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第2話:王室という名の「破産企業」

挿絵(By みてみん)

玉座の間での激論から一夜明けた。

アデニア王国は、建国以来の「激震」のさなかにあった。国王アルベール三世が、突如現れた「学者」の講義一つで隠居を宣言し、第二王子レオンハルトへ実質的な王権移譲を表明したのだ。

その朝、黒田哲也は、王城の一室で落ち着かない時間を過ごしていた。

(……昨日は、完全に我を忘れていた)

物腰柔らかく「帰還」を願うはずだった学者は、国王の「国庫の3割」という一言で、研究室でのストレスと「理論を軽んじられた」怒りが爆発。京堂大学(パラ経)の学生を相手にするよりも遥かに辛辣な言葉で、一国の王を「無能なCEO」と断じてしまった。

(恥ずかしくないのか、黒田哲也。学者である前に、社会人として失格だ)

彼が自己嫌悪に陥っていると、控えめなノックが響いた。

「黒田教授。私だ、レオンハルトです」

「あ、は、はい! どうぞ!」

入ってきたのは、昨日までの「王子」ではなく、既に「王の代理」としての重圧をその肩に感じさせる、引き締まった表情のレオンハルトだった。

「昨夜は……その、大変失礼をいたしました。学者として、いえ、人間として、あまりに感情的な……」

黒田がオドオドと頭を下げると、レオンハルトは静かにかぶりを振った。

「教授。頭を上げてください。私からも、アルベールからも、感謝こそすれ非難などありえません」

レオンハルトは、黒田の向かいに座ると、真剣な目で彼を見た。その目は、黒田が現実世界(パラ経)では決して見ることのできなかった、飢えた「学生」の目だった。

「教授は、我々が『固定観念』に囚われていると仰った。……その通りです。我々は魔王という『目に見える脅威』に怯えるあまり、教授が指摘した『見えざる何か』から目をそらしていた。昨夜、父と徹夜で話しました。父は……安堵していました。『やっと肩の荷が下りた』と」

「国王陛下……」

「そして、私は決めました。黒田教授。あなたを『王室筆頭顧問』として、この国の『改革』の全権を任せたい」

「ぜ、全権!? いえ、滅相もない! 私は学者です。政治の実務など……」

「実務は私が引き受けます」と、レオンハルトは遮った。

「教授に必要なのは『実践』の場だと、昨日のお話で理解しました。私の『権力』を、教授の『理論』を試すための『道具』として使っていただきたい」

(……道具)

黒田はゴクリと唾を飲んだ。京堂大学では「役に立たない」と切り捨てられた自分の「理論」が、今、一国の運命を左右する「道具」として求められている。

学者の血が、沸騰するような高揚感で熱くなる。

「……承知、いたしました。レオンハルト殿下――いえ、殿下(Your Highness)とお呼びすべきか」

「レオンで構いません、教授。では早速ですが、我々はまず、何をすべきでしょうか?」

レオンハルトの問いに、黒田の「オドオドした学者」の仮面は剥がれ落ち、「S+の知性」を持つ教授の顔が覗いた。

「決まっています。『現状把握』です」

黒田は、まるでゼミの初日のように、指を一本立てた。

「企業の再生ターンアラウンドであれ、国家の財政再建であれ、最初に行うことは一つ。組織の『健康状態』を正確に知ることです。まずは、この国の『財務諸表』を見せてください」

「ざいむ……しょひょう?」

レオンハルトは、初めて聞く単語を反芻した。

「はい。最低でも、過去3年分の『貸借対照表バランスシート』と『損益計算書(プロフィット・アンド・ロス・ステートメント)』を。国家予算の『B/S』と『P/L』です。それを見れば、この国が持つ『資産』と『負債』、そして年間の『収入』と『支出』の流れ(キャッシュフロー)が全てわかります」

レオンハルトは、黒田の言葉に目を輝かせた。

「B/SとP/L……素晴らしい響きだ! すぐに用意させましょう!」


数時間後。王城の会議室は、重苦しい空気に包まれていた。

レオンハルトの呼び出しに応じ、集まったのは王国の重鎮たち。

騎士団長バルガスは、国王を隠居に追いやった「学者」に対し、隠そうともしない敵意を向けている。

そして、王国経済の実権を握る、宰相のオーレリアス公爵と、農務大臣が、不機嫌そうな顔で座っていた。

「レオンハルト若。隠居された陛下のお気持ちは察しますが、この『学者殿』をいきなり筆頭顧問とは……いささかご乱心では?」

口火を切ったのは、宰相オーレリアスだった。

レオンハルトは、父アルベールから譲られた玉座(まだ彼には少し大きい)から、毅然として答えた。

「宰相。私の決定は、父上の承認を得たものだ。それよりも、黒田教授の要請に答えてほしい。我が国の『財務諸表』を」

「は、『ざいむしょひょう』、でございますか」

オーレリアスは、用意していた分厚い羊皮紙の束を、ドン、と机に置いた。

「これこそが、我が王国の『富』の目録。黒田教授とやらが、どれほどの『知性S+』か知らぬが、これを見て口出しできるかな?」

黒田は、バルガスの殺気とオーレリアスの侮蔑を意に介さず、その羊皮紙を手に取った。

彼は数分間、猛烈な勢いでページをめくっていく。

「…………」

やがて、黒田は羊皮紙から顔を上げ、深い、深いため息をついた。

「レオンハルト殿。これは『財務諸表』などというものではありません」

「な、なんだと!?」オーレリアスが色めき立つ。

黒田は、宰相を冷ややかに一瞥した。

「これは、ただの『在庫目録インベントリ』です」

黒田は羊皮紙の一枚を摘み上げ、全員に見せる。

「『王家の金塊、5000インゴット』『王都西部の土地、500ヘクタール』『王室御用達の宝石、300カラット』……」

彼は、宰相オーレリアスに向き直った。

「宰相閣下。これは『P/L』でも『B/S』でもない。ただの『資産アセット』のリストだ。あなたの頭の中は、300年前の『重商主義じゅうしょうしゅぎ』で止まっている」

「じゅ、重商主義!? それこそが富の根源! 国の豊かさとは、保有する『きん』の量で決まるのだ! この学者は何もわかっておらん!」

オーレリアスは、自分の信条を的確に(そして侮蔑的に)言い当てられ、激昂した。

「何もわかっていないのは、あなたの方だ!」

再び、黒田の「講義」が始まった。オドオドしていた学者は、もうどこにもいない。

「富とは『ストック(保有量)』ではない! 『フロー(流れ)』だ! いくらきんを溜め込んでも、それが『流通』し、『投資』されなければ、それは『死んだ金』だ! ただの石ころと同じだ!」

黒田は、羊皮紙を叩きつけた。

「第一、なぜ『負債ライアビリティ』の項目が一切ない!? あなた方は、ギルドや商人からどれだけの『ツケ(買掛金)』で物資を調達している? 兵士たちへの『未払い給与(人件費)』は? 『戦時国債のようなもの』は発行していないのか!?」

「ふ、負債だと? 王家が民に『借り』など作ってたまるか!」

「では、どうやって魔王軍との戦費を賄っている!?」

「それは……」宰相が口ごもる。

代わりに、農務大臣が口を開いた。

「決まっておる。我が国の『富の源泉』は『土地』だ。農民から『税(小麦)』を徴収し、それを兵士に現物支給しておる」

「(こっちは『重農主義じゅうのうしゅぎ』か……)」黒田は頭を抱えた。

「もういい……」黒田は、議論(というより中世の経済観念の押し付け合い)に、うんざりしていた。

「レオンハルト殿。現状は、私が想像していたよりも100倍悪い」

「(パラ経の学生は、少なくとも『理論』の存在は知っていた。こいつらは、300年前の『亡霊』だ……!)」

「データが、ない。財務諸表が存在しない国など、羅針盤も海図もなく、嵐の海に漕ぎ出す『破産企業』と同じです」

「では、どうするのだ、教授」レオンハルトが不安げに尋ねる。

「データがないなら?」

黒田は、メガネをクイと押し上げた。

「――決まっています。データがないなら、『取り』に行けばいい」

「取りに?」

「『エスノグラフィー(行動観察)』です。私の専門(デザイン思考)の一つですよ」

黒田は立ち上がった。

「机上の空論(古い目録)はもういい。この城(=アデニア王国という企業)が、実際に『どこで』『何を』『どれだけ』無駄遣いしているか……この目で『観察』しに行きましょう」


黒田は、レオンハルト(と、護衛兼監視役のバルガス)を引き連れ、城の「フィールドワーク」を開始した。

まず、兵士の食堂。

「ひどい……」

黒田は、兵士が食べ残したパンやスープが山のように捨てられているのを見て、こめかみを押さえた。

「(食べ放題ビュッフェ形式か。管理コストは低いが、廃棄ロスが膨大だ。重農主義者が『富の源泉』と呼んだ小麦が、こうして捨てられている)」

次に、騎士団の訓練場。

バルガスが「どうだ、我が騎士団の勇壮な訓練は!」と胸を張る。

黒田は、彼らがまとに向かって投げている「槍」に注目した。

「……バルガス団長。あの槍、穂先が潰れたらどうするのですか?」

「決まっている。新しい槍と交換する。兵士の命を守る武具だ、当然だろう!」

「(穂先だけ交換すればいいものを……『修理メンテナンス』という概念がない。恐るべき『使い捨て(ディスポーザブル)』文化だ)」

そして、彼らが中庭を通りかかった時。

城の一角から、楽しげな音楽と喧騒が聞こえてきた。

「あれは?」

「ああ……母上、イザベラ(王妃)様の『慈善チャリティパーティ』です」

レオンハルトが、少し気まずそうに答えた。

「チャリティ?」

「はい。魔王軍との戦で苦しむ民のため、貴族から寄付金を集めるために、王妃が主催しているのです」

広間では、着飾った貴族たちが、高価なワインと食事に舌鼓を打っていた。

王妃イザベラが、優雅に微笑みながら「皆さま、どうか哀れな民に慈悲を」と呼びかけ、貴族たちが銀貨を箱に入れている。

バルガスが、感嘆したように息を吐いた。

「素晴らしい。王妃様は、慈愛に満ちておられる」

だが、黒田は立ち止まったまま、その光景を「S+の知性」で冷ややかに分析していた。

「……レオンハルト殿」

「は、はい」

「あのパーティ、一回開催するのに、いくらかかっていますか?」

「え?」

「あの最高級のワイン、楽団への日当、広間の装飾、そしてあの料理……。それら『開催費用コスト』の総額と、集まった『寄付金リターン』の総額。どちらが多いか、計算したことは?」

レオンハルトは、ハッと息を飲んだ。

言われてみれば、あのパーティは、どう見ても「赤字」だった。

黒田は、静かに、しかし断固として宣言した。

「レオンハルト殿。宰相(重商主義)や騎士団長(精神論)と、真正面から戦うのはまだ早い。彼らの『固定観念』は強すぎる」

「では、どう……」

「我々には『実績』が要る。『小さな成功クイック・ウィン』が」

黒田は、王妃のパーティ会場を指差した。

「最初の『実験プロトタイプ』は、あれだ」

「王妃様の『慈善チャリティ』……それは、この国で最も『神聖なもの』とされていますが……」

黒田は、現実世界(パラ経)で燻っていた頃には見せなかった、獰猛な「実践家」の笑みを浮かべた。

「ええ。『善意』という名の、最もタチの悪い『赤字事業』。

――王室という名の『破産企業』の、最初の『事業仕分け』を始めましょう」



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