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もう一つの明治維新

鳥羽伏見の戦の勝報が大阪城へ届いてから数日後、薩長軍への追撃戦も行われている頃、城下のあちこちで太鼓が鳴り、人々が泣き、歓喜の声が沸き起こる。

 だが、その喧噪は西の丸の一室には届かない。

 障子の向こうには静寂が広がり、そこにはただ一人、灯火に背を向ける男がいた。

 ――徳川慶喜。

 勝者であり、同時に敗者でもある男。

 その瞳は、勝利の光ではなく、どこか遠く、未来の闇を見つめていた。

 「……これが勝利、か。」

 呟きは静かで、風に溶けるほどの小さな音だった。

 戦を制し、幕府は再びその権威を取り戻した。

 だが、慶喜の胸には、まるで氷のような冷たさが広がっていた。

 彼の前には報告書が山のように積まれている。

 薩摩、長州の敗走、民の歓声、商人たちの献上品。

 だがそのどれもが、彼の心を満たすことはなかった。

 「……この国は、勝ってなお、滅びの道を歩んでいる。」

 その時、静かに襖が開いた。

 入ってきたのは京都守護職・松平容保と、

 徳川の勝利を外交の証として見届けていた久坂玄瑞。

 「将軍様。薩長軍は退きました。

  このまま追撃を仕掛ければ、叛乱は完全に鎮められましょう。」

 松平の声には疲労と歓喜が混じっていた。

 慶喜はそれを聞きながら、机の上の硯を見つめた。

 「……容保。勝つことに、何の意味があるのだろうな。」

 「は?」

 松平が言葉を詰まらせる。

 慶喜はゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。

 朝靄の向こう、江戸の街が淡く光っている。

 瓦屋根の隙間から立ち上る煙は、戦の煙とは違う――人の営みの証。

 「この国はもう、剣では保てぬ。」

 「……将軍、何をおっしゃるのです。」

 慶喜は背を向けたまま、静かに言葉を続けた。

 「この十年で、我らの国はあまりに多くを見た。

  黒船、砲艦外交、そして外国の“理”という怪物だ。」

 拳を握りしめる音がした。

 「薩摩も長州も、倒幕を叫んだが、彼らもまた同じ“理”に飲まれている。

  戦い続ければ、やがてこの国は、異国の糧になる。」

 その声音には震えがあった。

 恐れではない。

 人として、時代の潮流を前にした――孤独の震えだった。

 久坂玄瑞が一歩進み出る。

 「では、どうなさるおつもりですか。」

 慶喜は振り返り、彼女を見据えた。

 その瞳の奥に、長い夜を越えた人間の光があった。

 「幕府は終える。」

 その一言が、部屋の空気を凍らせた。

 松平が震える声で叫ぶ。

 「なんと申されます! この戦に勝ったばかりではございませぬか!」

 「勝ったからこそだ。」慶喜は静かに遮る。

 「敗れて終わるのでは遅い。

  だが、勝って終われば――民は未来を信じられる。」

 久坂玄瑞はその言葉を聞きながら、胸の奥が締め付けられた。

 戦場で血を流した者たちの思い。

 古賀隼斗の“誠”を胸に刻む者として、

 その決断の重さが痛いほど分かった。

 「……それが、将軍としての御決意ですか。」

 慶喜は微かに微笑み、頷いた。

 「この国は封建の鎖を断ち、理を以て治めるべき時だ。

  民が声を上げ、学び、話し合う“議”の国を作らねばならぬ。

  それが、徳川の最後の責務だ。」

 松平容保は沈黙し、久坂は静かに涙を落とした。

 慶喜はそれを見て、ゆっくりと筆を取る。

 墨が紙に落ちる音が、まるで時代の心臓の鼓動のように響いた。

 筆は迷いなく動き、

 その文字は、やがて一つの命となって書き上げられる。

 ――幕藩体制終焉の詔。

 慶喜は筆を置き、深く息を吐いた。

 「これでようやく、徳川も人の世に還れる。」

 その言葉を最後に、

 外の光が障子を透かして彼の姿を包み込んだ。

 その背中は静かに――しかし確かに、時代を終わらせた者の背だった。


明治五年、春。

 京の空は穏やかで、まるで長い戦乱を憐れむように柔らかな陽光を落としていた。

日本は激動の時代を抜け出し、静かに新たな黎明を迎えていた。

 徳川慶喜による英断――幕藩体制の終焉。

 それは、三百年に及ぶ武家の秩序を閉じ、

 理と民の声によって治める新しい国を築くための礎であった。

 かつて戦場で命を賭した将軍は、今や筆を執り、

 剣を捨て、言葉によって国を導く政治家へと姿を変えていた。

 徳川家は依然として議会の中枢にありながらも、

 血統の威光ではなく、理と法によって人々を束ねようとしていた。

 ――国民主権。

 それは、彼が最後に残した「剣ではなく理による統治」の果実だった。

 その改革の中で、一人の女性が政に名を残す。

 久坂玄瑞。

 かつて幕末を駆け抜けた女志士は、今や新政府の顧問として慶喜の右腕にあった。

 彼女の進言によって、長きにわたる武士階級は正式に廃止され、

 “誠”の名を背負った者たちは、それぞれの道へと歩み出した。

 「刀で守る時代は終わりました。

  これからは、秩序と法でこの国を護るのです。」

 玄瑞のその言葉に、多くの武士が涙を流した。

 だが、希望は失われなかった。

 願う者には軍や警察への道が開かれ、

 彼らは再び“民を護る者”として生きることを許された。

 その流れの中で、ひとつの組織の名が再び人々の口に上った。

 ――新選組。

 法の下で人々に寄り添い、町を守る者たちの名として甦ったのである。

 京都の民の声がそれを望み、政府は正式にその名を引き継ぐことを決定した。

 白き詰襟の制服に浅葱色の意匠。

 誠の旗は、血に染まることなく、新たな正義の象徴として風に翻っていた。

 「我らはもう、賊を斬る者ではない。」

 「民のため、秩序を守る者だ。」

 その誇りを胸に、新生・新選組は全国の警察制度の模範となり、

 やがて“民の盾”として人々に慕われる存在へと変わっていく。

 京の町を歩けば、子どもたちが口ずさむ声が聞こえる。

 「しんせんぐみの、おまわりさん――」

 誰もが笑っていた。

 だがその笑顔の奥に、かつて血に染まりながらも誠を貫いた者たちの魂が、

 確かに生き続けていた。

 剣から法へ。

 誠から理へ。

 それは、滅びではなく――継承であった。

 かつて火と煙に包まれたこの都は、いま、桜と笑い声に満ちている。

 新たな時代――近代日本。

 議会政治の礎が築かれ、鉄道が走り、人々の暮らしに文明の息吹が宿り始めていた。

 だが、その波の中にあっても、ひとりの女は静かに官邸を去っていった。

 久坂玄瑞。

 明治政府の顧問として国の未来を描いてきた彼女は、

 そのすべてを置いて、ただひとりの男のもとへと帰ることを選んだ。

 彼女が官職を辞する際、政府の者たちは驚いた。

 「なぜだ、久坂殿。あなたの知恵は、この国にこそ必要だ。」

 玄瑞は微笑み、ただ一言を返した。

 「――私の国は、あの人のいる場所にございます。」

 その声には迷いがなかった。

 戦場の炎を越え、理と義を越えて、

 彼女はついに“愛”という最も人間的な選択をしたのだ。

 そしてその春、京の片隅。

 白壁の小さな診療院に、白衣を纏った男が立っていた。

 古賀隼斗。かつて新選組一番隊組長と呼ばれた男。

 今は、人を救う者として、静かに命と向き合っている。

 戸口に立つ玄瑞の姿を見つけ、古賀は一瞬、息を止めた。

 白い着物に、髪を結い上げ、頬には春の光。

 まるであの日の戦火の夢を洗い流したように、美しかった。

 「……本当に、来てしまったのですか。」

 「ええ。」

 玄瑞は微笑む。

 「あなたの隣で、生きたいのです。」

 古賀は言葉を失い、ただその瞳を見つめた。

 かつて理想を語り、命を賭けて国を変えようとした女が、

 今は自分という小さな命のために、全てを置いてきた。

 「私は――あなたを縛ってしまう。」

 「いいえ。」玄瑞は首を振る。

 「あなたに、自由を教えてもらいました。」

 そう言って彼女はそっと歩み寄り、古賀の左手を取った。

 その手は傷だらけで、幾多の命を斬り、そして今は救っている。

 「この手を見ていると、私は救われるのです。

  あなたがこの国の痛みを知っているから、

  この国の人々はきっと癒える。」

 古賀は目を閉じた。

 彼の胸に、あの日の戦火と、失われた命たちの声が蘇る。

 だが――その全てが、今、静かに報われる気がした。

 「……玄瑞。」

 「はい。」

 「あなたが政府を去ってまで来てくれたのなら、

  私も、この命の限り、あなたを守り抜きます。」

 二人は見つめ合い、春風の中で微笑み合う。

 その日の夕暮れ、診療院の裏庭で、二人はささやかな婚礼を挙げた。

 立会人は永倉新八と斎藤一。

 桜の花が舞い、酒樽の蓋が割られる音が響く。

 「おい古賀、医者のくせに緊張してんじゃねぇぞ!」と永倉が笑い、

 斎藤は静かに杯を掲げて言った。

 「誠の旗は、今日ここに安らぎを得た。」

 玄瑞はその言葉に微笑み、白い指で古賀の手を包む。

 「戦のない時代で、あなたと生きられる。

  それだけで、私は十分です。」

 夜が訪れる。

 桜の花びらが燭台の灯りに照らされ、二人の影を優しく包み込む。

 古賀は、かつての浅葱色の隊旗を手に取り、

 玄瑞の肩にそっと掛けた。

 「この旗を、今度は命を救う象徴にしよう。」

 玄瑞は頷き、涙を浮かべて言った。

 「誠とは――人を信じること。

  そして、生きること。」

 風が二人を撫で、遠くで鴨川のせせらぎが響く。

 あの日の喧騒も、血の匂いも、もうどこにもない。

 残ったのは、ただひとつ。

 ――生きるという奇跡。

 夜空を見上げれば、星々がきらめいていた。

 まるで新しい時代を祝福するかのように。

 古賀は玄瑞の肩を抱き、静かに囁いた。

 「これが俺たちの“誠”だ。

  誰も斬らず、誰も奪わず、ただ生きて、人を救う誠だ。」

 玄瑞は微笑み、彼の胸に顔を埋めた。

 「……ようやく、辿り着けましたね。」

 春風が二人の髪を揺らす。

 その風の中で、古賀隼斗と久坂玄瑞は静かに唇を重ねた。

 時代はようやく、彼らに微笑んだ。

 ――血と義の時代の果てに、誠の春が訪れた。

 そしてこの日、

 “久坂医院”の屋根の上に掲げられた新しい旗には、

 かつての浅葱の誠とは異なる、一文字が記されていた。

 「仁」――人を想う心。

 それこそが、彼らが選んだ新しい時代の旗印であった。


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