第1話:召喚と「知性S+」の価値
「――よって、A君。君のこの卒業論文は『不可』だ」
黒田哲也は、薄暗い研究室で、目の前の学生が提出した「紙束」を指一本で押し返した。
時計は、とうに日付が変わる頃を指している。京堂大学経済学部の「パラダイス経済」という悪名――あるいは美名――は伊達ではない。この時期になっても、卒業論文(という名の、先行研究のコピペ)すら提出しない学生が山ほどいるのだ。
「え、そんなぁ、先生。俺、もう内定先のコンサルでインターンが始まってて。卒論よりよっぽど『実践』積んでるんスけど」
「実践、か」
黒田は、擦り切れたツイードジャケットの肘掛けに体重を預け、こめかみを押さえた。
(馬鹿者が)
君が今、誇らしげに語る「実践」とやらを、背後で支えている「理論」が何なのか、考えたこともないのだろう。君のインターン先が、なぜそのプロジェクトにリソースを割き、なぜその「インセンティブ設計」で社員を動かしているのか。
「A君。君が学んだはずの『行動経済学』は、まさに君のような『合理的(と自分では思っている)に怠惰な人間』が、いかに非合理な選択をするかを研究する学問だ。君は今、卒業という『短期的利益』のために、大学で学ぶという『長期的投資』を放棄している」
「はぁ……でも『パラ経』なんで」
「……出ていけ。単位はくれてやる。だが、私のゼミで何を学んだか、二度と口にするな」
学生が「あざーす」と軽い足音と共に去っていく。
残された研究室で、黒田は天を仰いだ。
積まれた本。カーネマン、サミュエルソン、シュンペーター。そして、枕代わりにしているアダム・スミスの『国富論』。
(なぜ、伝わらない……)
経済学は「カネ儲け」の学問ではない。人間という「合理的でない生き物」の行動を読み解き、よりマシな社会を「デザイン」するための、最強の『道具』だ。その面白さを、この情熱を、誰にぶつければいい?
優秀な頭脳を持ちながら、それを自ら放棄する学生たち。
「理論」を軽んじ、「実践」という名の目先の作業にしか価値を見出さない風潮。
黒田哲也(42歳)は、教育者としての強烈な「不完全燃焼」と「無力感」の只中にいた。
「(……ああ、どこかにいないものか。俺の『理論』を、本気で『実践』したがる、飢えた奴は……)」
疲労がピークに達し、彼が『国富論』に再び突っ伏した、その瞬間だった。
眩い光が、積年の埃が積もった研究室を白く染め上げた。
「……ん?」
カビ臭い古書と、飲み残しのコーヒーの匂いが消えていた。代わりに、嗅いだことのない……厳かな香と、金属が磨かれたような清潔な匂いがする。
黒田は、ゆっくりと目を開けた。
そこは、研究室ではなかった。
(……なんだ、これは)
荘厳すぎる石造りの広間。彼の足元には、複雑な幾何学模様が淡く光っている。周囲には、明らかに中世ヨーロッパの絵画でしか見たことのないような、豪奢な服を着た人々が彼を囲んでいた。
「え、あ、ここは……? 大学……ではないですね。撮影か何かの……?」
黒田は、見知らぬ場所と人々に完全に気圧され、オドオドとあたりを見回すことしかできない。彼は根っからの学者であり、このような「非日常」への耐性はゼロに等しかった。
その時、集団の中から一番立派な冠をつけた中年男性が、喜びを爆発させたように駆け寄ってきた。
「おお! ついに! よくぞおいでくださいました、勇者様!」
「ゆ、勇者? いえ、あの、人違いでは……」
黒田は慌てて後ずさる。
「私は勇者などというものでは……経済学者の、黒田哲也と申しますが……」
「おお! 黒田殿! 学者様でしたか!」
国王(と黒田が推測した)アルベール三世は、黒田の物腰柔らかな訂正にも全く動じない。
「まあ、細かいことは良いのです! まずは『聖別の儀』を! これで貴方様の『天職』がわかりますゆえ!」
「は、はあ……」
黒田は、王や大臣たちに促されるまま、広間の中央に据えられた巨大な水晶玉(=判定装置)の前に立たされた。
周囲の期待が、オドオドする黒田に突き刺さる。
「今度こそ『武闘家』を…」「いや、魔王を両断する『剣聖』かもしれんぞ」
「黒田殿、その水晶に手を」
黒田は言われるがまま、ツイードジャケットの袖をまくり、恐る恐る水晶に触れた。
水晶は眩い光を放ち、その上空に、淡い光の文字が浮かび上がった。
【クロダ・テツヤ】
【筋力:G】
【魔力:G】
【体力:F】
【敏捷:F】
【知性:S+】
……シン。
先ほどまでの熱狂が嘘のように、広間が静まり返った。
大臣たちが顔を見合わせ、ささやき始める。
「またか……」
「筋力G、魔力G。これでは平均的な農夫以下だぞ」
「武闘家様では、なかった……」
黒田が「G」という、明らかに最低ランクであろう評価に狼狽えていると、国王アルベール三世が、ゆっくりと黒田の前に進み出た。
そして、王国で最も偉いはずの男が、黒田に対し、深々と頭を下げた。
「――黒田殿。まことに、まことに、申し訳ない!」
「え!? あ、あの、頭を上げてください、陛下!」
黒田は、王のあまりに真摯な謝罪に、さらにオドオドするしかなかった。
王は、痛恨の表情で顔を上げた。
「我が国は今、魔王軍の侵攻を受け、滅亡の瀬戸際にある。我らが必要としていたのは、魔王の軍勢を物理的に討伐できる『力』……『武闘家』様か『剣聖』様だったのだ」
「はあ……」
「どうやら、我らの召喚術はまたしても手違いを犯したらしい。学者殿を、このような危険な世界に巻き込んでしまい、面目次第もない」
黒田は、その言葉に少しホッとした。
「あ、いえ、それなら……。あの、もしかして、元の世界に帰していただけるのでしょうか……?」
「もちろんだとも!」
王は力強く頷いた。
「帰還の魔法陣を準備させる。だが、これには3日ほどかかってしまう。それまでの間、どうか我らの『客人』として、この城で寛いでほしい。最大限のもてなしを約束しよう」
王の誠実な対応に、黒田は胸をなでおろした。
(よかった。無茶なことを言われる世界ではなかった。3日……3日経てば、あの「パラ経」の学生どもが待つ研究室に戻れる)
王は、側近に帰還の準備を命じると、疲れたように玉座に腰掛け、黒田に手招きした。緊張が解けたのか、その表情は穏やかだ。
「黒田殿。学者殿ということで、少し雑談にお付き合い願えるかな。なに、暇つぶしだ」
「は、はい。私でお役に立てることがあれば」
「うむ。貴殿の『知性』はS+。我らが国の魔術師の誰よりも高い数値だ。あるいは、我らにはない視点をお持ちかもしれん」
王は、まるで遠い目をするように、天井の装飾を見上げた。
「……いや、お恥ずかしい話だがな。我が国は魔王軍のせいで、もう財政が火の車なのだ。敵は強く、兵士は足りず、食料の輸入も滞っておる」
「はあ……」
「もう、後がなくてな。これが『最後の賭け』だったのだ」
王は、黒田が召喚された魔法陣――金で縁取られた床――を指差した。
「――この『召喚の儀』に、我が国のなけなしの国庫、その実『3割』を費やしてしもうた。これで武闘家様を呼べなければ、もう終わりだと。……ハハ、結局、手違いだったが」
王は自嘲気味に笑った。
それは、黒田にとっては、ただの「雑談」では済まされない一言だった。
黒田の中で、何かがピクリと動いた。
彼が現実世界で、あの「パラ経」の学生たちに抱いていた、燻るような「不完全燃焼」の火種。
「……あの、国王陛下」
黒田は、まだオドオドと、物腰柔らかく尋ねた。
「今、なんとおっしゃいましたか?」
「ん? だから、国庫の3割を、この『召喚』という最後の一手に賭けたのだ、と。もう笑い話にしかならんがな」
「…………」
黒田は、ゆっくりと銀縁のメガネを押し上げた。
オドオドしていた学者の気配が、一瞬で消え去る。
彼の背筋が、まるで教壇に立つ時のように、ピンと伸びた。
「国王陛下。学者として、いえ、黒田哲也として、失礼ながら申し上げます」
一呼吸置いて、彼の口からほとばしり出たのは、この世界の誰もが予想しなかった、大学教授の「講義」だった。
「――あなた方は大馬鹿ですかッ!!」
「なっ!?」
広間が凍りついた。
「無礼な!」「控えよ!」と衛兵や大臣たちが色めき立つ。
だが、黒田の気迫は、彼ら全員の怒号を飲み込んだ。
「国庫の3割!? 一国の予算の3割を、効果測定もできない『召喚』という一つの『投機』に全額投入した!? ポートフォリオという概念をご存知ないのか!」
「ぽ、ぽーと……?」
黒田は、先ほど自分が立っていた魔法陣を指差した。
「この『金』! この『魔石』! なぜこれが床材や照明(=消費財)になっている! これは『投資』に回すべき『生産財』だ!」
王も大臣も、黒田の剣幕と、初めて聞く言葉の羅列に、ただ圧倒されている。
「いいですか! あなた方が、この儀式に国庫の3割を『使った』瞬間に! あなた方が『失ったもの』……それこそが『機会費用』だ!」
「きかい、ひよう……?」
「その予算があれば、兵士の装備をどれだけ更新できた!? 国内の街道を整備し、どれだけの食料を備蓄できた!? それら全てを『放棄』する選択を、あなたは『最後の賭け』の一言で正当化した!」
「そ、それは、魔王を倒すためで……」
「魔王に滅ぼされる? 冗談じゃない! あなた方は、魔王が攻めてくるより先に、その杜撰な『財政管理』によって自滅する! これは『経営』だ! あなたは『国王』という名の、最も無能な『CEO』だ!」
「学者風情が、国王陛下になんということを!」
ついに我慢ならず、騎士団長バルガスが剣を抜き放ち、黒田に突きつけた。
だが、黒田は怯まなかった。
いや、彼はハッとしたのだ。
(……聞いている)
バルガスは怒っている。だが、国王アルベール三世も、その隣に立つ聡明そうな青年(第二王子レオンハルト)も、怒りや恐怖ではなく、ただ「呆然」と、そして「真剣」に、自分の話を聞いている。
現実世界(パラ経)では、誰も真剣に聞いてくれなかった、この「理論」の話を。
「実践が大事」と切り捨てられた、この「経済学」の話を。
(……この人たちは、「知らない」だけだ)
(優秀な頭脳(S+)を求めている。俺の「理論」を、本気で『実践』の場に引きずり出そうと、今、この瞬間も聞いている!)
黒田の中で、現実世界では決して得られなかった「承認」と「高揚感」が、一気に燃え上がった。
彼は、自らの「価値」を、この異世界で確信した。
黒田の「経済学基礎講座」は、そこから夜を徹して行われた。
「機会費用」から「リソースの最適配分」「インセンティブ設計」、そして「人間の非合理性(行動経済学)」まで。
夜が明け、広間に朝日が差し込む頃。
国王アルベール三世は、疲れ果てた顔だが、その瞳には昨日までの「絶望」ではなく、ある種の「光明」が宿っていた。
「……黒田殿」
王は、ゆっくりと立ち上がった。
「我々は、間違っていたようだ。『勇気』や『伝統』、そして『神頼み(召喚)』で国が救えると、本気で信じ切っていた。なんと愚かな固定観念だったか」
王は、バルガスに向き直る。
「バルガス。剣を収めよ。我々に足りなかったのは『武力』ではない。この方の『知性』……いや、『道具』だったのだ」
そして王は、玉座に戻ると、驚くべき宣言をした。
「わしは、本日をもって『隠居』する」
「父上!?」
「国王陛下!?」
アルベール三世は、第二王子レオンハルトの手を取った。
「この『古い頭』では、黒田殿の『道具』は使いこなせん。わしには、わしの『機会費用』が見えてしまった」
「レオンハルト。本日より、お前に王権を委ねる」
王は、黒田に向き直る。
「黒田殿。帰還の準備は、白紙に戻してくれ」
「え?」
「いや、命令ではない。どうか、どうか我らに力を貸してはいただけまいか!」
王と、王権を委ねられたレオンハルトが、二人同時に黒田に深々と頭を下げた。
「黒田教授。どうか、この国を救う『道具』の使い方を、私に、我々に、教えてください!」
黒田哲也は、現実世界(パラ経)では決して得ることのできなかった「教え甲斐のある生徒」と「実践のフィールド」を前に、静かに、しかし力強く頷いた。
「よろしい。ただし、私の講義は……高いぞ」




