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第22話:「裏切り者」のインセンティブ


黒田が仕掛けた「ゲーム」の期限、3日目。

王都の空気は、レオンハルトが発した二つの「偽の作戦」――海路(ルートA)と山岳路(ルートB)――の準備という名目で、意図的に緊迫感を高められていた。

王の執務室。黒田とレオンハルトは、一言も交わさず、ただ報告を待っていた。

レオンハルトの表情は硬い。自国の重臣二人を「容疑者」として天秤にかける重圧が、彼の肩にのしかかっている。

一方、黒田は、いつものように(現実世界から持ち込んだ最後のインスタントコーヒーを薄めて飲みながら)、冷徹な学者の目で地図を見つめていた。

扉がノックされ、「王立リスクマネジメント組合(新ギルド)」の密偵スカウトが滑り込んできた。彼は黒田が育てた「情報分析」の訓練を受けた、最初の「卒業生」だった。

「ご報告します」

密偵は、感情を殺した声で告げた。

「『北の山岳路(ルートB)』周辺、及びキャラバンが出発予定だった『秘密備蓄庫』周辺に、魔王軍、及び不審な動きは一切確認できませんでした」

レオンハルトの喉が、ゴクリと鳴った。

最悪の可能性が、一つ消えた。

(農務大臣では、なかった……)

密偵は、報告を続ける。

「――しかし」

緊張が走る。

「『南の海路(ルートA)』の終着点、港町ゼノス。その沖合5キロ地点に、魔王軍『海獣部隊』及び『飛行型魔獣』の大規模な集結を、昨夜より確認」

「……!」

「規模から推察するに、ドワーフの船団(という情報)を待ち伏せ、我が国の海軍ごと叩き潰す準備であると断定。……以上です」

レオンハルトは、怒りのあまり唇を噛みしめ、拳を握りしめた。

「……宰相オーレリアス……か!」

裏切り者が、王国の中枢、国王の次に権力を持つ男であったという事実。それが、レオンハルトの心を激しく揺さぶった。

「教授! 直ちにバルガス団長を呼び、宰相を拘束させる! 反逆罪で……!」

「お待ちください、レオンハルト殿」

黒田は、興奮する若き王代理を、静かに、しかし有無を言わせぬ声で制した。

「今、彼を拘束するのが、最も『合理的』な判断でしょうか?」

「何を言う! 裏切り者だぞ!」

「ええ。ですが、彼は『逃げた』のではなく、未だ『宰相』として城にいる。なぜか?」

黒田は、冷徹に分析する。

「彼は、我々(レオンハルト)が彼を『頼った』と信じているからです。『ルートA』の防衛を一任された、と。彼は今、自分が『ゲーム』の盤上にいることすら気づいていない」

黒田は、立ち上がった。

「申し上げた通り、我々の目的は彼を『罰する』ことではない。『管理マネジメント』することです。そして、そのためには、まず『動機』を確定させねばなりません」

「動機だと? 国を売ったのだぞ!」

「いいえ」黒田は首を横に振った。「彼は、国を『売った(=金銭)』のか。それとも、自らの『理論』のために動いたのか。それを知る必要があります。京堂大(パラ経)の学生ですら、『単位インセンティブ』のために動く。彼ほどの男が、理由なく動くはずがない」

黒田は、レオンハルトに目配せした。

「宰相閣下をお呼びください。名目は『ルートA防衛作戦・最終確認』で」


数十分後。

宰相オーレリアス公爵は、何の疑いも持たず、意気揚々と執務室に入ってきた。

『海軍の指揮権』と『鉄(という富)』が手に入るのだ。彼が信じる「重商主義」の観点からすれば、あの学者(黒田)を出し抜いて、ようやく「正しい政策」が実行されると信じ切っていた。

レオンハルト。海軍の準備は万端に整い……」

そこまで言って、彼は室内の異様な雰囲気に気づいた。

バルガス団長も、護衛の兵士もいない。いるのは、冷たい目で自分を見つめるレオンハルトと、その後ろに立つ「学者(黒田)」だけ。

「……これは、何の冗談ですかな?」

「冗談ではない」

レオンハルトは、努めて冷静に、しかし怒りを込めて言い放った。

「宰相。単刀直入に聞く。『南の海路(ルートA)』の情報を、魔王軍に流したのは貴公か?」

オーレリアスの顔から、血の気が引いた。

一瞬の動揺。

だが、彼は何世代にもわたる大貴族の長だった。すぐに尊大な仮面を取り戻し、玉座のレオンハルトを、そしてその背後の黒田を、侮蔑するように見下ろした。

「……フフ。フハハハ!」

宰相は、突如として高笑いを始めた。

「いつバレるかと思ったが……あの学者ねずみの入れ知恵か? それとも、新ギルドとかいう『ドブさらい』共の報告かな?」

「オーレリアスッ!」

レオンハルトが玉座から立ち上がる。

「なぜだ! 貴公は公爵! 代々、アデニア王国に仕えてきた家門の長であろう! なぜ国を売った!」

「売った?」

宰相の笑いが、ピタリと止まった。

「――違う。私は、この国を『救おう』としたのだ!」

オーレリアスは、すべての怒りと憎しみを、黒田哲也に向けた。

「元凶は、貴様だ! 経済学者、黒田!」

「……」

「貴様が来るまで、この国には『秩序』があった! 我が家が信奉してきた『富の形』があったのだ! 富とは『きん』! 輝き、触れることができ、それ自体が『価値』を持つ、絶対の『現物資産』! それこそが国力だった!」

宰相の演説は、もはや狂信者のそれだった。

「だが、貴様は! この国を『紙切れ(王室手形)』で汚した! 『信用』などという『幻想』で、民を欺いた! あの『小麦手形』が出回ってから、城下の商人どもが『きん』を軽んじ始めたのを、貴様は知っているのか!」

「それが、貴様の『裏切り』の動機か」レオンハルトが絞り出す。

「裏切りではない、と言った!」

オーレリアスは、恍惚こうこつとした表情すら浮かべた。

「魔王軍の使者は言った。『魔王様こそ、きんの絶対的価値を、その輝きを、真に理解しておられる』と!」

「なっ……」

「貴様(黒田)の『紙切れ経済』がこの国を滅ぼす前に、真の『重商主義』を理解する指導者(魔王)によって、この国は『正しく』統治されるべきなのだ! 私は『国』を売ったのではない! 『きん』という『真理』に仕えたまでよ!」

レオンハルトは、あまりの理屈に「……狂っている」と絶句した。

バルガスならば、ここで宰相を斬り捨てていただろう。

だが、黒田は違った。

黒田は、この瞬間、激しい怒りでも、恐怖でもない。

強烈な『眩暈めまい』に襲われていた。

(ダメだ……話が、通じない)

彼は、現実世界(パラ経)で、「理論」を軽んじ「実践インターン」を誇る学生たちにイラついていた。

だが、彼らはまだマシだった。彼らは「単位」や「就職」という、極めて『合理的』なインセンティブに基づいて行動していたからだ。

だが、目の前の男は?

(こいつは『カネ』で裏切ったんじゃない。『300年前の経済理論』に殉教じゅんきょうしようとしている……!)

(アダム・スミス以前だぞ! 京堂大(パラ経)の、あのやる気のなかったA君の方が、100倍『経済学的』に会話できる……!)

黒田は、深い、深いため息をつき、レオンハルトに目配せした。

「宰相。あなたの『理論』は、よくわかりました。実に興味深い、『古典派』以前のサンプルだ」

「なに……?」

黒田は、狂信者オーレリアスに向き直った。

「さて、レオンハルト殿。彼を『罰する』のは、やはり早い」

「教授……?」

「宰相閣下。あなたは今、魔王軍から『信用できる情報源』として、絶大な『信頼』を勝ち取ったところです」

「……どういう意味だ」

黒田哲也は、現実世界では決して見せなかった、冷徹な「ゲーム・プレイヤー」の笑みを浮かべた。

「――引き続き、その『重責』を果たしていただきますよ。我々の、『手』の中で」



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