第21話:逆スパイと「ゲーム理論」
ドワーフの国との新交易路開拓――「塩」と「鉄」の交換(比較優位)の成功。
アデニア王国は、魔王軍による経済封鎖(鉄鉱石ルートの占領)という最大の危機を、黒田哲也の「経済学」によって回避したかに見えた。
王城の祝賀ムードとは裏腹に、黒田が拠点とする城の一室(今や「王室筆頭顧問室」と呼ばれている)の空気は、凍りついていた。
「……間違いない。ドワーフの商人は嘘をついていない」
レオンハルトは、黒田が淹れた(現実世界を懐かしむための)インスタントコーヒーの苦い湯気を、虚ろな目で見つめていた。
「ええ」黒田も、マグカップを片手に冷たく応じる。
「『おたくが来る直前に、宰相の印章を持つ者が、もっと高い値段で塩を売りに来た』……か。実に、忌々しい」
黒田の怒りは、単なる「裏切り」に対するものではなかった。
それは、「非効率」と「資源の浪費」に対する、学者としての純粋な憤怒だった。
「(内ゲバ、だと?)」
黒田は、現実世界(パラ経)の、やる気のない学生たちを思い出していた。
(あの学生どもですら、最低限の『単位取得』という合理的な目的は共有していた。だが、こいつはなんだ?)
魔王軍という「共通の敵」を前に、国内の資源を統一するどころか、内部の人間が「敵」と通じ、自国の利益を毀損している。
宰相オーレリアス。「重商主義」の亡霊。彼が信じる「富(=金)」のために、黒田が「信用」で築き上げた新しい交易ルート(=富のフロー)を、自ら潰しに来たのだ。
「教授。どうする」
レオンハルトの声は硬い。
「今すぐ宰相を拘束し、尋問にかけるべきか? だが、相手は公爵。下手に動けば貴族たちが……」
「いえ、ダメです」
黒田は即答した。
「(パラ経の学生を『不可』にするのとはワケが違う。あれは『採点』だが、これは『政治』だ)」
黒田は、思考を「学者」から「実践家」に切り替える。
「オーレリアス宰相を罰することは『目的』ではありません。我々の目的は、『アデニア王国の経済的自立と勝利』です」
「……ああ」
「宰相を罰して、他の貴族たちが反発し、内乱にでもなれば、それこそ魔王軍の思う壺。我々の『人的資源(=兵士)』を、無駄な『内部コスト(=内乱鎮圧)』に割くことになる。最悪の『機会費用』です」
「では、見逃せと?」
「いいえ」黒田は、銀縁のメガネをクイと押し上げた。
「『見逃す』のでも『罰する』のでもない。
――『管理』するのです」
黒田は、執務室の黒板(レオンハルトが黒田の「講義」のために作らせた特注品だ)に向かった。
「レオンハルト殿。経済学には『ゲーム理論』という分野があります」
「げーむ……理論?」
「はい。複数の『プレイヤー(参加者)』が、互いの『戦略』を読み合い、自身の『利得』を最大化しようとする時、どのような行動が起きるかを分析する学問です」
黒田は、黒板にチョークで簡単な図を描いた。
「今、この国には、最低でも4人の『プレイヤー』がいる」
彼は「黒田&レオンハルト(改革派)」と書いた円を描く。
「そして、敵対する『魔王軍(の中の“エコノミスト”)』」
「問題は、残りの二人です」
黒田は、さらに二つの円を描いた。
「宰相オーレリアス(重商主義)」
「農務大臣(重農主義)」
レオンハルトは息を飲んだ。「農務大臣も……疑うのか?」
「当然です」黒田は冷ややかに言った。
「宰相は『金』。農務大臣は『土地(小麦)』。彼らにとって、私が進める『商業(塩の交易)』や『信用創造(王室手形)』は、自分たちの『富の定義』を根底から覆す『異端』でしかない。宰相が『金』のために魔王と通じたなら、農務大臣が『小麦の絶対的優位』を取り戻すために、我々の『商業(=虚業)』を妨害しないと、どうして言いきれますか?」
「……」
「宰相が『黒』だと決めつけるのは、まだ早い。『合理的』な疑いが必要です。彼ら二人が、それぞれどのような『インセンティブ』で動くのか……それを試す『ゲーム』を仕掛けます」
「ゲーム、を……」
「はい」黒田の目は、獲物を狙う鷹のように細められた。「『囚人のジレンマ』に、少し手を加えましょう」
黒田が立案した作戦は、単純明快だった。
「情報」という名の「餌」を二つ用意し、二人の「容疑者」に、別々に与える。
そして、どちらの「餌」に「魔王軍」が食いつくかを見る。
黒田は、これを「情報的インセンティブの分離テスト」と呼んだ。
数日後。レオンハルトは、父王(アルベール三世)の名代として、緊急の「王室作戦会議」を招集した。
ただし、その「会議」は、奇妙な形で行われた。
まず、レオンハルトは「宰相オーレリアス公爵」だけを執務室に呼び入れた。
「宰相。緊急の極秘案件だ」
レオンハルトは、黒田に指導された通りの「緊迫した(フリをした)表情」で切り出した。
オーレリアスは、自分が「特別扱い」されていることに、わずかな優越感をにじませる。
「(黒田(あの学者)も、ついに私の『力』が必要になったか)」
「例のドワーフとの交易路だが……」レオンハルトは声を潜めた。「魔王軍の妨害が激しく、塩のルートが維持できん。そこで、黒田教授が『新しい案』を出してきた」
「ほう」
「曰く、『陸路(塩)』がダメなら『海路(鉄)』だと。ドワーフ側が、我々の『王室手形』を信用し、『南の海路(ルートA)』を使い、鉄鉱石の『先渡し』を約束してくれた。3日後、我が国の『港』に、鉄を満載したドワーフの船団が入港する」
「なんと! それは……!」
「ああ。だが、この『海路』は魔王軍の勢力圏に近い。宰相には、王国の全海軍を指揮し、この『鉄(=富)』を死守してもらいたい」
「海軍……鉄……」オーレリアスの目が、彼が信奉する「富(=現物資産)」への欲望にギラついた。
「お任せを。若。必ずや、王国に『富』をもたらしましょう」
オーレリアスが退出した後、レオンハルトは深いため息をついた。
(……教授の言う通りだ。彼は『鉄(=金)』という言葉にしか反応しなかった)
次に、レオンハルトは「農務大臣」だけを呼び入れた。
今度は、宰相とは全く別の「嘘」の筋書きが語られる。
「大臣。極秘だ。黒田教授の『商業政策』は、やはり失敗だった」
「なんと! やはり『虚業』でしたか!」
農務大臣は、我が意を得たりと膝を打った。
「ああ。ドワーフどもは『塩』では満足しなかった。そこで、我々は『原点』に立ち返ることにした」
レオンハルトは、重々しく告げる。
「我が国の『真の富』……それは『小麦』だ。王都北部の『秘密備蓄庫』を解放し、数千台の荷馬車に積み、『北の山岳路(ルートB)』を使ってドワーフに『現物支給』することにした。3日後に出発する」
「おお! それこそ『国富』の正しい使い方!」
「うむ。だが、この『山岳路』は魔獣の巣窟だ。大臣には、この『小麦(=命)』を守るため、騎士団への兵站管理を全権委任したい」
「小麦……兵站……」農務大臣は、自分の「理論」が勝利したと確信し、感涙にむせんだ。
「お任せください! 『農は国の大本』なり!」
二人の大臣が退出した後、執務室に戻ってきた黒田は、疲労困憊のレオンハルトにコーヒーを差し出した。
「お疲れ様です、レオンハルト殿。見事な『演技』でした」
「……教授。これで、本当にわかるのか?」
「わかります」
黒田は、アデニア王国の地図を広げた。
「宰相には、『南の海路(ルートA)』と『鉄(金)』という餌を」
「農務大臣には、『北の山岳路(ルートB)』と『小麦』という餌を」
「彼らが『合理的』な裏切り者であるならば、それぞれが『最も価値がある』と信じる情報を、魔王軍(の中のエコノミスト)に流すでしょう」
「魔王軍の狙いは、我が国の『経済的疲弊』。
『海路(ルートA)』を叩けば、我が国の『工業(=鉄)』と『海軍』に大打撃を与えられる。
『山岳路(ルートB)』を叩けば、我が国の『食糧』と『陸軍(騎士団)』に大打撃を与えられる」
黒田は、二つのルートを指でなぞった。
「どちらも、魔王軍にとっては『美味しい』餌です。
――さて、魔王軍は、どちらの『嘘』に食いついてくるか」
黒田がこの「ゲーム」を仕掛けた本当の狙いは、単なる「スパイ探し」ではなかった。
彼は、この「ゲーム」を通じて、魔王軍の背後にいる「敵」の『思考』すらも分析しようとしていたのだ。
「(敵が『鉄(工業)』を狙うなら、ヤツは『重商主義』か『資本主義』の萌芽を理解している)」
「(敵が『小麦(食糧)』を狙うなら、ヤツは『兵站』の重要性を知る、古典的な『軍事家』だ)」
黒田の「王立リスクマネジメント組合(新ギルド)」の諜報員たちが、すでに「ルートA」と「ルートB」、二つの「存在しない輸送路」の監視に入っている。
「レオンハルト殿。結果が出るまで、3日。
……現実世界(パラ経)の学生の卒論を待つよりは、よほどスリリングで、有意義な時間ですよ」
黒田は、コーヒーをすすりながら、冷たく、しかし確信に満ちた笑みを浮かべた。
「ゲーム」は、始まった。




