鳥羽伏見の戦い 3
轟音。
天を裂くような砲声が、冬の空を揺らした。
黒煙が渦を巻き、硝煙と血の匂いが入り混じる。
泥にまみれた大地の上で、両軍が入り乱れ、刃と銃声が雨のように飛び交う。
戦場を見渡せば、そこはもう地獄そのものだった。
伏見の町は炎に包まれ、瓦礫の上に倒れる屍の山。
空は鉛色に曇り、太陽の光さえ煙に飲まれて届かない。
兵の叫び、負傷者の呻き、火薬の爆ぜる音が一つの合奏のように鳴り響く。
その中で、
新政府軍の前列に一際大きな歓声が上がった。
「御旗、御旗じゃ! 錦の御旗が掲げられたぞ!!」
瞬間、戦場の空気が変わった。
新政府軍の兵士たちが声を張り上げ、歓喜と熱狂が波のように広がっていく。
金色に輝く布が風をはらみ、薩摩の兵がそれを高々と掲げた。
朝廷の名の下に掲げられた“錦の御旗”——それは、
幕府方を「賊軍」と断じる血判状に等しい。
戦場の端にまでその知らせが届いたとき、
幕府軍の中にどよめきが走った。
「我らが……賊軍、だと……?」
「天子様が、新政府の味方に……」
鉄砲を構える手が震える。
長年、徳川のために戦ってきた者たちの心に、亀裂が入る音がした。
士気が、確実に落ちていく。
敵の歓声が、あまりにも大きく響いた。
その時だった。
——パァンッ!!
乾いた銃声が、戦場のど真ん中を裂いた。
それは、誰の声よりも、どの太鼓よりも鋭く響いた。
空が震え、錦の御旗を掲げていた兵士の体が崩れ落ちる。
その腕から滑り落ちた旗が、泥の上に倒れ込んだ。
新政府軍の兵が、一斉に振り返る。
幕府軍もまた、息を呑む。
煙の向こうに立つのは一人の男。
浅葱色の羽織が、黒煙の中で青白く光を放っている。
血と泥に塗れた顔、その瞳は鋭く、まるで炎を宿していた。
新選組一番隊組長——古賀隼斗。
彼は静かに銃を下ろした。
そして、崩れ落ちた御旗を睨みつけるように見つめた。
その瞳には、恐れも迷いもなかった。
「……まだだ。」
古賀は低く呟き、
地面に突き立てられていた新選組の旗を掴み取った。
血で滲んだ布を握りしめ、戦場のど真ん中で大きく掲げる。
泥にまみれた「誠」の一文字が、烈風を受けてはためいた。
「まだ終わっちゃいない!!!」
雷鳴のような声だった。
敵も味方も、その叫びに振り返る。
古賀は旗を高く掲げたまま、声を振り絞るように叫んだ。
「聞け! 幕府の兵たちよ! この戦、まだ敗れてなどいない!
ここで退けば、日ノ本は火の海と化す!
子らは泣き、民は焼かれ、誰も救えぬまま、この国は滅びる!」
彼の声は煙の壁を突き抜け、味方の胸に火を灯した。
泣きそうだった若い兵が歯を食いしばり、倒れていた男が再び立ち上がる。
古賀はさらに叫んだ。
「我らは誠の旗を掲げる者!
新選組一番隊組長、古賀隼斗が命ずる!
敗北は許さない! そして、死ぬことも許さない!
己を捨てるな! 民を思え! 生きて勝ち、明日を繋げ!!」
戦場がざわめく。
「死ぬことも許さない」——その言葉に、一瞬の沈黙。
だが次の瞬間、それが戦場全体に火をつけた。
永倉新八が叫んだ。
「聞いたなァ! 俺たちは死ぬために戦ってるんじゃねぇ! 生き抜くためにだ!!」
斎藤一が刀を抜き放つ。
「敵中突破だ。誠の旗を汚すな。」
鉄砲隊が再編成され、山南敬助の声が飛ぶ。
「撃て! 一発目は恐れを払うためにある!」
盲目の山本覚馬が背後で構える。
「誠は目にあらず、心に宿るものだ!」
戦場が再び咆哮に包まれた。
敵軍が錦の御旗を拾おうとした瞬間、幕府軍の銃撃が一斉に放たれる。
新政府軍の前列が崩れる。煙と土砂が混ざり合い、視界が奪われる。
だがその中心で、古賀の旗だけが鮮明に見えた。
風に踊る浅葱の布、泥と血に塗れてなお、「誠」の文字だけが消えぬ。
古賀は旗を掲げたまま、静かに呟いた。
「……おばあちゃん。俺はまだ、人を斬る。
だがこの刃は、この国の未来を守るための、最後の剣だ。」
彼の足元に、戦友の血が流れ落ちる。
だがその瞳には、一切の迷いはない。
「全軍、突撃!! ——誠を示せッ!!!」
新選組の叫びが戦場に響き渡る。
浅葱の群れが泥を蹴立て、前へ。
銃火を突き抜け、刀が閃光のように光を放つ。
その瞬間——
鳥羽伏見の空に、再び“誠”の旗がはためいた。
炎と煙の中で、
誰もがその旗を見上げた。
それは絶望の中に掲げられた、ただ一つの希望。
幕府が賊軍とされたその夜、
浅葱の一団は、ただ一言の誓いを刻む。
——我らは、誠に生き、誠に死ぬ。
轟音と絶叫が交錯する。
戦場は地獄の口を開けたようだった。
砲煙が立ち込め、血と泥が混ざり合う中、
古賀隼斗はただ無心で刀を振るっていた。
斬り、払う。
息を吐き、踏み込み、肉を断ち切る。
敵兵の悲鳴が耳を裂いても、古賀の瞳にはもう何も映らない。
ただ、己が生きるため、そして背にいる仲間のために、剣を振るうのみだった。
「——まだ退くな! 誠の旗を見失うな!」
声を張り上げる古賀の頬を、熱い血が跳ねた。
しかし、その瞬間——
空気が変わった。
轟音も叫びも、急に遠のいた。
まるで世界が一瞬だけ息を止めたようだった。
古賀の肌に、冷たいものが触れる。
それは風ではない。
――殺意。
ぞくり、と背筋を走る。
見えぬはずの刃が、首筋をなぞるような感覚。
古賀は本能で刀を構え、左足を後ろに引いた。
次の瞬間、
鋭い閃光が闇を切り裂いた。
ギィンッ!!
火花が散り、金属が悲鳴を上げる。
古賀の刀が弾かれ、腕に激痛が走る。
わずか一寸の差で、喉を裂かれるところだった。
返す刀で受け流しながら、古賀は煙の向こうに目を凝らす。
——その姿を、見た。
焦げた硝煙の中から、ゆっくりと歩み出てくる影。
黒ずんだ甲冑、血に濡れた刃。
そして、静かな笑み。
「……やはり、生きていたか、古賀隼斗。」
あの声。
古賀の全身から、瞬時に血の気が引いた。
泥を踏み締め、炎を背にして現れたその男——
かつて禁門の変で死闘を繰り広げた、薩摩の剣鬼。
中村半次郎。
「……中村。」
古賀の唇が、震えた。
中村は一歩、また一歩と近づく。
その足取りは異様なほど静かで、
戦場の轟音の中、彼の呼吸だけが鮮明に聞こえる気がした。
「奇妙なもんだな……」
中村はゆっくりと刀を抜き、光を反射させた。
「この修羅の世で、再び会うとは。」
古賀は構えを取り直す。
血のついた刃先が、震える空気を裂く。
「お前は……薩摩に戻ったと思っていた。」
「戻る? はは……」
中村は薄く笑った。
その笑みには、もう人の温度がない。
「俺はもう戻る場所など持たん。
斬ってきた数だけ、地獄が増えた。
そして今、お前がその地獄の先に立っている。」
古賀の喉が詰まる。
この男の眼差しには、狂気でも憎悪でもない。
ただ“確信”があった。
殺す。それだけのために生きている者の、確固たる覚悟。
「……お前はまだ、示現流を使っていないな。」
古賀の声が震える。
「使うさ。」
中村は静かに刃を下げ、腰を落とす。
その姿勢は、まるで雷の前触れ。
地を割るような一撃を放つ、薩摩の必殺の構え。
「お前を斬るために、俺は生きてきた。」
古賀の脳裏に、祖母の声が蘇る。
『人を救え、隼斗……誰であろうと、人を救う剣であれ……』
しかし、今この瞬間。
彼の前にいるのは“救うべき人間”ではない。
ただ殺しに来た、宿命そのものだ。
古賀はゆっくりと息を吐いた。
心の底で、何かが切り替わる。
「……そうか。
なら、俺もこの剣で——終わらせる。」
中村が微笑む。
「終わらせる、だと? ふん……終わるのはお前の命だ。」
二人の足元で、泥が弾けた。
風が唸り、空を裂く雷鳴が落ちる。
戦場の喧騒の中、誰も二人の間に踏み込めなかった。
轟く砲声、泣き叫ぶ兵の声、火薬の爆ぜる音。
あらゆる音が支配していたはずの戦場が——
一瞬で、静まり返った。
そこだけが、切り離された世界。
風も止み、炎の揺らぎすら鈍る。
ただ二つの影だけが、泥の大地に立っていた。
古賀隼斗。
中村半次郎。
互いに言葉はない。
だが、その視線が語っていた。
“ここで終わる”と。
中村半次郎は、右足を半歩後ろへ引き、上体を沈める。
腰から下、微動だにしない。
肩に乗せた刀の切っ先が、ぴたりと古賀を捉える。
それは、薩摩が誇る必殺の型——示現流の一の太刀。
「手出しは無用!!!」
中村の咆哮が戦場を震わせた。
その声は、味方も敵も貫いた。
新政府軍の兵たちは息を呑み、誰一人、近づけない。
そして中村は言った。
「新選組一番隊組長、古賀隼斗。
お前を斬るのは、この俺だ。」
その言葉と共に放たれた殺気は、風より速く、雷より重い。
空気が震え、草が倒れ、近くにいた兵が膝をつく。
古賀は、静かに刀を構えた。
その構えは、剣術書にない。
誰から教わったものでもない。
ただ、これまでに流した血と、積み重ねた死が形にした“生の構え”だった。
遠くで、雷鳴が轟く。
まるで天が見守っているように。
中村が唇を吊り上げた。
「……構えが違うな。あの時とは。」
「お前もだ、中村。」
古賀は声を低く落とす。
「だが、もう言葉はいらぬ。
ここで果てる覚悟は、互いにできているだろう。」
中村の瞳が細くなる。
「ならば問う——お前の“誠”とやら、見せてみろ。」
その瞬間、空気が爆ぜた。
中村が地を蹴る。
土が弾け、風が裂け、音が遅れて届く。
示現流・一の太刀。
速さは閃光。
重さは落雷。
人の目には、もはや“消えた”ようにしか映らなかった。
だが——
「……!」
中村の目が見開かれる。
古賀が、動かなかった。
避けていない。
むしろ、真正面から一の太刀を迎え撃っていた。
金属が砕ける音。
火花が散り、二人の間に閃光が走る。
中村の剣が古賀の刃に受け止められ、雷鳴のような衝撃が走った。
「なに……!」
中村が呻く。
その眼には驚愕があった。
火薬の匂いが肺を刺す。
鼓膜が破れるほどの銃声が、遠く近くで交錯していた。
戦場は地獄だった。
だが、その只中で――ただ二人だけ、時を止めていた。
中村半次郎。
薩摩の剣鬼と呼ばれた男の眼が、炎の中で光る。
その構えは示現流。右足を一歩前に、腰を落とし、刃先を地に伏せる。
次の瞬間、風すら遅れるほどの一撃が来る。
それは人間の反応では避けられぬ、死そのものの太刀。
古賀隼斗は、逃げなかった。
焦げた大地を踏みしめる。
血で滑る足裏を、左足の指先で食い止める。
左腕一本。
その筋肉が軋み、震え、悲鳴を上げる。
それでも――落とすことは許されなかった。
握った刀の柄が血に濡れて滑る。
その赤は敵の血ではない。
自分の掌が裂けた血だ。
心の底で、声にならぬ声が響く。
口に出しても何も変わらぬ。むしろ声にすれば、気が逸れ、刃の軌道は狂い、命が零れ落ちるだろう。だから古賀は口を結ぶ。言葉は胸の奥に沈め、鼓動だけを頼りに想いを刻み込む。
右腕を失った身体は、あらゆる普通を奪われた。だがそこに残された左腕は、逆に全てを背負う器となった。左腕から肩へ、胸へ、腰へ。腰から背骨へ、背骨から脚へ。脚は地面を穿ち、土の反力を刀に流し込む。
――それらが一本の流れとなり、刀先へと収束する。呼吸が凍るほどに浅まり、世界は一点だけを残して収斂していった。光が淡く揺れ、意識が光に変わる。感覚は鋭利になり、刃の重さと自分の重さが一つに響いた。
(この一撃が、必要だったのだ)
心の奥で、別の声が続く。声にしないまま、思考はさらに深く潜る。
(その一撃が必要だったのだ。お前は新政府軍で最も恐るべき剣だ。お前を倒すには、お前自身の力が要る。お前の最強の太刀筋を、俺の刃に乗せなければならぬ。だから――お前にその一撃を打たせる。お前の示現流の威力を、俺の斬撃に上乗せするために、俺はこの一撃を受けたのだ)
意図は冷たく、理は残酷だった。敵の猛撃を避けるのではない。受けることで、敵の剛力を取り込み、逆手に取る。示現流の巨大な運動量が生む“隙”を、古賀は待っていた。隙が生じる瞬間を、己の左腕で刃を回転させ、全身をぶつけることで――中村の首に届く一撃へと転換する。
衝撃が肩を突き抜け、骨が悲鳴を上げる。血が袖口を赤く染める。痛みは鮮烈に、だが古賀の意識は震えることなく、むしろ静かに燃えている。受け流した刃の反動は凶器のように古賀の身体をねじる。だがそのねじれを力に変え、左腕の筋肉が断続的に爆発する。刀身は空気を切り裂き、時間が濃縮される。
目の前に露出した中村の喉元。そこへ全てを賭ける。力の全てを一点に送り込むため、血も、痛みも、恐怖も、すべてを刃の背に乗せた。世界の中心が刀の一筋に集まり、古賀は刃を振り下ろす。叫びはない。地鳴りのような断続音がただ一度、空を裂いた。
――これが、俺の選んだ道だ。これが、誠に生きる者の一撃だ。
心の声は、最後に静かに囁く。出してはならぬ言葉を胸に閉じ、古賀は己の全てを斬撃へと捧げた。
戦場の空気が、裂けた。
古賀隼斗の刃が描いた軌跡は、まるで光そのもの。
その斬撃は全てを捨てた覚悟の結晶であり、ただ一つの目的――中村半次郎の命を絶つためだけに存在していた。
火薬の煙が流れ、血に濡れた地を踏みしめる古賀の瞳は、燃えるように冴えていた。
半次郎の喉元に刃が肉薄する。
その太刀筋はもはや人の業を超え、死の刃が風を裂く。
半次郎の口角がわずかに震える。
――死を悟った。
古賀の雄叫びが轟く。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
戦場の喧噪が一瞬、凍りついた。
その声は雷鳴のように大地を揺るがし、刃は確かに勝利の軌道を描いていた――はずだった。
だが、その瞬間だった。
「――ッ!」
火花が弾け、空気が歪む。
古賀の全身全霊の斬撃が、目に見えぬ速さの一閃によって弾かれた。
金属音が耳をつんざき、二人の剣士の間に第三の影が割って入る。
風が止まり、血の匂いが一層濃くなる。
新政府軍の白羽織が、炎の中で翻った。
その刃を構えて立つ男――河上彦斎。
誰も声を出せなかった。
その姿はまるで“時代の刃”そのもの。
白刃を携え、血に濡れながらも一片の迷いもないその立ち姿は、
修羅と神の境界に立つ存在のようだった。
古賀の左腕が震える。
折れた筋肉が軋む。
にもかかわらず、眼差しは逸れない。
斬撃を止められたその事実よりも、
今、自分が目の前に立つ“新たな剣鬼”の気配に本能が叫んでいた。
「……河上、彦斎……」
その名を呟く古賀の声は、怒りでも恐怖でもなかった。
ただ、己が魂と魂をぶつけ合う宿命を悟った者の声。
彦斎はわずかに目を伏せ、血を払うように刀を下ろす。
「古賀隼斗――お前の刃、見事だった。
だが、今この場でお前は死ぬ」
その声は冷たいが、底に微かな痛みがあった。
戦場に、静寂が訪れた。
音は確かにあったはずなのに、古賀隼斗の耳には何も届かない。
世界が遠のき、視界は紅に染まる。血の匂いが肺を焼き、膝が地に沈む。
呼吸が荒く、喉の奥で血が泡立つ。
左腕はもはや形だけ――刀を握ることも、もう叶わない。
それでも古賀は、ただ前を見つめていた。
そこに立つ二つの影――中村半次郎、そして新たに現れた河上彦斎。
闇の中、二人の剣鬼が、まるで時代そのものを象徴するかのように立ちはだかっていた。
中村半次郎は血に濡れた唇を吊り上げ、獣のように嗤った。
「……見事だ。あの一撃、まさに修羅の斬撃だった。」
ゆっくりと歩み寄りながら、その瞳には敵意ではなく、燃えるような敬意が宿っている。
「お前の太刀筋は、賞賛に値する。己の命を削ってまで斬ろうとした――侍の鏡だ。
新選組一番隊組長、古賀隼斗。お前に敬意を表し、苦しまぬよう殺してやる。」
その声は冷酷でありながら、どこか哀悼の響きを帯びていた。
半次郎は血まみれの手で刀を構え直す。
示現流の構え――一の太刀にすべてを込める、死の舞。
風が止まり、雨の粒すら動きを失う。
戦場の空気が裂けた。
轟音と叫喚の渦の中、ひときわ鋭い刃音が響く。
古賀隼斗は、膝を地に落としたまま、もう立ち上がる力を失っていた。
全身を焼くような痛み、失血で霞む視界。
敵も味方も、もう遠い世界の出来事のように感じられた。
ただ、目の前に立つ――剣鬼・中村半次郎だけが、現実そのものだった。
「終わりだ……古賀隼斗。」
中村の声は静かだった。静かであるほどに、死を告げる鐘の音のように冷たかった。
刃が月光を掠める。
首筋に光が走り、時間が止まる。
――その瞬間。
「やめろおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
永倉新八の叫びが、天地を貫いた。
声は雷鳴のように戦場を揺るがせ、血に塗れた空気を震わせる。
だが、彼の足は届かない。
新政府軍の銃弾と砲火が雨のように降り注ぎ、彼と斎藤一の行く手を遮っていた。
二人は無謀にも駆け出そうとするが、銃撃が土を爆ぜ、空気を焼き、鉄の雨が降り注ぐ。
「くそっ……間に合わねえ!!!」
永倉が咆哮し、斎藤は無言で敵兵を斬り伏せながらも、目だけは古賀を見つめていた。
その瞳には焦燥と、どうにもならぬ怒りが宿っている。
戦場の喧噪が――一瞬、止んだ。
砲煙が風に流れ、空を覆っていた硝煙の幕がわずかに裂ける。
その狭間から射す淡い月光が、ひとりの武士の影を照らした。
古賀隼斗は、崩れ落ちた膝から地に血を垂らしながら、なおも立とうとしていた。
だがもう身体は、彼の意志を裏切って動かない。
耳鳴りが世界を覆い、斬り結ぶ音も、銃声も、遠く霞んでいる。
ただ――目の前の、あの刃だけがはっきり見えていた。
中村半次郎。
薩摩の剣鬼。
その太刀が、月光を反射しながら、音もなく古賀の首筋を狙う。
彼の眼に映るのは、敗北の色ではなかった。
あるのはただ、己が命の果てを受け入れる静かな覚悟。
(……ここまでか……)
次の瞬間――
風が変わった。
それは確かに、誰もが感じた“流れ”だった。
燃えさかる火の粉がふっと横へ散り、
まるで世界が息を呑んだかのように、すべての音が消えた。
刃が古賀の首に届く寸前――
金属が裂ける、甲高い音が戦場を貫いた。
火花が散る。
中村半次郎の刀が弾かれ、宙を舞った。
「――誰だ!」
中村が振り向く。
その時、砲煙の向こうに立つ“白”があった。
風にたなびく羽織。
黒髪が月光に照らされ、紅の瞳が闇を裂く。
ーーー沖田総司。
まるで死の淵から舞い戻った亡霊のように、静かに、しかし確固たる存在としてそこにいた。
周囲の兵が息を呑み、永倉新八の眼が見開かれる。
「まさか……沖田……!」
総司は答えない。
彼の足取りは軽やかだった。
肺を焼く病を抱えた身体とは思えない。
その姿は、夜の中に降り立った白刃の化身――天を裂く“誠の鬼”そのものだった。
「遅くなりましたね、隼斗さん。」
声は穏やかで、微笑すら浮かべていた。
古賀は震える唇で言葉を返そうとしたが、声にならなかった。
血の味とともに、胸の奥から熱いものがこみ上げる。
彼が救おうとした命が、今――自分を救おうとしている。
中村半次郎は目を細め、笑った。
「……なるほどな。これが“天才”と呼ばれた新選組の剣か。
病に伏したはずの男が、地獄から舞い戻るとはな。」
沖田は一歩、前へ。
「病など関係ありません。
――私がこの剣を振るう理由は、ただひとつ。
“守りたい人”が、ここにいるからです。」
静寂が、再び落ちた。
その声があまりに澄んでいて、戦場の喧噪がすべて遠のく。
夜風が羽織を揺らし、刀身が月光を掬い上げる。
「中村半次郎。お相手いたします。」




