第三十話:組織と「魔王の“正体”」
アデニア王国の経済は、黒田哲也という「エンジン」によって、凄まじい速度で回り始めていた。
「王都=ドワーフ間ハイウェイ」の貫通は、その象徴だった。「労働」が「カネ(手形)」を生み、「カネ」が「物流」を生み、「物流」が「新たな富(鉄と小麦)」を生み出す。この「経済の循環」を、農務大臣を筆頭とする古い体制の者たちも、認めざるを得なくなっていた。
黒田の立案した「公共事業」は、今や王国の最優先政策となり、王都の西門(ドワーフ方面)だけでなく、東門(農村地帯)、南門(港方面)へと、複数の「ハイウェイ整備プロジェクト」として急拡大していた。
その日、黒田は、東門のプロジェクト現場をレオンハルトと共に視察していた。
だが、現場の空気は、西門が貫通した時のような「熱気」とは程遠く、どこかギスギスとしていた。
生産性が、悪い。
黒田は、フィールドノートにペンを走らせながら、眉をひそめた。
労働者(元・失業者や軽犯罪者)たちは、確かに働いている。だが、その動きは「日当(手形)」のためだけ、という義務的で、非効率なものだった。
そこへ、この東門プロジェクトの「現場監督」を(不本意ながら)任されていた、騎士団長バルガスが、怒鳴り声を上げながらやってきた。
「貴様ら! まただ! 決められた手順書を無視しおって! なぜ石の大きさを揃えんのだ!」
「へい。ですが団長。こっちの石の方が、近くて運びやすいんで」
「うるさい! 規律こそが全てだ! 西門の成功例を、なぜそのまま真似できんのだ!」
バルガスは、黒田の「経済学」に一定の理解、あるいは畏怖を示してはいたが、根は「軍人(精神論)」だった。彼は、西門プロジェクトの「成功マニュアル」を作り、それを東門の労働者たちに「遵守」させようとして、強烈な「抵抗」にあっていたのだ。
レオンハルトが、黒田に耳打ちした。
「教授。どうやら、バルガスの軍隊式マネジメントは、彼ら労働者と相性が悪いようだ」
「ええ」黒田は頷いた。「当然の帰結です」
バルガスが、黒田たちに気づき、頭を掻きながら近づいてきた。
「教授。見ての通りだ。西門の連中と違って、ここの連中は質が悪い。規律を守らん」
「団長」黒田は、呆れたように、しかし「講義」を始められることに少し嬉しそうに言った。
「あなたの経営戦略は、根本的に間違っています」
「経営だと? 俺は軍を率いている!」
「いいえ」黒田は、労働者たちを指差した。「彼らは兵士ではありません。経済合理性で動く、労働者です」
黒田は、バルガスに「小話」という名のケーススタディを始めた。
「団長。あなたは、西門の成功マニュアルを押し付けている。それは合理的に見えます。
ですが、西門と東門では前提条件、リソースが違います。西門はドワーフの石工技術という高度な資本がありましたが、東門には未熟な労働力しかない。
それなのに同じ結果を同じ手順で求めるのは、経済学的には非効率の極みです」
「では、どうしろと! 好き勝手にやらせろと!」
「違います。インセンティブをデザインし直すのです」
黒田は、現場の労働者たちを集めさせた。彼らは、またバルガスに「精神論」を説教されるのかと、うんざりした顔をしている。
黒田は、彼らの前に立つと、静かに言った。
「諸君。私は、諸君の規律には一切興味がない。興味があるのは結果、つまり生産性だけだ」
黒田は、東門の街道地図を広げた。
「そこで、今日から評価制度を変える。
今までは『一日働けば、手形一枚』という固定給だった。
これからは、『十メートルの石畳を、完璧に敷設するごとに、手形一枚』という成功報酬とする」
労働者たちが、ざわめいた。
「十メートルで一枚だと?」
「それ、急げば一日で二枚いけるぞ!」
黒田は続けた。
「ただし」と、彼はバルガスを見た。「『完璧に』というのが条件だ。石の強度が足りない、並べ方が雑など、品質が団長の軍事基準に達していない場合、その十メートルはゼロと査定し、報酬は出ない」
バルガスの目が、カッと見開かれた。
なるほど。俺(軍)が品質の決定権を握り、連中(労働者)が速度を競うのか。
黒田は、最後に「アメ」を加えた。
「そして、最も早く、最も美しい十メートルを達成したチーム(班)には、その日の日当(手形)とは別に、これを授与する」
黒田が掲げたのは、カネ(手形)ではなかった。
それは、ただの青銅で作られた、粗末な「メダル(勲章)」だった。そこには、黒田がデザインした「王国の道」の紋章が刻まれている。
「『王室ハイウェイ功労メダル』だ。名誉だ」
労働者たちは、最初、そのただの金属片を馬鹿にした。
だが、その日の午後。
「おい! あっちの班が、もう十メートル達成しそうだぞ!」
「馬鹿野郎! 速度だけじゃダメだ! 団長(監査役)にやり直しさせられるぞ!」
「くそっ、あそこの親方、元・石工かよ! 並べ方がウマい!」
「固定給(精神論)」の下ではダラダラと働いていた彼らが、「成功報酬」と「非金銭的報酬(名誉という名の競争)」というゲームのルールを与えられた途端、凄まじい生産性(熱量)で、自ら工夫を始めたのだ。
バルガスは、自らの「規律」よりも、黒田の「経済学(ゲームのルール設計)」の方が、遥かに効率的に人間(組織)を動かす様を、呆然と見つめていた。
その夜。作戦室。
東門プロジェクトの「生産性倍増」の報告を受け、レオンハルトは素直に賞賛した。
「見事だ、教授。もはや、この国であなたの経済学に異を唱える者は、誰もいまい」
「そうだと、いいのですがね」
黒田は、フィールドノートを閉じながら、浮かない顔をしていた。
「レオンハルト殿。我々が内政、ハイウェイ整備に熱中している、この時間。
敵もまた、待機しながら思考していることを、忘れてはいけません」
その時、作戦室の扉が、慌ただしくノックされた。
入ってきたのは、宰相オーレリアス(二重スパイ)付きの「監視役」だった。
「緊急報告! 先ほど、オーレリアス公が、魔王軍の連絡役と接触!」
「何!?」
「これが、魔王軍からオーレリアス公に渡された、次なる指示です!」
監視役が差し出した羊皮紙を、レオンハルトがひったくるようにして開いた。
その内容に、レオンハルトは絶句した。
「なんだ、これは」
黒田が、横から羊皮紙を覗き込む。
そこに書かれていたのは「軍事侵攻」の命令ではなかった。
それは、極めて合理的で、そして紳士的な文面で書かれていた。
「『アデニア王国、黒田哲也顧問へ』?」
黒田は、自分宛であることに眉をひそめた。
「『貴殿の王室手形による経済再建、見事である。
だが、その信用は、小麦と貴殿個人の属人的なものに依存しており、脆弱だ。
我が主は、貴殿の知性を高く評価し、こう提案されている。
軍事を止め、両国の経済協定を結ばないか、と。
ついては、我が主の正体について、一つの情報を開示する』」
羊皮紙の最後には、オーレリアスが、恐怖に震える手で書き写した、連絡役からの「伝言」が記されていた。
『我が主は、魔王ではない。
我が主は、魔王(という非合理な恐怖)を管理し、
この大陸に合理的な経済圏をデザインしようとしている、
あなた(黒田)と『同じ』学者だ』




