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第三十一話:「学者」からのシグナル


作戦室の空気は、凍りついていた。

宰相オーレリアスを通じて魔王軍から渡された一枚の羊皮紙。そこに記された内容は、アデニア王国の指導者たちにとって、魔王軍の「宣戦布告」よりも遥かに衝撃的だった。

「経済協定だと?」

レオンハルトは、羊皮紙を机に叩きつけ、激昂した。

「我々を散々苦しめておきながら、今さら『軍事を止めよう』だと? ふざけるにも程がある! これは罠だ!」

「その通りだ!」バルガス団長も、怒りに肩を震わせる。

「『魔王を管理している』だと? 魔王の手先が、何を企んでいる! 学者だか何だか知らんが、我々がハイウェイを完成させ、国力が充実したところを、一気に叩き潰すための時間稼ぎに決まっている!」

二人の反応は、国の指導者として当然のものだった。

だが、黒田哲也だけが、沈黙していた。

彼は、怒りでも、恐怖でもなく、背筋が粟立つような、強烈な「学術的興奮」に包まれていた。

(……同じ、学者だと?)

黒田は、羊皮紙に書かれた一文を、指でなぞった。

『その信用は、小麦と貴殿個人の属人的なものに依存しており、脆弱だ』

「(……見抜いている)」

黒田の心臓が、高鳴った。

それは、黒田自身が、この国の経済改革における「次の課題」として、まだレオンハルトにすら提示していない、最も核心的な「弱点」だった。

今の「王室手形(V2.0)」の価値は、レオンハルトの「王権」と、黒田哲也という「学者」個人の「信用」によって、かろうじて担保されている。もし黒田が死ねば、このシステムは一気に崩壊しかねない。

属人的な信頼トラストから、非属人的な制度システムへの移行。それこそが、近代経済の入り口だった。

(京堂大の、あのパラ経の学生どもには、このシステムの『脆弱性』は到底理解できまい)

(だが、ヤツは、俺と同じレベルで、この国の経済システムを『分析』している!)

黒田は、現実世界での「孤独」を思い出していた。

自分の「理論」の面白さを、その「美しさ」を、本気でぶつけ合える同僚ライバルが、あの大学にはいなかった。

今、この異世界で、初めて「対等な知性」からの「コンタクト」を受けている。その事実に、黒田は、学者としての純粋な高揚感を禁じ得なかった。

「教授! 黙ってどうした!」

レオンハルトの切迫した声が、黒田を思考の海から引き戻した。

「ああ、失礼」

黒田は、興奮を抑え、いつもの「教授」の顔に戻った。

「二人とも、落ち着いてください。これは『罠』である可能性は高い。バルガス団長の言う通り、時間稼ぎかもしれません」

「だろう!」

「ですが」と黒田は続けた。「これが『本物のシグナル』である可能性も、捨ててはいけません」

黒田は、作戦室の黒板に向かい、チョークを手に取った。

「ゲーム理論において、敵が『合理的なプレイヤー』であると仮定するなら、この『提案』は、極めて理にかなっている」

「理にかなっている、だと?」

「ええ。エコノミストは、おそらく、我々が『ブラフ(偽情報)』で時間稼ぎをしたことに、気づいたのです」

レオンハルトが「気づいた?」と息を飲んだ。

「そうです。敵は、宰相オーレリアスからの『アデニアは自滅寸前』という情報を受け取り、『待機』を選んだ。だが、我々は『自滅』するどころか、偽札を『信用買い』し、ハイウェイという大規模な『公共事業』まで始めた」

黒田は、黒板に二つの国の経済成長グラフ(のようなもの)を描き始めた。

「敵は『再計算』したのです。『黒田哲也アデニアは、こちらの待機の意図を読み、逆にこちらの時間を利用して、内政、経済基盤を凄まじい速度で固め始めた』と」

「敵は悟った。このまま黒田に『時間』を与え続ければ、アデニア王国は、軍事力ではなく『経済力』で、魔王軍の占領地すら凌駕する強国になる、と」

「だから、敵は戦略を変更したのです。『待機』から『交渉』へ。我々が『完成』する前に、アデニアを自国の『経済圏(市場)』の『一部』として、組み込もうとしている」

バルガスが、拳を机に叩きつけた。

「ふざけた話だ! 奴らの経済圏だと? 奴らに『利』を与えることなど、断じて許さん!」

「もちろん、協定など結びませんよ、団長」

黒田は、バルガスの「精神論」ではなく「プライド」を尊重するように、静かに頷いた。

「ですが、この『交渉のテーブル』という『新しいゲーム』には、乗ってやる価値がある」

「どういう意味だ?」とレオンハルトが尋ねた。

「敵は、我々に『情報』を与えてきました。『魔王は管理されている』『自分は学者だ』と。これは『シグナル』です。我々も、オーレリアス宰相を通じて、敵に『シグナル』を返すのです」

黒田は、羊皮紙とペンを取った。

彼は、オーレリアスが魔王軍の連絡役に渡す「次の報告書」を、自ら書き始めた。

「教授、それは」

「宰相に、こう『報告』させましょう」

黒田が書きつけた内容は、こうだった。

『黒田顧問、貴殿らの提案に激怒。

王国の経済力に絶対の自信を持ち、協定を一蹴。

曰く「魔王を管理する程度の知性では、私(黒田)の“次の手”は読めまい。脆弱性? それすらも、私の『計画デザイン』のうちだ」と』

レオンハルトが、その文面を見て、ゴクリと唾を飲んだ。

「教授、これは……あまりに、挑発的では?」

「ええ。『挑発』であり、『テスト』です」

黒田は、現実世界で出会えなかった「ライバル」の顔を思い浮かべ、獰猛な学者の笑みを浮かべた。

「もし、お前が本当に『学者エコノミスト』なら、この『挑発』の裏にある、私の『合理的な意図』に気づくはずだ」

黒田の意図、それは「敵の反応を試し、さらなる情報を引き出す」こと。そして「こちらの内政(脆弱性の克服)のための『時間』を、さらに稼ぐ」ことだった。

「(お前の『正体』が何であれ、私に『対話ゲーム』を仕掛けてきたことを、後悔させてやる)」

黒田は、まだ見ぬ敵との「知性S+」同士の「対話」が始まったことに、京堂大(パラ経)の講義では決して得られなかった、最高レベルの「高揚感」を覚えていた。



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