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第23話:魔王の「ポートフォリオ」


宰相オーレリアス公爵の執務室は、死んだような沈黙に包まれていた。

重厚なマホガニーの扉は、黒田が呼んだ「王立リスクマネジメント組合(新ギルド)」の密偵スカウトたちによって、外側から固く守られている。

室内にいるのは、黒田、レオンハルト、そして――すべてを失った顔で椅子に座り込む、オーレリアス公爵、ただ三人。

「(……狂っている)」

レオンハルトは、先ほどの宰相の「告白」――自らの経済理論(重商主義)への殉教――を反芻し、未だに怒りと混乱から抜け出せずにいた。「きん」という「観念」のために、生身の国家を魔王に売り渡そうとした男が、理解できなかった。

「レオンハルト殿」

黒田は、この異様な状況下で、ただ一人、冷静な「学者」の顔を保っていた。

「彼を『反逆罪』で裁くのは、簡単です。ですが、先ほども申し上げた通り、それは『最善手』ではありません」

「しかし教授!」レオンハルトが声を荒げる。「こいつは……!」

「こいつは、もはや『宰相』ではありません」

黒田は、オーレリアスを冷ややかに見下ろした。

「彼は、我々の『ゲーム』の盤上から、既に関係者プレイヤーとして『退場』した。……今は、我々が動かす『アセット』の一つに過ぎません」

オーレリアスが、その言葉に「なにを……」と顔を上げた。

黒田は、オーレリアスの机に両手をつき、まるで学部生に「最終通告」を突きつける教授のように、静かに、しかし冷徹に語りかけた。

「宰相閣下。あなたは、壮大な『勘違い』をしている。

第一に、あなたは魔王軍を『きんの価値を理解する、秩序ある組織』だと信じ込んだ。

第二に、あなたは我々(レオンハルトと私)を『紙切れ経済(幻想)に狂った愚か者』だと見下した」

「……」

「結果は? あなたが魔王軍に流した『ルートA』の情報。あれは、あなたを炙り出すための『嘘』でした。あなたが見下した『学者』が仕掛けた、単純な『罠』です」

オーレリアスの顔が、怒りで赤く染まる。

「あなたは、その『罠』に、自らの『理論(重商主義)』への狂信ゆえに、いとも容易く飛び込んだ。

――魔王軍(あなたの雇い主)は、どう思うでしょうね?」

黒田は、決定的な一言を放った。

「私が、魔王軍に『宰相オーレリアスは、最初から私(黒田)と通じていた二重スパイ(ダブル・エージェント)だった』と、その『証拠(=今回の作戦の全容)』と共に伝えたら?」

「!!」

オーレリアスの血の気が、今度は恐怖で引いていく。

「あなたは、我々(アデニア王国)からは『反逆者』として。

魔王軍からは『裏切り者(三重スパイ)』として。

……両方から、追われる身となる。あなたの信じた『きん』も、あなたの『家名』も、あなた自身を守る『理論』も、何一つ残らない」

黒田は、京堂大(パラ経)の学生を相手にする時には決して見せない、冷酷なまでの「合理的」な笑みを浮かべた。

「『ゲーム理論』における、あなたの『最適戦略(生き残る道)』は、もう一つしか残されていませんよ、宰相閣下」

オーレリアスは、震える声で絞り出した。

「……なにを、しろと」

「簡単なことです」

黒田は、オーレリアスの机から、一枚の白紙の羊皮紙とインクを取り、彼の前に置いた。

「引き続き、あなたは『宰相』を演じ続ける。

そして、魔王軍の『使者』と接触し、彼らが『欲しがる情報』を流し続ける」

「……私が、流す……?」

「ええ。ただし――流す『情報』は、すべて私が書きます」


オーレリアスの執務室を、厳重な監視(という名の軟禁)下に置いた後、黒田とレオンハルトは、王城の「作戦室」(旧・黒田の研究室)に戻っていた。

レオンハルトは、まだ納得がいかない顔で黒田に詰め寄った。

「教授。本当に、あんな男を『宰相』として城に置いておくのか? 危険すぎる!」

「危険ですか?」

黒田は、作戦室の黒板(もはや経済学の用語で埋め尽くされている)に向かい、チョークを手に取った。

「レオンハルト殿。危険とは『管理マネジメントできないリスク』のことを言います。

オーレリアス公爵は、もはや『危険リスク』ではありません。彼は、我々がインセンティブ(=生存)を完全に把握した、制御可能な『資産アセット』です」

「だが……」

「それよりも」と黒田は、レオンハルトの言葉を遮った。「議論すべきは、そこではありません」

黒田は、黒板に「魔王軍」と大きく書いた。

「オーレリアスは、ただの『症状』にすぎません。我々が戦うべき『病巣』は、もっと根深い。

――レオンハルト殿、バルガス団長。今回の『ゲーム』で、私が最も『眩暈めまい』がするほどの衝撃を受けたのは、宰相の裏切りそのものではありません」

黒田は、オーレリアスが口にした言葉を、黒板に書き出した。

『魔王様こそ、きんの絶対的価値を……真に理解しておられる』

「……これです」

黒田は、その文字をチョークで強く囲んだ。

「これが、何を意味するか、わかりますか?」

レオンハルトと、遅れて合流したバルガス団長(彼は宰相の裏切りに「あの老害め!」と激怒していた)は、怪訝な顔でその文字を見る。

黒田は、まるでゼミで「基礎中の基礎」を教える時のように、ゆっくりと話し始めた。

「魔王軍が、宰相を『買収』する時、何を使ったか。

彼らは『金塊』を積まなかった。

彼らは『土地』を約束しなかった。

彼らは、宰相オーレリアスという人間の『弱点ペイン』を、正確に『分析』していたのです」

「弱点……?」

「そうです。彼の『弱点』とは、『自らの(古い)経済理論(重商主義)が、私(黒田)という(新しい)経済理論によって否定されることへの恐怖』です。

魔王軍は、彼に『イデオロギー(観念)』を与えた。

『あなたの理論は間違っていない』と、承認を与えたのです」

バルガスが、イライラしたように口を開く。

「教授! わけのわからん『観念』の話はいい! 敵は魔王だ! 宰相が裏切ったなら、そいつを使って『偽情報』を流す、それで良いではないか!」

「良くない!」

黒田が、珍しく声を荒げた。

「バルガス団長! 敵が『イデオロギー』で人を動かした。これが、どれほど『恐ろしい』ことか、あなたは理解していない!」

「なっ……」

「敵の戦術は『剣』や『魔法』だけではなかった! 彼らは『心理学』を、『組織論』を、そして……『経済思想史』を『武器』として使ったのです!」

黒田は、黒板を強く叩いた。

「こんな『高度な情報戦』を仕掛けられる人間が、魔王軍の『ただのモンスター』や『脳筋の将軍』であるはずがない!」

黒田の「知性S+」が、敵の「正体」を冷徹に弾き出していく。

「魔王軍は、ただの『軍隊』ではない。

彼らもまた、我々と同じように『経営資源リソース』を管理し、『戦略』を立て、『ポートフォリオ』を組んでいる『組織』です」

黒田は、チョークで「魔王軍」の横に、新しい円を描いた。

「――魔王軍の背後には、必ずいる。

私と『同じ目』で、この世界(市場)を見ている、『誰か』が。

オーレリアスを『重商主義』で釣った、合理的で、冷徹で、そして……恐ろしく『知性』のある……」

黒田は、その円の中に、二文字を書き入れた。

「『学者エコノミスト』が」



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