鳥羽伏見の戦い 決着
――あたたかい風が吹いていた。
戦場の硝煙の匂いも、血の味も、すべてが遠ざかっていく。
古賀隼斗は、まるで夢の中を歩くように、静かな野を進んでいた。
見渡す限りの金色の草原。
風が草を撫でるたびに波が生まれ、どこまでも広がっていく。
その中心に、ひとりの老女がいた。
祖母だった。
薄い灰色の着物に包まれたその姿は、懐かしい記憶そのものだった。
幼いころ、何度も抱きしめてくれた腕。
悲しいときは黙って背を撫でてくれた掌。
――あの掌が、そこにあった。
古賀は思わず足を止める。
胸の奥が締めつけられた。
戦場で幾度も死を覚悟したときですら、
これほどの痛みを覚えたことはなかった。
「……おばあちゃん……」
声が震えた。
それだけで、涙が零れた。
「俺は……間違ってのかもしれない。
医を志したのに、人を救いたかったのに……
気づいたら、誰よりも多くの命を斬っていた……」
言葉を吐くたびに、胸が焼けるように痛んだ。
それは自らが積み重ねてきた“義”という鎧が、
音を立てて崩れていく音のようだった。
「俺は……何のために剣を取ったんだろう……?
祖母さんの涙を見たくなくて、弱い自分を変えたかっただけなのかもしれない。
でも……気づけば、“守る”と言い刃を手に取った」
嗚咽が漏れる。
膝が崩れ、土の上に落ちた。
その涙は草を濡らし、陽光を反射して煌めいた。
祖母は、何も言わなかった。
ただ、静かに近づいてきて、古賀の顔に手を伸ばした。
指先が頬に触れた瞬間、
戦場の冷たい風が、あたたかい春風へと変わった。
「……おばあちゃん……俺は、人を救えたのかな……?」
答えはない。
けれど祖母の瞳が微かに細まり、
その皺だらけの頬に、やわらかな笑みが広がった。
――それだけで、十分だった。
言葉よりも深い理解。
赦しよりも深い愛。
その一瞬で、古賀はすべてを悟った。
ああ、これでいい――。
これでようやく、“誠”の意味を知ることができたのだ。
「ありがとう……おばあちゃん……」
声は震え、涙が頬を伝った。
だが、その涙は悲しみではなかった。
何年も胸の奥にあった罪が、少しずつ溶けていくような――
やさしい、光のような涙だった。
祖母は微笑んだまま、ゆっくりと姿を薄めていく。
光の粒が風に舞い、草原を金色に染めた。
古賀は立ち上がり、風の中で目を閉じた。
重荷は消え、胸の奥に残ったのはただ一つ――
“生きた証”という、穏やかな温もりだけだった。
そして、空の彼方から祖母の声が微かに届いた。
――「よく、頑張ったね。隼斗や。」
古賀の唇が、ゆっくりと微笑みに変わる。
草原が光に包まれ、世界が溶けていく。
それは終焉ではなかった。
長い戦いの果てに辿り着いた、魂の救済だった。
――雨上がりの空に、鈍い朝日が差していた。
鳥羽伏見の戦場。
焼け焦げた大地から、湯気のように白煙が立ちのぼっている。
無数の足跡、割れた銃、血に濡れた旗。
それでも――そこに吹く風は、どこか優しかった。
幕府軍、勝利。
その報せが伝わると、
泥と血に塗れた兵士たちが次々と天を仰ぎ、声を上げた。
泣きながら抱き合う者。地面に崩れ、ただ空を見上げる者。
――誰もが信じられなかった。
歴史の歯車が、確かに軋みながらも“逆転”したのだ。
だがその歓声の中で、別の戦が繰り広げられていた。
「隼斗!! おい隼斗!!!」
泥にまみれた沖田総司が、血反吐を吐きながら叫んでいる。
その白い肌はもう死人のように青く、それでも彼は手を止めない。
地に倒れた古賀隼斗の胸を、両手で必死に叩いていた。
「起きろぉぉっ!! 馬鹿者ぉっ!!!」
咳と共に血が飛ぶ。
それでも沖田は叩く。何度も、何度も。
「げほっ……げほっ……貴様ぁ、勝って……寝る気か……っ!」
その姿を見た永倉新八が、慌てて駆け寄る。
「おい沖田っ!! てめぇが死ぬぞ!!!」
「まだ死なん! こいつを叩き起こすまでは死なんっ!!」
「お前もう血吐いてるじゃねぇか!!!」
「血ぐらい……出るわっ!!!」
斎藤一はその様子を見て、額を押さえる。
「……阿呆どもだ。」
呆れたように呟きながらも、その声には微かな安堵が混じっていた。
そんな喧噪の中――微かに、古賀の指が動いた。
そして、かすれた声が漏れる。
「……ここは……地獄ですか?」
永倉の目が飛び出る。
「おおおっ!? 喋ったぁ!? 奇跡だコレ!!」
沖田は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、
「地獄じゃない……勝ったんだよ……私たちは……勝ったんです……っ!!!」と叫んだ。
その言葉に、古賀はゆっくりと目を開けた。
彼の瞳に、白んだ空が映る。
遠くで聞こえる勝鬨の声が、夢のように響いていた。
「……勝ったのか……?」
「おうよ!」と永倉が笑う。
「お前の檄に、皆が応えたんだ。
あの錦の御旗を撃ち抜いた瞬間、戦場が一変した。
“幕府軍は死なず”ってな!!」
古賀は目を閉じ、震える唇で小さく呟く。
「……よかった……。
これで、民が……泣かずにすむ……。」
その言葉に、永倉は顔をしかめる。
「おいおい、泣かせんのはお前だよ。死ぬ気かこの野郎!」
「そうだぞ……」
沖田が笑う。
咳をしながら、それでも満足そうに微笑んでいた。
「勝ったら笑う……それが決まりだろう、隼斗……。」
古賀も笑った。
その笑みは、血に濡れた世界の中で、
たしかに“希望”という名の光だった。
斎藤は静かに二人を見つめ、そして天を仰ぐ。
戦火に焼け焦げた雲の隙間から、
一筋の光が差し込み、三人の顔を照らしていた。
「……鳥羽伏見、幕府軍、勝利。」
斎藤の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「――だが、これは終わりじゃない。
これは、“誠”の始まりだ。」
その言葉に、沖田と永倉が顔を見合わせる。
「……相変わらず、格好つけるなぁ斎藤。」
「はっ。誰かさんみたいに血を吐きながら騒ぐよりマシだ。」
「なんですって!? 私の芸術的な血吐きシーンを馬鹿にする気ですか!?」
「芸術ではないな」
「この野郎――!」
永倉と沖田がまた言い合いを始め、
古賀はその横で目を細めて笑った。
笑い声の向こうで、夜明けの太陽が昇っていく。
――泥と血にまみれた英雄たちの笑顔。
それが、勝利という名の朝の証だった。
――大阪城天守、深夜。
報告が駆け込んだ瞬間、久坂玄瑞は息を呑んだ。
「……鳥羽伏見、幕府方、勝利――!」
その一言に、部屋の空気が一変する。
燃えるような沈黙。誰もが言葉を失う中、久坂の唇が震え、
やがてその目から、一筋の涙がこぼれた。
「……勝ったのか……本当に……」
震える声が、夜の静寂に吸い込まれていく。
長きにわたり“時代の潮流”に押し流され、嘲られ、追われ続けた幕府。
だが、その誇りは、まだ消えていなかった。
玄瑞の頬を伝う涙は、悲しみではなく、
燃え尽きた信念が再び灯った喜びの涙だった。
「皆……よく、戦った……!」
久坂は拳を握りしめ、嗚咽を堪える。
だが、次の瞬間――その顔に陰が落ちた。
「……古賀隼斗は? あの男は無事なのか?」
報告を持ってきた兵が言葉を詰まらせる。
戦場の情報は混乱していた。
勝利の報せの中に、まだ確かな答えはなかった。
「古賀は……最後まで戦っていたと……」
「それで?」
「……その後の消息は、まだ……」
久坂の指が小刻みに震える。
胸の奥に冷たい鉄の塊のような不安が広がった。
――あの男がいたからこそ、勝てた。
誰よりも命を削り、誰よりも先に立った。
あの若者の剣が、時代を繋ぎ止めたのだ。
「……この勝利に……奴の命が代償だというのなら、」
久坂はゆっくりと立ち上がり、
窓の外に広がる夜空を見上げた。
「……それは勝利ではない。」
――風が障子を揺らした。
その音を聞いた瞬間、久坂玄瑞の胸の奥で何かがはじけた。
「……行かねば。」
囁くように言葉が漏れる。
誰に聞かせるでもないその声には、
涙の底で燃えるような決意があった。
報せは届いた――鳥羽伏見、幕府方勝利。
皆が歓喜に沸き、城中がざわめきに包まれていた。
だが玄瑞の胸には、喜びよりも先に、ひとつの顔が浮かんでいた。
――古賀隼斗。
あの人がいなければ、この勝利はなかった。
あの人が剣を振るい、己を削り、皆の心を繋ぎ止めた。
けれど同時に、玄瑞は知っていた。
古賀が「勝利のために命を捨てる覚悟」を、
誰よりも強く抱いていたことを。
「……嫌よ、そんなの。」
絞り出すような声。
裾を乱し、玄瑞は立ち上がった。
止める声が背後から響く。松平容保が驚愕の表情で彼女を呼んだ。
「玄瑞、どこへ行く!」
「鳥羽伏見へ。」
「危険だ! 今は戦の――」
「危険でも構いません!」
叫んだ声が、夜の城を震わせた。
瞳には涙が光り、しかしその奥には、誰にも折れぬ意志が燃えていた。
「……あの人に、会わなければ。
生きていても、死んでいても……。
あの人の傍にいなければ、私、生きている意味がないの。」
その言葉に容保も何も言えなかった。
久坂玄瑞という名を持つ女――
かつては攘夷を夢見た志士。だが今、彼女の胸にあるのは国ではなく、一人の人だった。
障子を開けると、冬の風が頬を打った。
冷たいのに、どこか懐かしい匂いがした。
あの夜もそうだった――
初めて古賀と出会った日も、こんな風が吹いていた。
「……隼斗、」
唇が震える。
「そなたは、また一人で戦っているのね……。」
久坂は草履を履く間も惜しみ、裸足のまま石畳に飛び出した。
血と煙が漂う夜の空を駆ける。
裾が泥に濡れても構わなかった。
風に髪が乱れても、涙が頬を濡らしても、もう止まれなかった。
――ただ、逢いたい。
勝利の報せがどうでもよくなるほど、
彼女の心は、古賀隼斗という一人の男にすべてを奪われていた。
「どうか、どうか生きていて……」
呟きながら、久坂は闇の中を走り続けた。
遠く、鳥羽伏見の空がうっすらと白み始める。
戦の煙を割って、朝日が顔を出す。
久坂玄瑞はその光の中へ――
愛する人の名を胸に、ひた走った。
まるで祈るように、泣きながら。
――夜の闇を裂くように、久坂玄瑞は駆けていた。
息が切れているのも構わず、ただ足を前に出す。
凍てつく風が肌を裂き、涙を乾かす。
けれどその涙は止まらなかった。
――隼斗。
名を呼ぶたび、胸の奥が痛んだ。
戦の報せを聞いた瞬間、胸に灯った喜びは一瞬で霧散した。
勝利など、どうでもよかった。
その勝利の代償に、もし彼が――。
「……嫌よ、そんなの……!」
声にならぬ叫びが夜空へ溶ける。
裾は泥にまみれ、
指先には血が滲んでいた。
それでも彼女は止まらない。
闇の中を、ただあの人のもとへ。
――“隼斗、幕府軍が勝ったのよ。そなたのおかげで。”
心の中で、息を切らしながら久坂は呟く。
――“だが……そなたが死なんば、私は……私は……”
言葉は涙にかき消された。
彼と過ごした幾つもの記憶が、走馬灯のように甦る。
初めて出会った路地裏。
互いに立場を超え、志を語り合った夜。
そして――最後に交わした、あの柔らかな笑み。
“そなたは強いな”と、笑って言ったあの声。
“お前がいるから、俺は人でいられる”と、震えるように言ったあの夜。
「……嘘つき。」
久坂の唇からこぼれた。
「人でいられる、なんて言って……
そなたがいなければ、私はどうすればいいの……!」
足がもつれ、地面に崩れ落ちる。
その掌に触れた土は温かく、戦の血の匂いがした。
涙がぽたりと落ち、泥に溶けていく。
――それでも、立ち上がる。
久坂玄瑞は袖で涙を拭い、もう一度走り出した。
遠くで、戦火の残り煙が夜空に浮かんでいる。
そこに、彼がいる――そう信じて。
「隼斗……どうか、どうか応えて。
私はまだ、そなたに伝えたいことがあるの。」
風が泣き、夜が震える。
久坂玄瑞は、愛する人の名を胸に、闇の中を駆け抜けた。
まるで、命そのものを燃やすように――。
夜が明けきらぬ空は、まだ墨を溶かしたように暗く、
焼け焦げた土の匂いが陣を覆っていた。
風が吹くたびに、遠くの戦場から血と硝煙の残り香が運ばれてくる。
その天幕の中に、まだ戦の息遣いがあった。
うめき声、包帯の擦れる音、湯を沸かす薬壺の音。
そしてその中心で、老医の怒号が響く。
「貴様ァ! まだ起き上がるか、この愚か者が!」
沖田総司は、子どものように背を丸めてしゅんとする。
「す、すみません先生……でも寝てると体が痛くて……」
「痛くて当然じゃ! あの出血でまだ喋っておる方が奇跡じゃ!」
杖が床を叩く音に、天幕の外の隊士たちが吹き出した。
「ははは、沖田さん、先生に怒られとる!」
「新選組の1番隊組長でも、あの医者だけは敵わんらしい!」
笑いが広がる。
それは戦の喧騒をかき消すほど小さく、それでいて温かかった。
その一角――包帯に包まれた古賀隼斗は、静かにその光景を見つめていた。
顔は蒼白く、左腕はまだ動かない。
それでも彼の唇には微かな笑みがあった。
(……この光景を、もう一度見られるとはな)
勝利の報せは届いていた。
薩長軍、退く――。
幕府軍、鳥羽伏見にて戦線を制す――。
だが、古賀の胸には歓喜よりも深い静寂があった。
あの修羅の戦場を越えて、いまここに生きている。
それがまだ現実とは思えなかった。
天幕の外では、兵の足音が近づいてくる。
幕府の報告兵が駆け込み、深く頭を下げた。
「古賀組長、報告! 松平容保公を中心に追撃軍が結成され、薩長軍を追っております!」
老医が手を止め、隊士たちがざわめく。
沖田も顔を上げ、永倉が腕を組んで報告を聞く。
その中で、古賀だけが静かに瞼を閉じた。
一呼吸――。
「……そうか。」
その声は、疲労に滲みながらも凛としていた。
「報告ご苦労だった。」
そう言ってから、古賀は息を吸い、報告兵の肩に視線を据える。
「だが伝えよ。」
声が静かに、しかし確かに重く響く。
「戦のために、慈悲を捨てることはやむを得ぬ。
だが――」
その瞬間、天幕の中の空気が変わった。
風の音さえ止んだように思えた。
「投降した兵を斬るな。
戦火に巻かれた民を、決して傷つけるな。
勝利とは、命を奪い尽くすことではない。」
報告兵が息を呑む。
沖田が微笑し、永倉が「らしいな」と呟き、斎藤は無言で刀を置いた。
古賀は、まだ震える手で包帯を押さえながら言葉を続ける。
「この勝利は、血にまみれた誠だ。
斬ることではなく、守るために振るった刃の結晶だ。
それを穢すことは、この俺が許さぬ。」
老医が深く息をつき、しばし古賀を見つめる。
「……お主、ほんに人を斬る顔ではないのう。」
古賀は微かに笑う。
「俺は……医師志望でしたから。」
その言葉に老医が目を見開き、やがて喉の奥で笑った。
「ならば、この戦場でまだ生きておる理由も分かる。
人を救う志は、どんな剣よりも強い。」
沖田がその会話を聞きながら、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「先生、俺の治療も、もう少し優しく頼みますね?」
「黙らっしゃい、この馬鹿者!」
「いっ、痛っ!」
そのやりとりに、天幕の中に笑いが広がる。
血の匂いも、傷の痛みも、その一瞬だけ遠くに消えた。
外では風が吹き、空が白み始めていた。
雲の切れ間から、光が差し込み、天幕の中を淡く照らす。
その光の中で、古賀は静かに目を細めた。
それは朝ではなく――
人の心に再び訪れた“夜明け”の光だった。
夜と朝の境が、まだ曖昧な空だった。
遠くの戦場から、焦げた煙がゆらりと漂い、
その隙間を縫うように、一人の女性が駆けていた。
久坂玄瑞。
乱れた髪を結うことも忘れ、裾を泥に汚しながら、
ただひたすらに――“彼”のもとへ。
足がもつれ、膝を打ちつけても止まらない。
その胸の奥には、ひとつの祈りしかなかった。
どうか、生きていて――。
陣の入り口には、焦げた旗と、沈黙する兵たちの列。
その先に、傷病兵を収めた天幕があった。
息を切らしながら駆け寄った久坂を、見張りの隊士が制した。
「お、お待ちを! 今は中に――!」
だが彼女は、その声を振り切った。
「構わぬ……! 構うものか……!」
布を押し分け、天幕の中へ踏み入る。
灯の揺れる空間、薬草の匂い、かすかな血の匂い。
そして、そこにいた。
包帯に覆われた左肩、蒼白い顔。
しかし、その瞳だけは――確かに、生きていた。
「……隼斗。」
久坂玄瑞の声が震えた。
その声に、古賀隼斗はゆっくりと顔を上げた。
疲弊した眼差しに、微かな光が宿る。
「玄瑞……か。」
その声は掠れていたが、確かに温かかった。
久坂は駆け寄り、膝をついて彼の手を握った。
「よかった……よかった……っ!」
泣きながら言葉を繰り返す彼女に、古賀は微笑む。
「泣くな。俺は……まだ、死んでいない。」
「ばか者……!」
その言葉と同時に、彼の胸を拳で叩く。
「そなたは、いつもそうだ……! 何も言わず、命を懸けて……!」
古賀は苦笑し、ゆっくりと息を吐く。
「それが……俺の“誠”だからな。」
「誠……?」
「斬るための誠ではない。
守るための誠だ。
民を、仲間を、そして――」
言葉が一瞬途切れ、彼は玄瑞の涙を見た。
「――玄瑞を。」
久坂玄瑞の瞳が大きく見開かれる。
その瞬間、言葉はもういらなかった。
彼女は静かに彼の胸へ顔を埋め、震える声で呟いた。
「……勝ったのよ。幕府は、勝ったの。
そなたの信じた“誠”が、今、形になった。」
古賀はその言葉に微かに笑みを浮かべ、
天幕の天井を仰いだ。
「そうか……皆が、やってくれたのだな。」
久坂は首を振る。
「いいえ。皆ではない。
――そなたがいたから、皆が戦えたのよ。」
その声は涙に震えながらも、まっすぐだった。
古賀はその言葉に答えず、ただ手を伸ばした。
震える左手を、久坂の頬にそっと添える。
「……玄瑞。俺は、もう斬ることに疲れた。」
「なら、もう斬らなくていい。」
久坂は微笑んだ。
「これからは――生きなさい。
人を斬るためでなく、人を救うために。」
古賀はその言葉を噛みしめるように目を閉じた。
かつて志した“医”の道。
血と炎の中で見失った夢。
それが、今、彼女の声によって再び蘇った気がした。
「……ああ。
俺は、もう一度やり直そう。
お前のために、人のために。」
久坂玄瑞は涙をこぼしながら微笑み、
その頬に触れる古賀の手を両手で包んだ。
「ようやく言ったな。
――私が惚れた男の言葉だ。」
天幕の外では、朝日が昇り始めていた。
光が布を透かし、二人の影を優しく包み込む。
血の匂いも、煙の痕も、その瞬間だけは消えていた。
その静寂の中、
久坂玄瑞は彼の額にそっと唇を寄せた。
それは勝利の口づけではなく――
生還を讃える祈りのような口づけだった。
「おかえりなさい、隼斗。」
「……ただいま、玄瑞。」
外では、風が静かに吹いた。
焼け跡の街に、新しい朝が訪れようとしていた。




