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第8章

古賀隼人の胸に、静かに確信が灯った。

――この人と真正面からぶつからねば、歴史を変えることなど到底できない。

新選組副長助勤、一番隊組長・沖田総司。

敬意をもって接してくれる、この人を超えねばならないのだ。


隼人は深く息を吸い込み、静かに語り始めた。


「私は……ある人から、義を尽くした果てに無残に捨てられた一人の武士の話をよく聞かされました」


言葉は月光の下に落ちていく。

それは祖母・邦子の姿であり、そして新選組の未来を暗示するものだった。

だが隼人はその名も、未来も語らなかった。

――誰にも未来を知らせることは許されない。


沖田は黙って耳を傾けていた。


隼人は続けた。

「沖田さん……あなたは私の命を救ってくださった恩人です」


脳裏に蘇るのは転生直後。

混乱の中で刀を振るえず、死の刃に晒された自分を庇ったのは沖田総司だった。


「義を尽くすことを、あなたは貫こうとしている。

その姿勢に、私は救われた。……沖田さん、あなたは二度、私を助けてくださったのです」


隼人の声は熱を帯びていた。

沖田はその熱意を感じつつ、困ったように目を細めた。

「古賀さん……あなたは私に、何をしてほしいのですか?」


静かな問いかけ。

隼人は膝を正し、沖田を真っすぐに見据えた。


「……沖田さん。私も義を貫きたい。理想を追い求めたい。

だからこそ申し上げます」


沈黙が落ち、灯明の火が揺れる。

隼人は拳を握りしめ、声を強めた。


「――新選組一番隊組長を、一時的に私に託してください」


その言葉は、夜気を裂くように響いた。

月光に照らされた沖田総司の横顔は、微かに影を揺らしていた。


月明かりは薄氷のように縁側を染め、沈黙を白く包み込んでいた。

沖田総司はその光の下に静かに佇み、遠い夜空を仰いでいた。


「……古賀さん。何故、あなたはそこまで私を?」


微笑みは柔らかく、だがその奥にかすかな翳りを宿していた。

古賀隼人の胸は焼けるように熱くなり、言葉が迸る。


「何度でも申し上げます。

あなたは、私の命の恩人です。

そして――新選組最強の剣士。

その最強を、この時代から失わせてはならないんです」


月光の下、沖田の瞳が揺れた。

しかしやがて、澄んだ声で静かに告げる。


「……自分の体調は、自分が一番よく分かっています。

日に日に症状は悪くなる。

ついに古賀さん、あなたにまで悟られるほどに……。

けれど、それでも私は戦い――」


その言葉は最後まで紡がれることはなかった。

古賀が遮ったからだ。


「戦ってください!」


夜を裂く叫びだった。

縁側の空気が震え、凍てつく月明かりさえ砕けるかのように響いた。


「義のために! 新選組のために!

そして――あなたを慕う子どもたちの笑顔のために!

沖田さん、あなたはその剣を振るわねばならない!

あなたはこの組に、絶対に必要なお方だ!」


言葉は激情に押し流され、ついに古賀は畳に膝をついた。

額を深く叩きつけ、嗚咽を堪えきれぬまま、絞り出す。


「だからこそ……!

今はどうか――戦うために、治療に専念してください……!」


涙が畳に落ち、月光にきらめく。

それはまるで血の雫のように、歴史の大河へ溶け込んでいくかのようだった。


沖田は、呆然とその姿を見下ろしていた。

熱に焼かれた声と、冷たい夜風。

激情に震える若き隊士と、義に生きようとする自らの心。


月はただ無言で二人を照らし、その光が決意と涙を同じ色に染め上げていた。


嗚咽混じりの訴えは、夜の静寂を震わせ、月光に滲んで畳へと落ちていく。

その姿に沖田総司は、まるで時が止まったかのように動けずにいた。


自らのために、ここまで頭を垂れる者がいる。

新選組で共に剣を振るう仲間が、己の命を削るように願っている。

その事実が、沖田の胸を深く揺さぶった。


しかし――その口が、なおも強く言葉を紡ごうとしたその時。


「……なるほどな」


低い声が背後から響いた。

廊下の影から一歩踏み出したのは、副長・土方歳三。

月光を背に受け、その姿は獣の影のように濃く、そして威容を帯びていた。


沖田が驚きに息を呑む。

「副長……」


土方は二人を見下ろし、冷たい眼差しに微かな笑みを浮かべた。

「古賀の真意が分からなかったが……そういうことだったのか」


縁側に響く足音は重く、畳を軋ませる。

土方の視線は真っ直ぐに沖田を射抜いた。


「――総司。お前、少し休んでこい」


短く、重い言葉。

だが沖田は即座に首を振り、声を荒げた。

「そんな! 私は戦いたいのです、副長!」


その声には、義を貫こうとする剣士の矜持が宿っていた。

だが土方は一歩、さらに一歩と近づき、影を縁側に落とす。


「総司……お前、古賀ほどの剣士が、お前のために――新選組のために、頭を垂れたんだぞ」

低く、鋭い声。

「斎藤一と真っ向からやり合った男が、涙まで流してな」


沖田の胸に、雷鳴のような沈黙が響いた。

声が喉に詰まり、返す言葉を見失う。


土方はさらに続けた。

「お前の様子がおかしいことは……俺も薄々気づいていた。

だが黙ってきた。お前が剣を置くなどあり得ねぇ、そう信じてたからだ」


月明かりに照らされた副長は、そこでゆっくりと深く頭を垂れた。

冷徹無比と恐れられた男が、初めて見せる沈黙の礼。


その一瞬、空気が凍りついた。

縁側に座す沖田総司は、あまりの光景に声を失う。


「……副長が……頭を……?」


小さな呟きが夜気に散る。

それは驚愕であり、信じられぬ思いの吐露だった。

副長は誰よりも厳しく、誰よりも誇り高い。

その男が――自分のために。


心が揺らぎ、呼吸が浅くなる。

その時、静寂を破るように、朗らかな声が背後から響いた。


「……ようやく副長も折れたか」


沖田が振り返ると、縁側の影から永倉新八が姿を現した。

頬を掻きながら、大股で歩み出る。

夜目にも鮮やかな白い歯を見せ、にやりと笑う。


「なら、お前も折れてやんな、総司」


「……永倉さん? なぜ……」


驚きに声を詰まらせる沖田に、永倉は呵々と笑った。


「決まってるだろ。あれほど大声で古賀が叫べば、嫌でも目が覚めるわい。

俺だけじゃねえ。屯所中の半分は耳を澄ましてたかもな」


軽口に包まれた言葉。

だが、その眼差しは真剣だった。


沖田は口を開こうとした。

だが、こみ上げる感情が言葉を詰まらせ、ついに溢れた。


「……不安なんです」


その声音は、剣豪と呼ばれた男の口からは想像もつかぬほど弱々しかった。

「新選組は……僕にとって家族です。

けれど京の動乱は日に日に激しくなっていく。

その渦の中で、もし僕が剣を置いたら……

皆を裏切ることになるんじゃないかと……。

考えるたびに……胸が潰れそうになるんです……」


その告白に、場の空気が張り詰めた。

普段、誰よりも明るく、子どもたちに笑顔を見せる男の胸に、

これほどの苦悩があったとは――。


沈黙を破ったのは、古賀隼人だった。

畳に額を擦りつけるように土下座したまま、声を張り上げる。


「――沖田さん!」


嗚咽混じりの叫びは、夜空を震わせるほどの熱を帯びていた。

「あなたの家族である新選組を、私が、この命を賭けてでも守り抜きます!

だから……どうか……沖田さん! お願いします!」


涙が畳を濡らし、月光にきらめく。

その姿は決して虚勢ではなかった。

義に殉じ、覚悟を賭ける一人の武士の姿だった。


土方は沈黙を守っていた。

だが、その視線は「総司、お前も分かれ」と語っていた。

永倉は腕を組み、静かにうなずいていた。


三人の思いが一点に重なる。

その熱に、沖田の心が大きく揺さぶられる。


義を捨てることはできない。

だが、義を貫くには――守らねばならぬものがある。

それは仲間であり、子どもたちであり、そして……自分を信じる者の涙だった。


沖田総司は唇を噛み、やがて大きく息を吐いた。

月明かりの下、瞳を閉じ、静かに首を縦に振る。


「……分かりました」


その言葉は夜風に溶け、

だが確かに――誓いとして三人の胸に刻まれた。


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