第28話:「血管」への投資
アデニア王国は、不思議な平穏と熱気に包まれていた。
魔王軍は「アデニア王国は自滅する」という偽情報を信じ、国境線で沈黙を続けている。黒田が宰相オーレリアスを通じて流させたブラフが、見事に機能していた。
そして国内では、黒田が仕掛けた「王室手形(V2.0)」への全量交換、つまり「信用買い」という荒業によって、国民の王家、特にレオンハルトと黒田に対する「信用」が、熱狂的なレベルで高まっていた。
作戦室。黒田哲也は、彼が手に入れた二つの原資、すなわち「時間」と「信用」を前に、アデニア王国の巨大な地図を広げていた。
「さて、レオンハルト殿、バルガス団長」
黒田は、集まった二人の生徒に、いつもの講義を始める口調で言った。
「信用というインフラは固まりました。次は、この信用、王室手形という名の血液を、王国の隅々にまで送り届ける血管に、投資する番です」
黒田は、チョークで地図上の王都と、地方の点在する町や村を繋ぐ、細く途切れがちな線、つまり街道をなぞった。
「物流網、か」
レオンハルトは、すぐに黒田の意図を察した。だが、その表情は険しい。
「教授。この国の街道は、魔王軍の侵攻以前から、機能不全に陥っている。馬車の輸送コストが高すぎて、小麦や鉄は王都の周辺でしか取引されない。地方は疲弊しきっている」
「フン」バルガスが、レオンハルトの言葉を引き取った。
「だから非効率だと言うのだ。あの農務大臣めは『農は国の大本』などと言いながら、地方で収穫された小麦が腐るか山賊に奪われるのを、放置してきた。街道を整備するカネがない、と」
「それです」
黒田は、バルガスの言葉に強く頷いた。その目には、いつもの経済学への熱が宿っている。
「『カネがないから、整備できない』。
それこそが、この国を滅ぼす、宰相の重商主義や団長の精神論と同じくらい、有害な固定観念ですよ」
「なんだと?」
「レオンハルト殿。逆です。
整備しないから、カネが生まれないのです」
黒田は、熱っぽく語り始めた。彼は学者として、この最も初歩的で、最も重要な経済成長の概念を、目の前の王と将軍に叩き込む必要があった。
「街道は、単なる道ではありません。
これは、国という身体に栄養を運ぶ血管です。
今の王国は、心臓である王都の周りだけ血流、つまり経済があるが、手足である地方には血が通わず壊死している状態だ」
黒田は、現実世界のケインズやニューディール政策の名こそ出さなかったが、その理論をこの世界に実装しようとしていた。
「我々が今、この血管、つまり街道整備に投資、すなわち公共事業をすれば、何が起きるか。
第一に、地方の小麦や鉄が、安いコストで王都に届く。王都の物価は安定します。
第二に、王都の手形、つまりカネが、地方の農民に適正価格で渡る。地方が潤います」
「理屈はわかる!」レオンハルトは声を荒げた。「だが、その最初の一振りである投資のカネ、手形はどこにある!? 王家の備蓄(V2.0の手形)は、信用買いでほとんど吐き出してしまったぞ! また紙を刷るのか!? それこそ自滅、ハイパーインフレだ!」
「刷りませんよ」
黒田は、レオンハルトの王としての合理的な不安を、優しく、しかしきっぱりと否定した。
「財源は、既に『ある』からです。
レオンハルト殿。国の富、GDPとは、金の量でも、手形の印刷枚数でもありません。
その国に住む人間が、一年間に生み出す価値、つまり労働の総量です」
バルガスが「誰のことだ?」と眉をひそめた。
「今、この王都に価値(労働)を生み出せず、燻っている人的資源が、どれだけあるか、ご存知ですか?
新ギルド、王立リスクマネジメント組合のマンパワー。ドワーフの石工技術。
そして何より」と黒田は続けた。
「偽札事件で捕らえた軽犯罪者たち。仕事を失い、日銭を稼ぐために盗みを働くしかなくなった、元・旧ギルドのならず者たち。
彼らです」
バルガスが「犯罪者を罰するのではなく、使うというのか!」と色めき立つ。
「罰ではありません! インセンティブ、報酬を与えるのです!」
黒田の熱量が、再び爆発した。
「彼らに街道整備という労働を命じます。そして、その労働の対価として、我々は新規に発行した王室手形(V2.0)で、日当を支払うのです!」
レオンハルトは、ハッとした。
「ま、待て、教授。それはカネを刷ることでは」
「違います!」
黒田は、レオンハルトの肩を掴まんばかりの勢いだった。
「我々が手形を発行する根拠、裏付けは、もはや小麦ではない! 彼らの労働そのものです!
彼らは労働で手形、カネを得て、そのカネで市場のパンを買う。
市場はパンが売れて潤い、そのパン屋は小麦を仕入れるために農家にカネを払う!
農家はカネが手に入ったから、今度は鉄のクワを買う!
わかりますか!? 経済が回る!!」
黒田が語っているのは、カネがカネを生むという金融政策ではない。「労働」、すなわち雇用が「需要」を生み出し、その「需要」が「次の生産」を生み出すという、経済の最も原始的で、最も力強い循環の設計図だった。
パラ経の学生どもは、この循環を理論として知っているだけで、何も生み出さなかった。だが、ここの人々は知らずに実践できる。
黒田は、興奮を抑え、学者の顔に戻った。
「もちろん、全国一斉などという非効率なことはしません。まずはプロトタイプ、試験施工です」
黒田は、地図上の王都とドワーフの国を繋ぐ、一本の太い線を引いた。
「今ある資源、ドワーフの技術を使い、最もリターン、つまり鉄と塩の交易コスト削減が大きい、この幹線道路、ハイウェイから着手します。
これこそが、アデニア王国経済再生ニューディールの第一歩です」
レオンハルトとバルガスは、目の前の学者が描く壮大な設計図、労働そのものを財源に変えるという錬金術に、もはや反論の言葉もなく、ただ圧倒されていた。
数日後。黒田が立案した「王都=ドワーフ間 ハイウェイ整備プロジェクト」は、元・軽犯罪者や失業者たちを労働者として雇用し、黒田の指揮下で着々と進み始めていた。
黒田は、現場の監督というよりは、やはり学者として、人々がインセンティブ、つまり日当の手形を得て働く様子を、フィールドノート片手に満足げに「観察」していた。
そこへ、現場監督を任せていた新ギルドの男、元・冒険者が、頭を掻きながらやってきた。
「教授! 現場は順調ですが、一つ、くだらん問題が」
「なんでしょう」
「休憩所の水です。水瓶は共有なんですが、誰も汲みに行きたがらない。一番近くの川まで、往復十五分もかかるんで」
「なるほど」
「誰が汲むかで毎日罵り合い。挙句、水がなくなって作業が止まる始末です。当番制にしても、皆サボろうとする。どうします?」
黒田は、その報告を聞いて、ニヤリとした。
京堂大のゼミ室でも見た光景だ。「誰かがやるだろう」と、ゴミが溜まっていく。
「典型的な『コモンズ(共有資源)の悲劇』ですね」
黒田は、現場監督に「当番制(計画経済)」という非効率な手段を禁じた。
「いいですか。今すぐ水汲み専用の桶を二つ用意してください。そして、看板を立てる」
「看板?」
「ええ。『この桶で、川から水を満たし、水瓶を満タンにした者には、追加報酬として、パン一つを支給する』と」
現場監督は「はあ?」と、その報酬の安さに拍子抜けした。
だが、その看板が立った瞬間。
「水だ! 俺が汲む!」
「抜け駆けすんな! 俺が先だ!」
今まで面倒な雑用、コストでしかなかった「水汲み」が、労働者たちにとって「パン一つ」のリターンを得られる、魅力的なサイドビジネス、インセンティブに変わった。
休憩所の水瓶は、常に満タンになり、喧嘩はピタリと止んだ。
人間は、本当に合理的だ。
黒田は、自分の理論が、現実世界のゼミ室の掃除当番よりも、よほど素直に、美しく実装されていく異世界の現場を、心から愛おしく思っていた。




