第5章
稽古を終えた午後、汗に濡れた羽織を脱ぎ、古賀隼人は道場の縁側に腰を下ろした。
吐く息は白く、肌を撫でる風は冷たさを含んでいた。
庭の砂利は冬の光を反射して硬く白み、木々の枝は葉を落としたまま、静かに空へ伸びている。
遠くで鴉が鳴き、季節の寂しさをいっそう濃くしていた。
剣を振り続けた腕は重く、呼吸はまだ整わぬまま。
だが、胸のざわめきはそれ以上に収まらなかった。
――池田屋事件は避けられない。
未来の記憶が告げていた。
浪士たちは京を火の海に沈めようとし、新選組はそれを阻む。
介入せねば都は焼け、多くの命が失われる。
ならば戦いは必然。
歴史の大きな流れは変えられずとも、その中で「大義」を掴むしかない。
庭の隅に、寒さに耐えるように赤い花弁をわずかに開いたタチアオイが見えた。
冬の光を受けて震えるその姿は、やがて血に沈む未来の象徴のように思われた。
――では、どうすれば新選組が必要以上に恨まれずに済むのか。
――どうすれば、池田屋の戦いが「虐殺」ではなく「大義」へと変わるのか。
思考は渦を巻く。
浪士を斬ることは幕府への忠義となる。
だが世間からは弾圧と映り、浪士の支持者からは憎悪を呼ぶ。
その憎しみが、やがて新選組を孤立へと追いやった。
「……敵ではなく、計画を討たねばならない」
隼人は心中で呟いた。
浪士たちの目的は京の炎上、朝廷の転覆。
ならば「浪士を斬った」という事実ではなく、
「京を守り、人々を救った」という事実こそが大義を与える。
血の数ではなく、守った命の数を刻めば、歴史の色はわずかに変わるかもしれない。
縁側に腰を下ろしたまま、隼人は拳を握りしめた。
答えはまだ朧げだ。
だが確かに「新選組を憎まれぬ存在」に変える道筋を探し始めていた。
祖母の涙を背負い、未来を知る異物として。
冬の日は傾き始め、庭の影は長く伸びていく。
その冷たい光の中で、古賀隼人の胸には、確かな決意の輪郭が浮かび上がりつつあった。
縁側での思索を終えた後も、古賀隼人の胸には冷たい重みが残っていた。
それは剣の疲労ではなく、未来を知る者としての孤独だった。
――新選組の面々には、未来のことを決して話してはならない。
心に刻まれた掟のような言葉が繰り返される。
斎藤一の眼光に見抜かれるような錯覚を覚えたときも、
沖田総司の優しい問いかけに心が揺れたときも、
決して口にしてはならないと自らを戒めてきた。
歴史の大河は重く、深い。
ひとつの石を投げ込めば、波紋は際限なく広がり、やがて形を変えてしまう。
もし軽々しく未来を語れば、その瞬間から歴史は彼の知るものではなくなり、
新選組も、会津も、救うことなどできなくなるだろう。
だからこそ隼人は孤独を選んだ。
誰にも言わず、ただひとり胸に秘めて生きる。
その苦しみは耐え難いが、使命を果たすためには避けて通れない。
――自分の目的はただ一つ。
新選組と会津を救うこと。
そのためにこの時代に呼び込まれたのだと、信じるしかない。
冷たい風が縁側を抜け、冬の空気が頬を刺す。
隼人は静かに目を閉じ、拳を握りしめた。
迷いを捨てた瞳の奥には、もはや言葉にできぬ誓いが燃えていた。
未来を知る異物として、孤独を抱えながらも――
必ず、彼らを救ってみせる。
縁側に座る隼人の思索は、やがてひとりの名へと辿り着いた。
――沖田総司。
彼の笑顔は澄みきっている。
子どもたちと戯れ、隊士仲間を励まし、斬撃の最前線に立つその姿。
しかし未来を知る隼人の胸には、どうしても拭えぬ影があった。
沖田総司の死因――肺結核。
それは、歴史の書に確かに刻まれている。
隼人の頭に、医学生としての知識が蘇る。
結核菌による慢性的な肺の感染症。
症状は咳、発熱、寝汗、体重減少、そして血を吐く――喀血。
やがて呼吸は衰え、体力は奪われ、死へと至る。
未来を知る自分には、沖田総司の咳払いひとつ、顔の蒼白さひとつが恐ろしく感じられた。
それは彼にとって単なる疲労ではなく、病の兆しに他ならないと理解できてしまうからだ。
――この時代における最善の治療法は何か。
頭の中で冷静に整理する。
本来なら抗結核薬が必要だ。
だがそれは遥か未来の発見であり、この幕末には存在しない。
残された手段は限られていた。
安静、栄養、清浄な空気。
だが屯所の空気は淀み、戦いの日々に安静はない。
栄養も乏しく、薬効はせいぜい漢方や焼酎に頼る程度。
――つまり、この時代での最善策とは、未来の医学生である自分がどれほど知識を尽くしても「延命」にすぎない。
病を根絶することは不可能。
それが現実だった。
隼人の胸が締めつけられた。
剣豪としては無敵の存在。
子どもたちの笑顔を守ろうとする純粋な心。
そのすべてを持ちながら、彼は病に倒れ、歴史に名を残してしまう。
「……救えないのか」
呟きが白い息となり、冬の空気に溶けていった。
だがすぐに首を振る。
救えないと知りながら、それでも何もしない理由にはならない。
未来の知識を持つ自分だからこそ、できることはあるはずだ。
少しでも栄養を整える。
少しでも安静を与える。
少しでも病を遅らせる。
それができれば、沖田総司の命に、たとえ短くとも新しい時間を与えられるかもしれない。
隼人は拳を握り締めた。
祖母の涙だけではなく、この男の笑顔をも守るために。
未来を知る者としての自分は、そのためにここにいるのだと。
夜。
稽古を終えた屯所の廊下に、灯明の柔らかな光が揺れていた。
古賀隼人は歩みを進める途中、ふと縁側に腰を下ろしている沖田総司の姿を見つけた。
月明かりに濡れた横顔は穏やかだったが、その胸の奥から時折漏れる咳が、静けさを破った。
「……沖田さん」
声をかけると、沖田は振り返り、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「古賀さん、まだ起きていたんですか」
その笑みは澄んでいた。
だが隼人の耳には、その直前に漏れた乾いた咳の音が残っていた。
隼人は胸に手を当てるようにして言葉を探す。
――結核。
その名を口にすることはできない。
未来を語れば、すべてが崩れる。
だが、医学生として知る「兆し」を見逃すこともできなかった。
「……沖田さん、少し、休む時間を増やした方がいいと思います」
「私が? はは……古賀さんらしいですね」
沖田は冗談めかして笑った。
だが隼人は真剣な眼差しのまま続けた。
「稽古や市中巡察で動き続けては、身体を壊します。
……特にこの時期は冷えますから。温かいものを口にして、身体を休めるだけでも違うはずです」
沖田はしばし隼人を見つめ、ふっと目を細めた。
「心配してくれるんですね」
その声音は優しく、どこか照れくさそうだった。
隼人は言葉を飲み込んだ。
――本当は命の灯が削られている。
――本当は、少しの油断で取り返しがつかなくなる。
その未来を知っているがゆえに、胸が苦しかった。
「……俺は、沖田さんに長く剣を振るってほしいんです」
気づけば、言葉が零れていた。
それは真実の一部だった。
だが未来を隠したままでも、伝えることはできる。
沖田は静かに頷いた。
「古賀さんは面白い人ですね。……でも、その気持ちは嬉しいです」
月光の下で浮かんだその笑顔は、子どもたちと戯れるときと同じ、澄み切ったものだった。
隼人は胸の奥に小さな誓いを刻んだ。
――この笑顔を、一日でも長く守るために。
医学生として、そして新選組の一員として、自分にできることを尽くすのだ。
灯明の揺らぎと月光が交錯する夜。
古賀隼人は、自らの使命をあらためて胸に刻み込んだ。