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最終章 誠の帰郷

明治九年

雪解け水が流れる春の会津。

長い冬を越えた山々にはまだ白い息が残り、

風は冷たさとやわらかさを併せ持っていた。

古賀隼斗と沖田総司は、その風の中に立っていた。

二人が営む診療所――「誠医庵」。

かつて剣で人を護った二人が、

今は命を癒やすことで人を救う場所だった。

古賀は白衣の袖をまくり上げ、

畑のように並ぶ診療所の薬棚を整えていた。

その傍らで、沖田総司が咳を抑えながら薬草を刻む。

「総司先生、無理はなさらずに。」

「古賀先生、そっちこそ。昨日から寝ていないでしょう。」

互いに言い合いながらも、口元には笑みがあった。

二人の間には、長い戦乱を共に越えた者にしかない、

静かな信頼が流れている。

その背後では、数人の弟子たちが忙しなく走り回っていた。

かつて沖田を診ていた老医と、その弟子たちだ。

皆、古賀に医を学ぶためにこの地に集まってきた。

「今日も患者でいっぱいですね……。」

弟子の一人が呟く。

古賀は優しく微笑んだ。

「それでいい。ここは“生きたい”と願う人たちの集う場所だ。」

昼下がり、診療所の縁側に座り、

沖田は白い息を吐きながら空を見上げていた。

まだ咳は残るが、彼の顔は穏やかだった。

古賀が薬箱を手に歩み寄る。

「……労咳は落ち着いてきましたね。

 会津の空気が合っているのかもしれません。」

「ええ。戦のない風は、こんなにもやさしいんですね。」

沖田は目を細めて微笑んだ。

「昔、剣で護っていた命を、

 今は薬と笑顔で護る。

 ――人の生き方って、不思議ですね。」

古賀は静かに頷き、言った。

「誠とは、剣ではなく、心に宿るもの。

 それをようやく、この手で確かめられるようになりました。」

二人は縁側で、しばし無言のまま春風に揺られていた。

桜が散るその音さえも、まるで遠い友の笑い声のように聞こえた。

その頃――

久坂玄瑞は、会津の麓にある小さな町で、

二人の子どもを抱きながら酒蔵の裏手に立っていた。

甕を磨くその手は逞しく、

けれど目元には柔らかな光が宿っている。

「母上、これ、できた!」

小さな手の中には、米と水を混ぜた白い粥。

「でかした!帰ってたらお父上に見せよう!」

久坂玄瑞――今は古賀隼斗の妻であり、

二人の母であり、そして新しい人生の造り手だった。

かつて国を変えようと夢見た彼女が、

今は“人を幸せに酔わせる酒”を造っている。

それは革命ではなく、日々の幸福のための営み。

彼女の笑顔は、戦を終えたすべての魂への慰めのようだった。

夕暮れ、診療所に立つ煙突から白い煙が上る。

古賀と沖田が灯をともすと、

その明かりは、遠く酒蔵の屋根を優しく照らした。

会津の夜は静かだった。

戦火の音も、悲鳴もない。

ただ、子どもの笑い声と、杯の音が重なるだけ。

沖田が言う。

「……この光景を、隼斗さんのお祖母様にも見せたかったですね。」

古賀は微笑む。

「きっと、どこかで見ていますよ。

 “よくやった”と笑ってくれているはずです。」

風が、桜の花びらを運んだ。

花びらは空に舞い上がり、

月明かりの下でまるで“誠”の文字のように浮かび上がった。

そして――

古賀は空に向かって静かに呟いた。

「おばあちゃん……俺はようやく“人を斬らない生き方”を見つけたよ。」

その声に呼応するように、酒蔵の方から久坂玄瑞の笑い声が届いた。

彼女の手を引く二人の子どもが駆けてくる。

「父上ーっ!」

古賀は膝をつき、左手を広げる。

子どもたちが飛び込んでくるその瞬間、

彼はようやく理解した。

戦も、剣も、誠も――

すべてはこの笑顔を護るためにあったのだと。

夜空に星が瞬き、

診療所の灯が静かに揺れる。

沖田はその光を見つめながら、

「……この場所こそ、俺たちの最後の戦場ですね。」

と呟いた。

古賀は頷き、微笑んで答える。

「ええ。そして、永遠に戦のない戦場です。」



朝靄の中、山々が淡く金に染まり始めていた。

月の時代は去り、陽の時代が訪れている。

庭先のタチアオイは、今日も背を伸ばし、風にそよいでいる。

だがその色は、もはや血のような赤ではなかった。

やさしい薄桃色――まるで、誰かの赦しを宿すように。

花の傍らで、蝶が一匹、羽を広げた。

その羽は、かつて祖母・邦子が語った“悲しみの蝶”と同じ形をしていた。

けれど、違っていた。

その翅は光を受け、虹のように輝いていた。

「……あの時、会津は滅びなんかせんかった」

老婦人の声が、静かに響く。

縁側に腰をかけた老婦人――古賀澄江。

その膝の上には、七つになる少年が座っていた。

曽祖父・隼人の面影を宿す瞳で、彼は祖母の語りを真剣に聞いている。

「会津は義を捨てなんだ。

 だからこそ、負けなんだ。

 あの人たちは、剣で世を奪おうとせず、義で世を治めようとした。

 その魂が今の日本を作ったんじゃ」

少年は目を見開いた。

「じゃあ、新選組も……?」

澄江は静かに頷いた。

「新選組もまた、最後まで“誠”を貫いた。

 あの人たちがいたから、幕府も会津も、義を捨てずに済んだんじゃ。

 誰も賊軍にはならなかった。

 義の心を忘れんかったから、この国は戦のない国になったんじゃ。」

その声を聞きながら、朝の光が障子を透かして二人を包み込む。

庭の蝶がゆっくりと舞い上がり、やがて青空へと溶けていった。

祖母の目には涙が光る。

「……おじい様もね、きっとあの蝶を見ておるよ。

 血を流した者たちが報われる時代を、ずっと夢見ていたんじゃ。」

少年は拳を握り、胸を張る。

「僕、大きくなったら“誠の人”になる!

 おじい様みたいに、義を貫く人になる!」

澄江は微笑み、そっとその頭を撫でた。

「ええ、きっとなれるわ。

 だってあなたの血には、“誠”が流れておるもの。」

その時、庭の奥から風が吹き抜けた。

タチアオイが揺れ、花びらが空へと散る。

蝶が再び舞い戻り、澄江と少年の間をゆるやかに通り過ぎてゆく。

それはまるで、あの夜――血の月の下で散った魂たちが、

この平和を見届けに来たかのようであった。

風に溶け、朝の光に溶けていく。

かつて夜の庭に落ちていた血の影は、今や花の露へと変わり、

蝶は滅びの象徴ではなく、再生の使いとなった。

義に生きた者は報われ、

誠を掲げた者は愛された。

そして、

剣の時代は終わり――

心の時代が、静かに、確かに続いていた。

朝陽が昇る。

庭の蝶は空高く舞い上がり、

その影はやがて雲を越え、永遠の空へと消えた。

まるでこう告げるかのように――




「義は滅びず、誠は続く。」

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