第26話:偽札と「信用のデザイン」
魔王軍が「アデニア王国の自滅」を期待して沈黙し、黒田は貴重な『時間』を手に入れた。
バルガス団長に「ピーク・エンドの法則」を語った翌日、黒田は、学者の癖が抜けず、再び城下町のフィールドワーク、という名の散歩に出ていた。
彼は、現実世界では「理論」を語る相手に飢えていたが、根は「人間観察」が好きな学者だった。人々が何を合理的と信じ、何を非合理的に行動するのか。それを眺め、フィールドノートに書き留めることこそが、彼の最大の喜びだった。
偉そうに「論破」などと口にしているが、本当は、これ、つまり観察がやりたかっただけなのだと黒田は一人苦笑いする。
彼が導入した「王室手形(小麦引換券)」は、城下町に確実な変化をもたらしていた。
最悪の物々交換は消え、価値が暴落した銅貨と、確実な価値を持つ「手形」が、ぎこちなくも併用され始めている。市場には、以前の「死」のような停滞感ではなく、かろうじて「経済が回っている」という脈動が戻りつつあった。
パン屋の店主が、客から「手形」を受け取り、それを隣の八百屋への支払いに使っている。
よしよし、と黒田は頷く。交換、トランザクションが成立している。信用が、道具として機能し始めた。
黒田が、その「小さな成功」に安堵の笑みを浮かべた、その時だった。
「待ちな! お前さん!」
市場の広場に、怒声が響いた。
見ると、布地の商人が、旅人風の男の胸ぐらを掴んでいる。
「この『手形』! よくも見せてくれたな! こいつは『ニセモノ』だぞ!」
黒田の背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。
「ニセモノだと!?」
「ああ! 王家の紋章(透かし)が、滲んでらぁ!」
「こっちの商人からも、昨日『ニセモノ』が出たって話だ!」
「まさか。また『銅貨』みたいに、ただの『紙切れ』に戻っちまうのか」
「偽札」。その一言が、市場に集う人々の間に、一瞬で「信用不安」という名のウイルスを伝播させていく。
人々は、手持ちの「王室手形」を慌てて確認し始め、互いの顔を疑心暗鬼で見つめ合った。
黒田が、レオンハルトと共に、ゼロから「デザイン」し、積み上げようとしていた「信用」という名の城が、足元から崩れ落ちていく音がした。
王城の作戦室。
レオンハルトは、黒田が持ち帰った「偽の手形」を机に叩きつけ、激怒していた。
「許せん。教授が心血を注いでデザインした『信用』を、踏みにじる行為だ! バルガス! 今すぐ城下の衛兵を総動員し、犯人(偽造団)を根こそぎ捕らえろ! 見せしめに」
「お待ちください、レオンハルト殿!」
黒田は、レオンハルトの言葉を、珍しく強い口調で遮った。
だが、その声は「怒り」や「焦り」ではなく、まるで研究室で「最も興味深いテーマ」に直面したかのような、奇妙な「熱」を帯びていた。
面白い。黒田はそう思った。
京堂大の、あのパラ経の学生たちが提出した、コピペと誤字だらけの卒論に比べれば、なんと「知的」で「悪意」に満ちた「作品」だろうか。
「教授? 面白くなどない!」
「いいえ、面白いですよ!」
黒田は、興奮を隠さずにレオンハルトに向き直った。
「彼らは、なぜ『偽の手形』を作ったか?
それは、この『手形』が、偽物を作ることが儲かる、と判断されるほどに、『信用』された証拠です!」
黒田は、まるで水を得た魚のように、熱っぽく語り始めた。これは彼の「優しさ」の根幹だった。彼は「人間(犯人)」を罰することに、一切興味がなかった。
「レオンハルト殿! あなたが今しようとしているのは『対症療法』です! 犯人を捕まえ、罰する。バルガス団長の『精神論』と同じです!
だが、この『偽札』という『バグ(問題)』を生み出したのは、誰か?
この『システム』をデザインした、私です!」
黒田は、偽の手形を掲げた。
「この偽造団は、私の『想定』が甘かったことを、見事に突きつけてくれた『優秀なテスター』ですよ!」
あのパラ経の学生たちのことを思い出す。いや、今はいい。
黒田の「学者」としての熱量が、爆発していた。
「犯人捜しという『罰』に、我々の貴重な『人的資源(衛兵)』を割くのは、無駄、機会費用の極みです! 我々が今すべきは、システム、つまり手形そのものの『アップデート』!
彼ら偽造団が、二度と『偽物を作るコスト(費用)』と『利益』を釣り合わせられないレベルまで、この『手形』の『デザイン』を、完璧に作り直す!」
「デザインを、作り直す?」
「そうです!」
黒田は、作戦室の黒板に、羊皮紙(手形)の図を描き殴った。
「今のデザイン、バージョン1.0は、急ごしらえで『信用』の確立を急いだ。だが、敵(偽造団)は、その『脆弱性』を突いてきた!
ならば、バージョン2.0は、『偽造防止』に全リソースを振り分ける!」
黒田は、現実世界(日本)で、なぜ紙幣があれほど複雑なデザインをしているかを思い浮かべながら、チョークを走らせた。
「第一に、『透かし』の複雑化! 今の『紋章』だけでは甘い! レオンハルト殿の『肖像』を、ドワーフの技術でしか描けないレベルの『精密画』として刷り込む!」
「第二に、『シリアルナンバー(通し番号)』の導入! 全ての手形を『個別管理』できるようにする!」
「第三に、『インク』の変更! 王室、あるいはドワーフしか入手できない『特殊なインク』を開発・使用する!」
黒田は、まるで自分の専門分野(経済学)の「美しさ」を証明するかのように、目を輝かせてレオンハルトに迫った。
「レオンハルト殿。経済学とは、人間の『インセンティブ(動機)』をデザインする学問です。
『悪いことをするな』と説教(精神論)するのではなく、
『悪いことをすると(バレて罰せられるから)割に合わない』『悪いことをするより(偽造するより)、真面目に手形を使った方が儲かる』
そういう『仕組み(システム)』を作ることこそが、私の、私たちの『仕事』でしょう!」
レオンハルトは、黒田の凄まじい「熱量」に気圧され、そして、心の底から安堵した。
そうだ。彼は、こういう男だった。
人を「罰する」ことにではなく、人を「活かす」ための「仕組み(理論)」にこそ、命を燃やす学者なのだ。
「わかった」
レオンハルトは、黒田の熱に、自らの「王」としての熱を重ねた。
「教授。すぐにドワーフの国へ、使者を飛ばそう。最高の『職人』と『インク』を! 衛兵の仕事は、犯人捜しではない! この『新しい手形(バージョン2.0)』が完成するまで、市場の混乱を『抑える』ことだ!」
黒田は、満足げに頷いた。
偽造団か。感謝はしないが、おかげで「次の課題」が見えた。
黒田は、新しいチョークを握りしめ、夜を徹して「最強の偽造防止デザイン」の設計図を描き始めた。
その姿は、京堂大(パラ経)で燻っていた頃の「不遇の学者」ではなく、自らの「理論」を「実践」できる喜びに満ちた、一人の「創造者」そのものだった。




