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第7章

永倉新八と出会った夜、古賀隼人は胸の奥に熱を抱えたまま、自室に戻っていた。

永倉の言葉――「戦友だ」という直向きな信頼が、心に火を灯していた。


――俺は何を恐れているのか。


新選組を救うと誓いながら、その実、どこかで自分は傍観者の立場に立とうとしていたのではないか。

未来を知るという理由を盾に、歴史に抗う覚悟を避けようとしていたのではないか。


だが、会津を救うには。

沖田総司を救うには。

新選組が「虐殺の汚名」ではなく「大義の旗」を掲げるには。


――自らも命を賭して時代の流れに抗わねばならない。


胸の奥を駆け巡る思いが、隼人を突き動かした。


彼は立ち上がり、浅葱の羽織を羽織り直す。

冷たい夜風が頬を刺す中、足は迷わず向かっていた。


向かう先は、副長・土方歳三の部屋。


灯明が漏れる襖の前に立ち、隼人は拳を握った。

心臓が荒ぶるように脈打つ。

この言葉を口にすれば、己はもはや後戻りできない。

それでも――今、言わねばならぬ。


「……お願いがございます」


襖を開けて頭を下げると、そこにいたのは書状に筆を走らせていた土方歳三だった。

鋭い眼差しが隼人を射抜く。


「なんだ、古賀」


低い声。

その冷徹な響きに、隼人は己の迷いを断ち切るように言葉を吐いた。


灯明の炎が揺れ、畳に二人の影を落としていた。

古賀隼人は正座したまま、拳を膝に置き、静かに告げた。


「……副長。お願いがございます。

どうか、私を一番隊組長に任じてください」


土方歳三の筆が止まる。

低い笑いが漏れた。


「……ほう。てめぇ、正気か?」


視線が鋭く突き刺さる。

「一番隊は沖田のもんだ。あいつは誰よりも剣が立ち、誰よりも隊士に慕われてる。その席をよこせ? 笑わせるな」


畳に落ちた声は重く、冷たい。

土方は立ち上がり、影を長く落としながら言い放った。


「古賀。てめぇは確かに剣は立つ。だが、それだけだ。

仲間を束ねたこともなければ、血に濡れた戦場で旗を掲げたこともない。そんな若造に一番隊を任せられるか。――戯言も大概にしろ」


冷徹な拒絶。

普通なら退くしかない。

だが、隼人は膝を正したまま、まっすぐに顔を上げた。


「……副長。沖田さんは――病に侵されています」


沈黙が落ちた。

土方の眼光が細く鋭くなり、灯明の炎がざわりと揺れる。

次の瞬間、低く乾いた笑い声が漏れた。


「何をほざく」

嘲りの笑みが口元に浮かぶ。

「沖田はこの新選組の象徴だ。誰よりも剣を振るい、誰よりも隊士に慕われている。それを病だと? ……馬鹿馬鹿しい。そんな言い訳で席を狙うか」


土方の声は鋼のように冷たく、畳に突き刺さる。

しかし隼人は動じなかった。


「副長。私の言葉を戯言と仰るなら――証明させてください」


「……証明だと?」


土方の声が低く唸る。

その眼差しは、刃の切っ先を突きつけるかのように鋭い。


隼人は一歩も退かず、静かに言い放った。

「新選組副長助勤、一番隊組長――沖田総司殿と、本気の試合をさせてください。

その刃を受け止め、私が示しましょう。

病に侵された象徴の姿を。

そして、それでもなお私が勝てたなら……一番隊組長を任じていただきたい」


畳を震わせるような沈黙が広がる。

灯明がぱちりと弾け、影が長く揺れた。


土方の瞳は怒気と嘲笑の狭間で光を宿し、やがて唇の端を歪めた。


「……いい度胸だ」


その声には嘲りではなく、獣の牙を隠したような鋭さがあった。

「一番隊組長と試合したいだと? 俺でもそんな馬鹿は聞いたことがねぇ。……だがな、古賀」


土方は歩み寄り、畳を軋ませながら隼人を睨みつける。

「事はお前の思ってるほど軽くはねぇぞ。

良いか? お前は今、私情で俺を焚き付けた上に、新選組の象徴と戦うと言っている。それは一隊士が軽々しく踏み込んで良い領域じゃねぇ。……総司は剣の華だ。その誇りを折る覚悟があるのか?」


灯明の炎がぱちりと弾け、影が壁に濃く揺れる。


土方の眼光は冷徹に隼人を貫いた。

「もしお前の言う通り、総司を倒すことができたら……俺は一番隊組長をお前に任せてやる。だがな――お前が負けたら、どう落とし前をつける?」


沈黙。

畳を流れる冷気が隼人の頬を撫でた。

だが彼は微かに口元を緩め、静かに微笑んだ。


「……その時は、私を斬首してください」


土方の目がわずかに揺れる。

隼人は一切の迷いなく続けた。


「切腹ではなく、です。

武士としての礼も不要。ただの犬死にとして、斬り捨てていただければ本望です」


言葉は淡々としていた。

だがその静けさこそ、命を賭した覚悟の証であった。


土方の胸に、苛立ちと同時に抑え難い熱が走る。

若造の言葉。だが――その眼差しには虚勢が一片もなかった。


「……面白ぇ」

土方は低く呟き、唇に猛禽のような笑みを刻んだ。


土方の眼光が鋭く光り、唇に猛禽のような笑みを刻んだ。


「……いいだろう。試合を認めてやる」


その声は低く重く、畳に沈むように響いた。

隼人の胸に、張り詰めた緊張が走る。

だが次の言葉が、さらに重くのしかかった。


「だが、これは隊の中で内密に行う。

万が一お前の言う通り総司が病に侵されていたら……その噂が立った時点で新選組の士気は地に堕ちる。

そんな真似、俺が許すわけにはいかねぇ」


土方はゆっくりと隼人に歩み寄り、見下ろすように睨みつける。

灯明に照らされた眼差しは冷徹そのものだった。


「それから、総司との試合には二番隊組長の永倉、三番隊組長の斎藤を同席させる。

二人の組長が認めねぇ限り、たとえ試合に勝ったとしてもお前を一番隊組長にはせん。

……これは俺からの最後の条件だ」


土方は一息つき、声を低めた。

「総司には俺からじゃなく、お前自身が申し出ろ。

逃げ道を残すな。てめぇの覚悟で叩きつけろ」


沈黙。

灯明の炎がぱちりと弾け、二人の影を鋭く揺らした。

隼人は深く頭を下げ、拳を固く握りしめる。


「……承知いたしました」


その声には、恐怖も迷いもなかった。

ただ一人の新選組隊士として、命を賭す覚悟だけがあった。


面談を終えた古賀隼人は、深い息を吐きながら廊下を歩いていた。

土方歳三の眼差しはなお胸に刺さる。

副長は試合を認めた。だがそれは秘密裏に、永倉と斎藤の目を通して。

そして何より、沖田総司に自ら申し出よと命じられた。


――逃げ道はない。

己の覚悟を、この人に突きつけねばならない。


隼人の足は自然と沖田の部屋へ向かっていた。


縁側には、月光に照らされた背中があった。

沖田総司。

夜気を受け、白い息を吐きながら静かに空を仰いでいる。

淡い光に濡れた横顔は清らかで、しかし時折こみ上げる咳がその影を曇らせた。


隼人の胸に、熱いものが込み上げる。

――この人を、死なせはしない。

医学生としての知識を尽くし、未来を知る者としての宿命を背負い、必ず守る。

だが同時に、この人を倒さねば、自分は一番隊組長として池田屋に立つことはできない。


矛盾した誓いが胸を裂く。

それでも隼人は、乱れる呼吸を押し殺し、拳を握りしめた。


月光が縁側を白く染める中、隼人は一歩進み出て声をかけた。


「……沖田さん」


その声は震えず、しかし夜の静けさを破るほど強かった。


沖田総司は振り返る。

澄んだ瞳が月光を受け、優しく光る。

その眼差しと相対した瞬間、隼人の覚悟は決して揺るがなかった。


縁側に腰掛けた沖田総司が、月光に照らされた微笑を浮かべた。

「……どうしました?」


その声音は穏やかで、まるで夜気すら和らげるような優しさを帯びていた。


古賀隼人は胸にこみ上げる想いを抑え、微笑みを返す。

「……お身体の調子は、いかがですか?」


沖田は軽く笑い、咳を押し殺すように首を振った。

「良いですよ。おかげさまで」


その一言に、隼人の胸が波立った。

今まではその言葉を素直に受け入れてきた。

だが――今の彼には、もはや受け入れられなかった。


良いはずがない。

日々の咳、微かに乱れる呼吸。

医学生の目は、その体が静かに蝕まれていることを告げていた。


沈黙を破ったのは、再びの沖田の笑みだった。

「不思議ですね。古賀さんと話していると……すべてを見透かされているように感じます」


月光に濡れたその笑顔は、あまりに澄んでいて、あまりに儚かった。


古賀は息を吸い込み、畳に正座し直した。

「……沖田さん」


その声音は震えていたが、真っすぐに響いていた。

「無礼を承知で、申し上げます」


言葉を続けようとしたその瞬間、沖田が静かに手を挙げて遮った。

「――私に戦うな、と言いたいのでしょう?」


その声音は柔らかだった。

だが、刃を受け止める覚悟を秘めた者の声でもあった。


沖田総司は静かに笑みを浮かべ、正面から隼人を見据えた。

「古賀さん。……あなたが私を案じてくれていること、よく分かります。

だからこそ、敬意をもって申し上げます」


月光がその横顔を白く照らし出す。

澄んだ瞳に一片の迷いもなく、まるで未来をも射抜くような力が宿っていた。


「――私は戦いますよ」


その言葉は穏やかだった。

だが同時に、どんな挑発や諫言をも跳ね返す、揺るぎなき覚悟の響きを帯びていた。


隼人の胸に熱が込み上げる。

「なぜ……」と言いかけたその瞬間、記憶が鮮烈によみがえる。


かつて、市中の子どもたちと戯れる沖田が、真っ直ぐな瞳で語った言葉――

「京の動乱から、子どもたちの笑顔を守るために、私は剣を取ります」


その純粋な宣言を思い出し、隼人の言葉は喉で途切れた。

問いは無意味だった。

沖田総司の剣は義と笑顔のために振るわれる。

それは彼の全存在を支える真実であり、覆せるものではなかった。


隼人は拳を握る。

――猛者の剣。

沖田の剣に、付け焼き刃の挑発も、虚勢の誤魔化しも通じない。

彼に必要なのは、同じく命を懸けた真実の覚悟だけ。


冷たい夜気が二人の間を流れ、月光が刃のように鋭く縁側を照らしていた。


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