第6章
町家の路地を抜けた先にある小さな診療所。
暖簾には墨で「療治」と記され、薬草の匂いが漂っていた。
古賀隼人は浅葱の羽織を脱いで町人姿に身を包み、静かに戸をくぐる。
患者の姿はなく、帳場の奥に年配の医師が座していた。
五十を越えた痩せた体つき、白髪の混じる頭を結い上げた男。
眼光は鋭く、長年人の命と向き合ってきた者だけが持つ静かな厳しさを帯びていた。
「……療治を求めてか」
低い声で医師が問う。
隼人は一礼し、言葉を慎重に選んだ。
「いいえ、実は……少し伺いたいことがありまして。
胸の病について、先生のご見解を伺いたいのです」
医師は眉をひそめたが、やがて手元の薬箱を閉じ、こちらを見据えた。
「胸の病、とな」
隼人は続ける。
「咳が長く続き、夜には寝汗をかき、体が痩せていく。
やがて痰に血が混じり、ついには喀血する……そういった病です」
医師の目が細く光った。
「……そのような症例は多うござる。京の町でも珍しからぬ。
人はそれを“労咳”と申す。肺に熱が籠り、痰が溜まり、身を衰えさせる病よ」
やはり――未来で言う肺結核。
隼人は胸の奥で重苦しく呟く。
「先生、その病は……治せますか」
医師は静かに首を振った。
「治す術はない。長引けば必ず命を奪う。
せいぜい、痰を切り、熱を下げ、気を楽にすることしかできぬ」
隼人は深く息を呑み、さらに問いを重ねた。
「では、そのためにはどのような治療を?」
医師は卓に置いた薬箱を開け、指でいくつかの包みを示した。
「麻黄や杏仁を煎じ、痰を切る。
石膏や知母を用いれば熱を鎮められることもある。
甘草を加えれば気を整え、体を保てる。
……だが、これらは所詮は助けにすぎぬ。
根を断つことは叶わぬ」
隼人は一つひとつの名を心に刻みながら聞いていた。
未来では漢方の効能は補助的なものとされるが、この時代ではそれが唯一の武器だった。
医師はさらに続けた。
「養生も大事じゃ。
寒さを避け、身体を冷やさぬこと。
米や魚、卵を食わせて体を養うこと。
心を乱さぬよう、静かに暮らすこと。
……それでも悪くなれば、血を吐き、力尽きる」
その声は淡々としていた。
幾度も同じ病で人を看取り、幾度も無力を噛み締めてきた者の声だった。
隼人の拳は膝の上で震えた。
未来ならば――抗結核薬がある。
だがこの幕末にはない。
あるのは、薬草と養生と祈りだけ。
「……ありがとうございます、先生」
隼人は深く頭を下げた。
医師は首を振るだけで、再び薬箱に手を伸ばした。
その背を見ながら、隼人の胸には強い誓いが生まれていた。
――この時代の知識を無視してはならない。
だが未来の知識を重ねれば、必ずできることがあるはずだ。
食事を整え、休養を与え、空気の澄んだ場所で養生させる。
それが叶えば、沖田総司に――一日でも長い時間を与えられるかもしれない。
冬の空の下に出ると、冷たい風が頬を刺した。
吐く息は白く昇り、すぐに掻き消える。
その儚さが、沖田総司の命の炎と重なって見えた。
隼人は深く息を吸い、心に刻む。
――俺は諦めない。
新選組を救うために。
会津を救うために。
そして沖田総司の笑顔を、一日でも長く守るために。
その歩みは、冷たい石畳の上で静かに、しかし確かな決意を刻んでいた。
夜。
稽古を終え、町医者を訪ねた帰り、古賀隼人は自室に戻った。
戸を閉めると、薄暗い灯明の光が畳をわずかに照らし、外気の冷たさが隙間から入り込む。
白くなる吐息を眺めながら、隼人は膝をつき、深く息を整えた。
――間違いは許されない。
沖田総司を救うには、まず己が知る知識を正確に整理せねばならない。
彼は瞼を閉じ、医学生としての記憶を呼び起こす。
肺結核――
病原は細菌。空気に漂い、人から人へと伝わる。
吸い込まれた結核菌は肺に巣を作り、時間をかけて静かに身体を蝕む。
症状は咳、微熱、寝汗、体重減少。
進行すれば血を吐き、呼吸を奪い、やがて命を落とす。
――結核は人を静かに、だが確実に削り取る病。
思考はさらに深まる。
この時代には、ストレプトマイシンも、イソニアジドもない。
未来なら確実に救える命も、幕末では手の届かぬまま消えてゆく。
では、この時代で取りうる最善は何か。
町医者が語った言葉が脳裏に蘇る。
「痰を切り、熱を鎮め、養生させるほかはない」
それは無力の告白であると同時に、唯一の道でもあった。
――安静。
だが新選組の剣士として、それを許す日々は少ない。
屯所は常に張り詰め、戦いは間近に迫っている。
沖田をどう前線から退かせ、療養に向かわせるか……その口実を見つけねばならない。
――栄養。
白米と味噌汁だけでは弱るばかり。
魚、豆、卵、野菜――少しでも取り入れねば。
屯所の食事に工夫を加える方法を考える必要がある。
――空気。
冬の屯所は火鉢と煙に満ち、空気は濁る。
だが結核菌は光と風に弱い。
日光を浴びさせ、窓を開けて空気を入れ替えるだけでも、病の進行を遅らせられるかもしれない。
――隔離。
もし他の隊士に広がれば、屯所全体が蝕まれる。
だが仲間の絆を重んじる沖田に、孤独を強いることは難しい。
それでも、自分がそばにいて支えれば……。
隼人は拳を膝に置き、強く握り締めた。
医学生としての知識は、未来を照らす灯であるはずだ。
しかしこの時代においては、その灯はあまりに小さい。
小さくとも、消してはならない。
「……沖田さんを、救う」
灯明の火が揺れ、彼の呟きが自室に染み渡った。
未来を知る者として、ここにいる意味。
それは歴史の流れを壊すことではなく、流れの中で一人の命を守り抜くこと。
その決意は、冷えた夜気の中で静かに研ぎ澄まされていった。
灯明の下で肺結核の治療について思慮を巡らせた隼人の思考は、やがてもうひとつの岐路へと辿り着いた。
それは池田屋事件――。
――避けることはできない。
浪士たちが京に火を放ち、朝廷を転覆させようとした夜。
新選組が突入し、血の雨を降らせることになるのは歴史に刻まれた事実。
だが、あの事件は新選組を「剣の猛者」として名を高めると同時に、「浪士を虐殺した悪名」としても後世に語り継がれる。
その汚名こそが、新選組と会津の孤立を深める一因となった。
――ならば、自分が成すべきは何か。
隼人は畳の上で背筋を伸ばし、静かに目を閉じた。
答えは明らかだった。
池田屋を「虐殺」ではなく「正義」とすること。
「幕府の命令で浪士を斬った」のではなく、
「民を守るために暴挙を止めた」という形に変えること。
それが、大義を得る唯一の道であった。
幸いなことに、自分は剣豪として新選組内に信頼を得ている。
斎藤一からは冷たい眼差しで試され、沖田総司からは温かく見守られ、
仲間たちからも「兵の古賀」と呼ばれ、一目を置かれる存在となっていた。
この立場を――利用する。
斎藤が判断を下す時、己の言葉を差し挟む。
土方が策を練る時、己の意見を僅かに混ぜる。
沖田と共に隊士たちの先頭に立ち、その戦いの意味を声にして残す。
「……虐殺ではない。暴挙を止めたのだ」
その言葉を、自らの剣と共に刻む。
そうすれば、血に濡れた池田屋の夜もまた、大義の旗の下に語られるだろう。
隼人は深く息を吐いた。
自分は二つの戦いを抱えている。
一つは、沖田総司の病を遅らせ、一日でも長く命を灯す戦い。
一つは、池田屋事件を新選組の「破滅の始まり」から「大義の証明」へと変える戦い。
この二つを果たすことができれば――
新選組と会津は、未来のように孤立して滅ぶことなく、新たな道を歩めるかもしれない。
灯明が揺らぎ、畳に映る影もまた震えた。
だが古賀隼人の眼差しには、もはや迷いはなかった。
未来を知る異物として、剣豪として、そして医学生として。
自分にしか果たせぬ二重の使命が、今、確かに彼の胸に宿っていた。
深夜。
古賀隼人は机に灯明を置き、墨の匂い漂う中で静かに膝を組んでいた。
畳に指を置きながら、心の内で新選組の構成を改めて思い描く。
――一番隊から十番隊まで。
この組織は武力の集団であると同時に、血で繋がれた秩序の器でもある。
一番隊組長、沖田総司。
二番隊組長、永倉新八。
三番隊組長、斎藤一。
四番隊以下にも、勇名を轟かせる剣士たちが並ぶ。
その中で、池田屋において最前線を担うのは、一番から三番。
つまり、沖田・永倉・斎藤。
この三人の剣は新選組の象徴であり、彼らの言葉と行動が隊全体の方向を決める。
――ならば。
隼人は拳を握りしめる。
この三人からの信頼を得ることができれば、近藤勇、土方歳三に届く自分の声もまた重みを増す。
ただの一隊士ではなく、「組の柱に認められた者」として助言を刻み込むことができるのだ。
沖田総司――その心は澄み切り、子どもを愛する優しさを持つ。
信頼はすでに芽吹き始めている。
だが、彼を守るためにもさらに深く結びつかなければならない。
斎藤一――冷徹な剣の化身。
試合を通じ、わずかな承認を得た。
だが彼の眼差しを真に納得させるには、己の剣をさらに磨き、迷いなき姿を示さねばならない。
永倉新八――人情に厚く、仲間思いでありながら豪胆な剣士。
酒を酌み交わし、共に汗を流し、誠実に向き合えば、必ず心を開いてくれる。
その信を得られれば、多くの隊士たちもまた古賀を受け入れるだろう。
隼人は深く息を吸い、灯明を見つめる。
炎はわずかに揺れ、影を畳に落としている。
――自分が成すべきことは二つ。
一つは沖田を支え、守ること。
一つは一番隊から三番隊の柱たちに認められること。
それが果たされれば、自分の言葉は近藤局長の耳に届き、土方副長の策に組み込まれる。
その時こそ、池田屋事件を「虐殺」ではなく「大義」へと導けるのだ。
灯明の炎がぱちりと弾けた。
その音は、まるで未来への号令のように、隼人の胸に刻まれた。
夕暮れの屯所。
稽古を終えた道場には、まだ竹刀と汗の匂いが残っていた。
縁側に座り、息を整えていた古賀隼人の前に、影が落ちる。
「おい、古賀!」
振り返ると、背の高い武士が腕を組んで立っていた。
乱れた髷を気にもせず、快活な笑みを浮かべている。
その眼差しは鋭くも朗らかで、何より人を惹きつける力を持っていた。
――永倉新八。
二番隊組長、新選組随一の豪剣の士。
隼人の胸は一瞬、緊張に凍りついた。
未来を知る己には、永倉の名はすでに刻まれていた。
だが、それは「歴史上の剣士」としての知識にすぎない。
こうして生きた姿と声に出会うのは、初めてだった。
「どうした、そんな顔をして。まるで初めて会ったみたいじゃねぇか」
永倉は笑いながら隼人の肩を叩いた。
その一撃は豪快で、隼人の体がわずかに揺れるほどだった。
隼人は言葉を失い、ただ呆然と見上げた。
――初めてだ。だが、彼にとっては違う。
永倉の笑顔は、すでに長い戦場を共に駆け抜けた戦友へ向けられるものだった。
剣豪・古賀隼人としての記憶が、この時代には確かに刻まれているのだ。
「お前の剣には、ずいぶん助けられてきたぜ。
あの夜も、この間の斬り合いもな……」
永倉は当たり前のように語る。
だが隼人には、その「記憶」は存在しない。
未来から来た己は、まだ何も知らず、何も共有してはいない。
胸の奥で複雑な感情が渦を巻いた。
剣豪としての「過去」が、自分の知らぬまま築かれている。
だが今、目の前の永倉はそのすべてを信じ、戦友として語りかけている。
「古賀……お前は俺の仲間だ。
戦場で背を預けられる、数少ねぇ剣だ」
その言葉は豪快で、まっすぐで、嘘がなかった。
永倉の声には、仲間を大切にする人情が滲んでいた。
隼人は深く息を呑み、ゆっくりと頷いた。
――自分は、この男に信頼されている。
それは自分が知る歴史ではなく、この時代の現実。
ならば、この信を裏切ってはならない。
胸の奥に、静かな決意が芽生える。
剣豪としての古賀隼人の「過去」を、自らの未来と重ね合わせるのだ。
そうしてこそ、この信頼は真実となる。
夕陽が射し込み、縁側に二人の影を長く落とす。
その影は、すでに戦友のものとして寄り添っていた。