

(ヤツは、俺の「脆弱性」を指摘するだけじゃない)

(その「脆弱性」を克服するための『最適解(複式簿記による資産管理の非属人化)』まで、正確に予測し、そして、それを『技術(高度な紙)』と共に、こちらに『与えて』きた!)

これは、支援ではない。

圧倒的な「知性」による「誇示」だ。

「お前がこれからやろうとしていることは、全て私の想定内だ」

「お前がこの国を近代化させるための『道具』は、全て私が持っている」

「戦争などせずとも、この『技術格差』と『理論の優位性』で、いずれ貴国アデニアは、我が経済圏にひれ伏すことになる」

敵の贈り物は、そう雄弁に語っていた。

「教授、これは」レオンハルトが青ざめている。

「ええ」黒田は、冊子を強く握りしめた。「最悪の『揺さぶり』であり、最高の『挑発』です」

黒田は、現実世界で出会えなかった「ライバル」の、そのあまりにも「格が違う」一手に、学者としての「屈辱」と、それを上回る「闘争心」を燃やしていた。



敵からの「贈り物」という名の「挑戦状」に、黒田は数日、作戦室に籠もりきりになった。

複式簿記の導入、製紙技術の解析、そして「銀行」という次のシステムの設計。課題は山積みだった。

「(ダメだ、煮詰まった)」

黒田は、気分転換と「現場(市場)」の視察を兼ねて、夕暮れの城下町へ散歩に出た。

ハイウェイ整備で「日当(手形)」を得た労働者たちが、仕事を終え、酒場へ向かう時間帯だ。

だが、町の雰囲気は、以前の「活気」とは少し違っていた。

酒場が並ぶ一角で、またしても「怒声」が響いていた。

「押すな! 俺が先だ!」

「ふざけるな、こっちは一時間も待ってるんだぞ!」

黒田が眉をひそめると、ちょうど巡回中だったバルガス団長と出くわした。

バルガスは、その光景に「またか」と頭を振った。

「教授。貴様の『経済学』も万能ではないようだな」

「どういうことです?」

「見ての通りだ。労働者どもが『カネ(手形)』を手にしたのは良いが、仕事終わりに全員が『同時』に酒場に殺到する。だが、酒場の『席数(供給リソース)』は限られている。毎日、この『席待ち』の行列で喧嘩が絶えず、治安が悪化の一途だ」

バルガスは、結論を言った。

「こうなれば『精神論』だ。風紀が乱れる! レオンハルト若に進言し、労働者たちの『飲酒』を一時『禁止』させる!」

「待ってください、団長」

黒田は、その「非合理的」な解決策(というより思考停止)を、即座に止めた。

「団長。それは、病気の『症状(喧嘩)』だけを見て、『原因(需要の集中)』から目をそらす行為です」

黒田は、京堂大(パラ経)の学生にすら、こんな初歩的な話はしなかったぞ、と思いながら、バルガスに「講義」を始めた。

「彼らの『インセンティブ(飲みたいという欲求)』を『禁止(罰)』で押さえつければ、どうなるか? 必ず『闇市やみいち』が生まれます。隠れて酒を売る連中が現れ、治安は『今以上』に悪化し、王家は『税収(酒税)』まで失う。最悪の『機会費用』です」

「では、どうする!」

「『価格』で『需要』をコントロールするのです」

黒田は、その場で酒場の主人たちを集めさせた。

「諸君。『禁止』はしない。代わりに『値上げ』を許可しよう」

主人たちが「本当か!」と色めき立つ。

「ただし、ただの値上げでは、不満が爆発するだけだ。

そこで、『ハッピーアワー(時間帯別価格設定)』を導入する」

黒田は、酒場の主人たちに「経済学の基礎」を叩き込んだ。

「最も混雑する『日没後の一時間ピークタイム』は、『酒代二倍(プレミアム価格)』とする。

その代わり、まだ空いている『日没前の一時間オフピーク』は、『酒代半額(割引価格)』とする」

主人たちは最初、戸惑った。

「そんなことをして、客が来なくなったら」

「来ますよ」と黒田は断言した。「客層セグメントが『分離』されるだけです」

翌日。酒場に、新しい「価格表」が貼り出された。

結果は、劇的だった。

「金(手形)は惜しくないが、並ぶ時間が惜しい」というせっかちな労働者は、あえて『二倍』の価格を払って、ピークタイムに堂々と飲んだ。

「金(手形)は少しでも節約したいが、時間には余裕がある」という労働者は、仕事を少し早めに切り上げ、『半額』のオフピークタイムに殺到した。

今まで「一点」に集中していた「需要」が、価格インセンティブによって、見事に二つの時間帯に「平準化(分散)」されたのだ。

行列と喧嘩は、ピタリと止んだ。

酒場は、プレミアム価格のおかげで、全体の「売上」が上がり、バルガスも「治安の改善」という『結果』に、何も文句が言えなくなった。


作戦室に戻った黒田は、新たな自信に満ちていた。

「(そうだ。エコノミストが、どれほど『高度な理論(複式簿記)』を提示してこようと、関係ない)」

「(経済学の本質は『現場(市場)』にある。あの酒場のように、人間の『インセンティブ』を、いかに『合理的』にデザインするかだ)」

黒田は、敵から送られてきた「複式簿記の手引き書」と「製紙技術のサンプル」を、机の上に広げた。

「レオンハルト殿。敵の『贈り物』は、ありがたく使わせてもらいましょう」

黒田の目は、京堂大(パラ経)で燻っていた頃の学者ではなく、一国の経済を「デザイン」する、実践家の目だった。

「ですが、ヤツの『理論』を、そのままコピーするのではありません。

この『道具』を使い、このアデニア王国独自の、ヤツの想像を超える『次のシステム』を、我々自身の手で作り上げます」

黒田は、新しいチョークを握りしめた。

「レオンハルト殿。この国に、最初の『金融システム(銀行)』を設立します。脆弱性の克服は、ここからです」



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