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第10話:「鋼(はがね)」と「白磁(はくじ)」の価格


黒田哲也が『革新懸賞イノベーション・バウンティ』という名の「パンドラの箱」を開けてから、わずか数日。 アデニア王国の東部に設立された「王立工房」は、かつてのギルドが支配していた静謐せいひつな伝統の場から、剥き出しの『欲望』が火花を散らす、混沌カオスの『市場マーケット』へと変貌していた。

「どけ! あの『灰』の配合は俺が先に見つけたんだ!」 「馬鹿を言え! 『懸賞(参)』は俺がいただく! 金貨300枚だぞ!」 「ティト様に続け! 俺たちも『ロイヤル・マイスター』になるんだ!」

工房の空気は、石炭の煙と、金属の焼ける匂い、そして金貨への渇望で満ちている。 ギルドの親方たちが築いた「秩序」は、流れ者の陶工ヘイデンが500ゴールドの袋を掴んだ瞬間に、音を立てて崩壊した。 親方たちの『破門』という「脅し(リスク)」は、黒田が提示した『金貨』と『名誉ロイヤル・マイスター』という、圧倒的な「実利リターン」の前には、もはや何の効力も持たなかった。

若い職人や弟子たちは、昨日までの上官(親方)の顔色をうかがうのをやめた。 彼らは今、工房の壁に貼り出された「懸賞金リスト」――黒田が毎朝更新する『新たな問題』――にだけ、狂信的な目を向けている。 『伝統』や『秘伝』と呼ばれていた「知識のカルテル」は崩壊し、知識は今や『きん』で取引される「商品」へと変わった。

この混沌を、三人の権力者は、三様に眺めていた。

「素晴らしい! 見ろ、レオンハルト若! 誰もサボタージュしていない!」 宰相オーレリアスは、ヘイデンが作った『素焼きの白い皿』を撫でながら、恍惚としていた。 「これこそが『富国強兵』! 教授、懸賞金をケチるなよ! きんは私が出す! 欲望こそが『きん』を生むのだ!」 彼にとって、職人たちの『欲望』は、きんを生み出すための最も効率的な『燃料』にしか見えていなかった。

対照的に、騎士団長バルガスは、この光景を苦々しく見つめていた。 「……まるで、ハイエナの群れだ」 彼の呟きは、ハンマーの音にかき消される。 「秩序も、師弟の『忠誠』も失われた。カネのために『秘伝』を売ったティト(裏切り者)が英雄扱いか。教授、あんたの『理論』は、職人の『魂』まで腐らせたぞ」 バルガスは、黒田を全く認めていなかった。 石炭を使った「失敗作」の剣がガラスのように砕け散った光景が、彼の「固定観念」をむしろ強化していた。 (学者の戯言ざれごとだ。伝統こころのない鉄が、『魂』のこもった我が剣に勝てるものか)

そして、レオンハルトは、この二人とは違う視点で黒田を見ていた。 (教授は、この『混沌』すら、『デザイン』しているというのか……?) 彼は、黒田の次の手を、固唾をのんで見守っていた。


混沌の中心に、二つの「イノベーションの核」が存在した。 一つは、王立工房で今や最も巨大な高炉が割り当てられた、鍛冶場かじば。 『懸賞(壱)』の秘密を暴露したティト――かつての鍛冶師ギルドの最年少弟子――が、黒田から与えられた「コークス精製理論」の羊皮紙を、ボロボロになるまで読み込み、その実践に取り掛かっていた。

「火を入れろ!」 ティトの指示で、石炭が密閉された炉で蒸し焼きにされていく。 「馬鹿めが。そんなことをすれば『毒(硫黄)』が回るだけだ」 工房の隅で、権威を失ったティトの「元・親方」が、幽鬼ゆうきのような顔で呪詛の言葉を吐き続ける。 「我がギルド五百年の『秘伝』は、あの『毒』をいかに抜くかだったのだ。それを、学者ペーパーの『理論』ごときで……」

だが、ティトはもう親方の声を聞いていなかった。 炉から取り出されたのは、黒い石炭とは違う、銀色に輝く『真の熱のコークス』だった。 「……これだ」 ティトは、汗まみれの顔で、その「石」に見入っていた。 「教授の理論通りだ。これなら……!」

コークスが高炉にくべられる。 轟音と共に、炎が吹き上がった。 「……火の色が、違う」 親方が、息をのむ。 木炭では決して届かなかった、目を焼くような『白』い炎。それは、鉄鉱石に含まれる不純物スラグを、根こそぎ溶かし尽くす「理論の熱」だった。

「ティト!」 その時、よろいを鳴らして鍛冶場に踏み込んできたのは、騎士団長バルガスだった。 「まだ『お遊び』は終わらんのか! あの『もろい鉄』の二の舞を、また見せに来たぞ!」

「……団長。見ていてください」 ティトは、高炉から取り出された、純粋な『はがね』の鉄塊インゴットを、弟子たち(=かつての兄弟子たち)と共に、一気に打ち据えていく。 カン、カン、カン! 木炭いつもの鍛冶場とは、響きが違う。より硬く、澄んだ音が工房に鳴り響いた。

数時間後。 一本の剣が、バルガスの前に差し出された。 それは、不気味なほど黒く、鈍い光を放っていた。

「ふん。見た目は、どうということはない」 バルガスは、自分の腰から、五百年続く『伝統』の製法で鍛え上げられ、幾多の魔物をほふってきた愛用の「アデニア鋼の剣」を抜き放った。 「教授。貴様の『理論』が、我らの『魂』に勝てるか。試させてもらうぞ!」 黒田は、レオンハルトと共に、その光景を見守っていた。 「バルガス団長。ご随意に」黒田は平然と答えた。

バルガスは、ティトが作った「黒い剣」を地面に突き立て、自らの愛剣を両手で振りかぶった。アデニア王国最強の腕力が、その刀身に込められる。 「秩序(伝統)を侮るな、学者ッ!」

バルガスの剣が、ティトの剣の側面に叩きつけられる!

キィィンッ!!

甲高い金属音と共に、バルガスの動きが止まった。 彼の顔から、血の気が引いていく。 しん、と静まり返った鍛冶場で、カラン、と乾いた音がした。 黒田の目の前で、ゆっくりと、音を立てて……

バルガスの『伝統の剣』が、真っぷたつに折れて、地面に落ちた。

対するティトの「黒い剣」は、傷一つなく、そこに突き立っている。「ガラスのように脆い」失敗作(硫黄を含んだ鉄)とは、別次元の『強度』が、そこにあった。

「……馬鹿な」 バルガスは、折れた自分の愛剣の切っ先を拾い上げ、震える手でそれを見つめた。 「我が家の……五百年続いた『魂』が……」 「折れた……?」 「学者の……『理論』に……?」

「バルガス団長」 黒田が静かに告げる。 「『伝統』とは、過去の『イノベーション』の積み重ねにすぎません。あなた方が『魂』と呼んでいたものは、木炭エネルギーの限界が生み出した『炭素含有率』の限界でした。……そして、あなたの部下たちは、その『限界』のせいで、折れた剣と共に死んでいったのです」

「……!」 バルガスは、数秒間、その場に立ち尽くした。 脳裏を、魔王軍のオークが持つ、分厚い「なた」に打ち負けていった部下たちの顔がよぎる。 (俺の『誇り』が、彼らを殺していたのか……?)

やがて、彼はゆっくりと黒田に向き直ると、つるぎではなく、騎士としての『礼』を取った。 彼は、カブトの面頬めんぼおを上げ、学者である黒田の目を見て、深々と頭を下げた。

「……教授。いや、黒田『卿』」 「やめてください、団長」

「――この『はがね』を、千本。いや、全騎士団分、三千本。 ……いつ、そろうか?」

その言葉は、バルガスという「最強の武力(固定観念)」が、黒田の『理論』に(少なくとも武器の面では)完全に『屈服』した瞬間だった。 黒田は、レオンハルトだけに見えるように、小さく頷いた。 (最初の『固定観念』が、崩れた)


同時刻。工房の反対側。 陶工ヘイデンの「隔離実験室サンドボックス」では、宰相オーレリアスが、まるで恋人を待つかのように、そわそわとかまの前を歩き回っていた。

「まだか、ヘイデン! 『懸賞(参)』の『釉薬うわぐすり』は! あの『素焼き』だけでは、きんにならんぞ!」 「も、もう少しです、宰相閣下! 黒田教授の言われた通り、『森の灰』と『砕いた長石ちょうせき』の配合を……」

ヘイデンは、あの日500ゴールドを手にして以来、人生が変わった。彼はもはや「流れ者」ではなく、レオンハルトと黒田が『公認』した、王立工房の『トップ・マイスター』だった。 黒田は彼に「磁器」の最後の関門である『釉薬』のヒントを与えていた。 『価値は、ゴミの中にある。森の灰、砕いた石、それこそが、あの白い泥を『宝石』に変える』

窯が開けられる。 昨日までの「素焼き(しらやき)」とは違う、眩い光がオーレリアスの目を射抜いた。

「…………ああ」

オーレリアスの手が、まるで聖遺物せいいぶつに触れるかのように、その「完成品」を掴んだ。 それは、雪のように白く、ガラスのように滑らかで、光をかざせば向こう側が透けて見えるほど薄い、『白磁はくじのティーカップ』だった。

「これだ……!」 オーレリアスは、政治家としての仮面をかなぐり捨て、商人としての『欲望』を爆発させた。 「教授! 教授! 来たまえ!」 彼は、カップを掲げながら、鍛冶場から戻ってきた黒田に駆け寄った。

「見ろ! この『白』! この『薄さ』! この『硬さ』! これだ! これこそが『きん』だ!」 彼は、バルガスが(今は尊敬の眼差しで)見つめている「鋼の剣」を一瞥いちべつし、鼻で笑った。 「バルガス卿! あなたの『剣』は、一本いくらだ? 鉄を叩いただけの『コスト(費用)』の塊だ! せいぜい金貨一枚か二枚だろう!」

オーレリアスは、その『白磁のカップ』に、恍惚こうこつとして口づけた。

「だが、この『カップ』は! これは『利益プロフィット』そのものだ! これを南方の帝国に持ち込めば、貴族どもが『金貨100枚』で奪い合うぞ! ハッハハハ! 『きん』が、『きん』を生み出す! 私の『重商主義』は、正しかったのだ!」

オーレリアスは、黒田のおかげで自分の『理論(重商主義)』が証明されたと、本気で信じ込んでいる。

黒田は、その滑稽こっけいなまでの「勘違い」を、あえて訂正しなかった。 (それでいい。宰相には『きん』というインセンティブを。団長には『はがね』というインセンティブを。彼らの『欲望』が、この国の『産業革命』を回す燃料になる)


その夜。 王立工房は、もはや眠らない『不夜城』と化していた。 コークス炉の炎が夜空を赤く染め、金貨を夢見る職人たちのハンマーの音が、途切れることなく響いている。

レオンハルトが、その光景を丘の上から見下ろす黒田の隣に立った。 「……恐ろしい光景だ、教授。まるで、眠っていた『竜』を叩き起こしたかのようだ。あなたは、たった数日で、この国の『力』の構造を、根底から変えてしまった」 「『固定観念カルテル』という『ダム』を、壊しただけですよ」黒田は静かに答えた。

はがねはバルガス団長を黙らせ、白磁はくじはオーレリアス宰相を踊らせている。父上アルベールも、この報告を聞いて涙を流して喜んでいた。『黒田教授こそ、真の勇者だ』と」

だが、黒田の表情は、晴れやかではなかった。 「レオン。まだ、何も始まってはいません」 「え?」

黒田は、狂騒に沸く工房を指差した。 「あれは、まだ『プロトタイプ』です。ティトとヘイデンという『二人の天才』の『個人の才能』に依存している。彼らが病気になれば、この『革命』は止まる」

(……京堂大学(パラ経)の、あの学生がやっていた『株式会社STARS』とかいう学生ベンチャーも、同じ『属人性』の問題を抱えていたな) 黒田は、ふと現実世界あちらの記憶を反芻はんすうした。 (結局、あのA君のように、優秀な『個人』が『実践インターン』に走るだけでは、組織ゼミの『理論』は蓄積されない。イノベーションが『持続』しない)

「レオン。我々が次に必要なのは『天才』ではありません」 黒田は、未来のまなでしに向き直る。 「『天才』がいなくても、同じ品質クオリティの『鋼』と『白磁』を、『凡人』が『大量』に生産できる『仕組み(システム)』です」

「仕組み……」

「『分業ぶんぎょう』、『標準化マニュアル』、そして『品質管理クオリティ・コントロール』。……アダム・スミスが『国富論』で説いた、『産業』の本当の始まりです」

黒田は、夜空を焦がす工房の『煙』を見上げた。

「そして、レオン。もう一つ、急ぐべきことがある」 「何だ、教授?」

「これだけの『煙』と『音』……そして、これだけの『富』の匂いを、我々の『敵』が見逃すはずがない」 黒田の「S+の知性」は、すでに次の『脅威』を分析していた。

「この『王立工房』という『富の源泉』を守るための、『新しい防衛セキュリティ理論』が必要になります」

遠い闇の向こうで、魔王軍の『目』が、アデニア王国東部の「不自然な赤い光」を捉えたことに、まだ誰も気づいてはいなかった。




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