第25話:「焼き立て」のインセンティブ
魔王軍の背後にいる「敵」との情報戦は、黒田哲也の仕掛けた「ブラフ(偽情報)」によって、奇妙な膠着状態に入った。
敵は「アデニア王国の自滅」を期待し、積極的な軍事侵攻を停止。
黒田は、敵が「待機」を選んでくれたことで得られた、最も貴重な資源――『時間』――を手にしていた。
「(現実世界(パラ経)の学生どもは、時間を『浪費』することしか知らなかったが……)」
黒田は、王城の回廊を、ゆっくりと「散歩(という名のフィールドワーク)」しながら、思考を巡らせていた。
「(この『時間』こそが、我々が『内政改革』を断行するための、唯一の『資本』だ)」
彼が「王室筆頭顧問」となってから、城内の空気は確実に変わった。
以前は「学者風情が」と侮蔑と敵意を向けてきた騎士や兵士たちが、今や黒田の姿を認めると、戸惑いながらも、ぎこちなく敬礼をしてくる。
彼らの「固定観念」が、黒田の「実績」によって、少しずつデザインし直されている証拠だった。
中庭の訓練所を通りかかると、ちょうど休憩時間だったのか、騎士団長バルガスが、部下たちと汗を拭っているところだった。
バルガスは、黒田の姿を認めると、あの「脳筋」と揶揄した頃の敵意とは違う、複雑な(そして少し困惑した)表情で、無骨な腕を組んだ。
「……黒田教授」
「お疲れ様です、団長。訓練ですか」
「フン。貴様と違って、我々は『実戦』の準備を怠るわけにはいかんのでな」
軽口を叩きつつも、バルガスは黒田から視線を外さない。彼は、ずっと疑問に思っていたことを、ついに口にした。
「教授。一つ、ずっと腑に落ちんことがある」
「ほう。なんでしょう」
「……あの、『食堂』のことだ」
バルガスの口から「食堂」という、およそ彼に似つかわしくない単語が出たことに、黒田は少し意外な顔をした。
バルガスは、部下たちに聞こえないよう、声を潜めた。
「若の報告では、貴様の『改革』とやらで、食堂の小麦の『廃棄量』が3割も減ったという。……それは、いい」
「……」
「だが、解せんのはここからだ。普通、『量が減れば』兵士どもは不満を垂れるはずだ。だが、ウチの連中(部下)ときたら、『量が減った』と文句を言うどころか……あろうことか、『最近、メシが美味くなった(気がする)』などと、寝ぼけたことを抜かしおる」
バルガスは、心底「解せない」という顔で、黒田を睨みつけた。
「……貴様、いったい、どんな『魔法』を使った?」
黒田は、バルガスのその「問い」を聞いて、現実世界(パラ経)の学生には決して見せなかった、純粋に楽しそうな(そして、少し意地悪な)笑みを浮かべた。
「魔法? 違いますよ、団長」
彼は、まるでゼミの「補習」でも始めるかのように、ゆっくりと話し始めた。
「あれは、純粋な『経済学』です。――あの時、私が最初にしたことを覚えていますか?」
数週間前。黒田は、レオンハルトと共に、兵士の食堂を「エスノグラフィー(行動観察)」していた。
彼は、一言も発さず、ただ兵士たちの「行動」を、万年筆でフィールドノートに書き殴っていた。
観察①: 兵士は「直径30センチ」はあろうかという「大皿」を手に取る。
観察②: 入口すぐ(一番取りやすい場所)に山積みされたパンを、その大皿に「落ちる寸前」まで山盛りにする。(「取れるだけ取らないと損」という心理)
観察③: 席に着くが、結局食べきれず、パンの半分近くを「廃棄用」の桶に捨てている。(サンクコスト(もったいない)が機能していない)
「団長」と黒田は、バルガスに向き直った。
「あなたの『精神論』ならば、兵士たちにどう命令しましたか? 『食べ残すな!』『貴様らには根性が足りん!』と叱責したでしょう。あるいは『残したら罰金』という『合理的な罰』を与えたかもしれない」
「うむ。当然だ」
「だが、その『コスト』を考えたことがありますか? 兵士たちの『士気』です。彼らは『罰』を恐れて食事をし、あなたの『精神論』にうんざりする。あなたは『小麦』を節約する代わりに、この国で最も重要な『人的資源(兵士の忠誠心)』を失うことになる」
「ぐっ……」
「だから、私は『罰』ではなく『デザイン』で解決した」
黒田は、指を一本立てた。
「まず、① 皿のサイズを『一回り小さく』させました。
人間の満腹感とは、面白いものでね。皿に『山盛り』であれば、たとえその皿が小さくとも、『十分食べた』と脳が満足しやすいのです。そして、もし足りなければ『おかわりに行く』という『手間』が発生する。この『小さな手間』が、無駄な『もう一口』を防ぐのです」
「……小賢しい」
「次に、② パンの置き場所を、食堂の『一番奥(取りにくい場所)』に移動させました。
入口に置けば、人は『ついでに』取ってしまう。ですが、奥に置けば、その数歩を『歩く』という『手間』が発生する。『本当に』パンが食べたい兵士だけが、パンを取りに行くようになる。これだけで、『なんとなく』の廃棄は劇的に減ります」
バルガスは、腕組みをしたまま唸った。
「……わかった。貴様の言う『小賢しいカラクリ』で、廃棄が減った理屈はわかった。だが、それだけでは『美味くなった(気がする)』という理由にはなるまい!」
「ええ」
黒田は、待ってました、とばかりに頷いた。
「そこが、今回の『講義』のキモすよ、団長」
「私が、あの食堂長に『追加』で指示した、たった一つの命令を、お教えしましょう」
黒田は、バルガスに顔を寄せ、声を潜めた。
「『パンを一気に100個焼くな。20個ずつ、常に『焼き立て』の匂いが途切れないように、時間差で焼け』――と」
「……は?」
バルガスは、あまりに拍子抜けした「戦術」に、呆気にとられた。
黒田は、満足げに続けた。
「団長。人間の『満足度(幸福)』とは、『総量』では決まらないのです。
その体験で『最も印象的だった瞬間』と、『最後の印象』。この二つで、記憶(評価)のほぼ全てが決まる」
「これは『ピーク・エンドの法則』と呼ばれる、人間の『非合理』な本質です」
「兵士たちにとって、食堂に入った瞬間に漂う、あの『パンの焼き立ての匂い(=ピーク)』! そして、実際に口にしたパンが(冷めて固いものではなく)『温かい(=エンド)』!
彼らは『皿が小さくなった(かもしれない)』という事実よりも、『ここのパンは美味い』という強烈な『印象』を記憶するのです」
黒田は、結論を告げた。
「結果、どうなったか?
小麦の『総コスト(使用量)』は3割削減できたのに、兵士の『士気(満足度)』は、なぜか以前より上昇した。
――これが、私の『経済学』です。資源を最小化し、利得を最大化する。団長の『精神論』より、よほど『合理的』だと思いませんか?」
「…………」
バルガスは、何も言い返せなかった。
彼は、目の前の「学者」が、剣も魔法も使わずに、自分の部下たちの「心(士気)」を、小麦の「原価」と同時に、いとも容易く『操作』してみせた事実に、ただ戦慄していた。
「……学者という生き物は」
バルガスは、絞り出すように言った。
「まこと、気味が悪い」
その表情は、もはや「敵意」ではなく、「理解不能なものへの畏怖」に変わっていた。
黒田は、城内の「固定観念」が、また一つ、音を立ててデザインし直されたことを静かに実感していた。




