鳥羽伏見の戦い 2
厚い雲が天守の上を流れていた。
西国の空は赤く染まり、遠く鳥羽の方角からは絶え間ない砲声が聞こえる。
大坂城の石壁が震え、窓硝子が微かに鳴った。
報告の声が、静まり返った大広間に響く。
「――鳥羽・伏見の戦、現在互角。
新選組を中心とした幕府方、奮戦しております。」
その言葉を聞くや、
将軍・徳川慶喜の顔色が一変した。
蒼白となり、膝の上の手が震える。
「互角……互角だと……?」
傍らの松平容保は、将軍の様子を見て言葉を選ぶ。
「は。士気は高く、戦は未だ分かちがたく――」
「馬鹿な……互角で済むはずがない。
薩長は新式銃を持ち、我らは旧式ぞ!
皆、討ち死にする気か……儂も……儂も死ぬのか……!」
声が震え、
慶喜は容保の腕を掴んだ。
その指は爪が食い込むほど強く、容保は痛みに顔を歪める。
「お、落ち着かれませ……! 上様、いまは指揮を――」
だがその言葉は遮られた。
慶喜は蒼ざめた顔で容保を見つめ、
唇をわななかせながら言い放つ。
「容保……すぐに支度をせい。
儂は……儂は江戸に退く。
このままでは討たれる!
お主と、あの女――久坂玄瑞で、儂を護れ。」
広間の空気が凍りついた。
火鉢の火が、ぱちりと弾ける音だけが響く。
久坂玄瑞は立ち上がり、
鋭い眼光で慶喜を見据えた。
「……それが、将軍のなさることですか。」
その声は震えていたが、怒りと悲しみが混じっていた。
「戦う民を置き去りにして、江戸に逃げると……?」
慶喜の目が泳ぐ。
「貴様に何がわかる! 私は徳川の血筋だ!
この命を絶やすわけにはいかぬのだッ!」
玄瑞の拳が震える。
松平容保がとっさに間に入り、彼女の肩を押さえた。
「玄瑞、下がれ。
上様のお考えにも、御意があろう。」
「――御意、ですか。」
久坂は冷たく言い放つ。
「ならば問います。
“誠”を掲げ、戦う者たちの命は、誰の御意に値するのですか。」
容保は何も言えなかった。
その顔には苦悩が刻まれていた。
慶喜は顔を背け、ふらつきながら立ち上がる。
「……もうよい。儂は江戸へ帰る。
戦は、お前たちに任せた。」
障子が激しく開いた。
「上様……それは、卑怯にござりまする!」
久坂玄瑞の声は、広い大坂城の一室を震わせた。
外は冬の雨、城の瓦を叩く鈍い音が響く。
対して、部屋の奥にいた徳川慶喜は、裃のまま立ち上がり、家臣に命を下そうとしていたところだった。
「今より江戸へ下る。松平、すぐに支度を――」
「お待ちくだされと言うておる!!!」
久坂が一歩踏み込む。
松平容保がとっさに袖を伸ばしたが、久坂はそれを優しく振り払って進んだ。
褐色の肌に、雨の冷気が触れて薄く鳥肌を立たせる。
その黄金の瞳は怒りに燃えていた。
「上様は……この大坂城に集った侍たちの覚悟を、ただ踏みにじるおつもりか!」
慶喜の眉がぴくりと動いた。
さすがに将軍にここまで言葉をぶつける者は少ない。だが久坂は退かない。
「無礼であろう、久坂」と容保が控えめにたしなめる。
しかし久坂は膝をつきもせず、きっちりとした口調で続けた。
「無礼を承知で申し上げます。
この城の外では、いまも大坂から伏見へと向かう兵が冷たい雨に濡れ、
“将軍家のため”“朝敵にはならぬため”“松平容保様に恥をかかせぬため”と――
そう信じて歩いているのです。
その兵に、上様はどのようなお顔向けをなさるおつもりですか?」
慶喜は少しだけ目を細めた。
「……久坂。汝は女でありながら、なぜそこまで戦を望む。
儂は、この国を二つに割りとうないのだ。
薩長が錦の御旗を掲げた以上、こちらが戦えば“逆賊”となる。
将軍が討たれれば、天下はさらに乱れる。
だから儂は退く。
江戸に退き、政を立て直し、戦わずして――」
「違いまする!!!」
久坂の声がまた部屋を満たした。
容保も家臣たちも、一瞬背筋を伸ばす。
それはもはや“長州の女”でも“新選組預かりの志士”でもない。
この国に生きる一人の侍の声だった。
「上様が恐れておられるのは“国が割れること”ではござりませぬ。
“自らが朝敵と呼ばれること”、
“徳川という名が汚されること”、
そして“誰も自分を庇ってくれぬ場所に立たされること”――
それを恐れておられるのです!」
「……っ!」
慶喜の喉が大きく動いた。図星だった。
彼は確かに、幕府の権威が“朝敵”の烙印で潰える瞬間を何よりも恐れていた。
「久坂」
容保が低く呼ぶ。
「それ以上は……」
「申しませんと、上様は行ってしまわれまする!」
久坂は容保にも一礼せず、さらに踏み込んだ。
「上様、
貴方様は“国を割りたくない”とおっしゃった。
ではお尋ねいたします。
将軍が戦場から姿を消した幕府軍と、
将軍が最前で踏みとどまる幕府軍――
どちらが早く崩れましょう?
どちらがより深く、この国を割りまするか?」
慶喜は口を開けかけ、閉じた。
答えは分かっている。
兵は“誰のために立つのか”が見えなくなった瞬間に崩れる。
将軍が逃げれば、あとは利害と恐怖で動く烏合の衆になる。
久坂は続ける。
今度は少し声を落とし、しかしなお激しく。
「上様、
この城に残っておられる武士たちは、
“もう勝てぬかもしれぬ”と知った上で、なお座しておるのです。
会津も、桑名も、新選組も。
皆、将軍家が最後まで立ってくださるならば、と信じて。
なのに御屋形様だけが江戸にお逃げになったと知れたら――
その心はどうなりまする?」
慶喜がようやく反論した。
「では久坂、そなたは言うのか。
儂がここで討ち死にするのが正しいと?」
「誰も上様に“死ね”とは申しておりませぬ!」
久坂はきっぱりと言い切った。
「逃げるなと申しておるのです。
“将軍が去る”という事実は、“幕府が負けを認めた”という印を天下に示す。
大義はこちらに残っておるのに、です!」
「だが、薩長は錦の御旗を……!」
「ならば上様が掲げ直せばよろしい!!!」
この一言には、さすがに容保も息を呑んだ。
久坂は一歩進み、まっすぐに慶喜を見据える。
「上様。
御旗を掲げるのは誰です?
ただの布ではござりませぬ。
“我こそがこの国を守る”と最初に名乗り出た者が掲げるものです。
薩長が掲げたからといって、
何故徳川が引かなければならぬのです?
会津を、桑名を、そして京を守り続けたのはどなたですか?
“徳川が国を乱した”などと、私どもは断じて言わせませぬ!!」
慶喜は、息を詰めたような顔になった。
そこに、これまで誰も正面からぶつけてこなかった言葉があった。
“逃げてはならぬ”という、あまりにも真っ直ぐな言葉が。
「……だが……」
慶喜はまだ揺れていた。
「だが、そなたらは女だ。血を見ずに理想を語れる――」
「愚かなことを!」
久坂は言い切った。
「私は血を見とうないからこそ、ここに立っておる!
私は禁門の変で、京の町が焼け落ちるのを見ました。
――あの炎を、二度と見たくはない。
あれは武士の戦ではありませぬ。
大義の名を語って民を焼いただけの、恥ずべき炎です。
だからこそ私は新選組と共におるのです。
隼斗は民を焼かなかった。
敵であろうと、生かそうとした。
私も、あの背を信じた。
ならば将軍も、その背を信じてくださりませ!」
隼斗――古賀隼斗の名が出た瞬間、慶喜の目がわずかに揺れた。
京での新選組の働きは、すでに彼の耳にも届いている。
“あの新選組が民を守った”――それはたしかに、幕府にとって都合のいい話でありながら、信じがたい報せだった。だが、松平容保はそれを肯定している。ならば、事実なのだ。
「上様」
今度は容保が一歩出た。
久坂より穏やかだが、芯の通った声だった。
「久坂殿の言は、むごいようでいて真です。
いまここでご退出なされば、兵は“見捨てられた”と受け取りましょう。
じつに、あっけなく崩れましょう。
ですが、上様がここにお残りくださるならば――
それだけで幕府軍は十倍の力を得まする。」
「……戦になれば、儂は討たれるやもしれぬぞ」
「ならば私が盾になりまする!」
久坂は即座に言った。
「私は長州の者にござる。
だがいまは会津に身を寄せ、新選組と歩む。
この身ひとつでよろしければ、幾度でも前に出ましょう。
――ただ、どうか、“将軍が民を置いて逃げた”などという未来だけは、私に見せないでくださいませ」
その時、慶喜の方が先に目を伏せた。
ゆっくりと、まるで重い兜を外すかのように息を吐く。
「……儂は……孤独だったのだ、久坂。
誰かを信じるのが怖かった。
信じようとすれば、皆が“徳川のため”と言い、
儂自身のために立つ者などおらぬと思っていた。
だが、そなたは……徳川のためではなく、民のために、と言う。
会津のためにも、と言う。
新選組のためにも、と言う。
そんな者が、この動乱の時代におるとは思わなんだ。」
久坂は柔らかく笑った。
「おりましょうとも。
この国にはまだ、己より人を先に考える侍がおるのです。
上様がそれをお忘れなければ――この幕府は、まだ負けませぬ。」
長い沈黙。
外の雨音が、すこしだけ弱くなった。
やがて、慶喜は小さく頷いた。
「……二人に問う。
儂は、このまま“将軍”であるべきなのか?」
唐突とも言える問いに、容保は一瞬だけ目を伏せた。
だがすぐに、まっすぐに顔を上げる。
「無論にございます、上様。
この国がいま最も必要としているのは、
“誰が天下を預かっているのか”を、はっきりと示す御姿。
それが揺らげば、民も、諸藩も、皆が“自分で身を守る”と動き出します。
それこそ国の分裂の始まりにございます。」
久坂もすぐさま続けた。
黄金の瞳が、雨を吸った夜のように鋭い。
「私も同意いたします。
上様が“退く”とおっしゃれば、それを口実に薩摩も長州も、
“徳川はもう御役目果たせぬ”と、
勢いを増すだけにございます。
上様がお嫌うておられた“国が二つに割れる”という事態を、
むしろ早めてしまいまする。」
慶喜は、指先で畳をとん、と弾いた。
声音は静かだが、中には苛立ちが混じっている。
「だがなあ……容保、久坂。
そなたらは“戦う側”の言い分だ。
儂は将軍として、この国を血で汚すことだけは避けたいのだ。
戦になれば、負けるのはいつも民。
ならば徳川が退くことで、戦を避けられるなら――」
「それは“退く場所がある者”の理屈でございます、上様。」
久坂が、ぴしりとその言葉を断ち切った。
「退かば江戸がある。
江戸には勝海舟がいる。
江戸には御家門も、旗本もおりまする。
ですが――」
久坂は身を乗り出す。
「戦場に出た兵には、退く場所などございませぬ。
会津にも、桑名にも、“徳川が退くから自分たちも退く”などという道はないのです。
将軍が退くということは、“お前たちはそのまま死ね”と申すに等しい。
それを承知でおられまするか?」
慶喜の眉が険しくなる。
「そこまで言うか……久坂。
そなたは長州の女であろう。
なぜそこまで徳川に肩入れする?」
「長州の女だからでございます。」
あまりに即答だったので、容保さえ目を瞬かせた。
「長州は、時に駆けすぎました。
武力で幕府を揺さぶることでしか、道を開けぬと信じた志士も多くおりました。
……その結果が、京の炎。
私はあれを、二度と見たくはない。
ならば、幕府に残っている“筋の通る武士”たちを支える他ありませぬ。
それが、今の私の“倒幕”でございます。」
「……倒幕、とな?」
慶喜が目を細める。久坂は頷く。
「はい。
理なき倒幕を倒すのです。
“あの幕府を倒したい”という怒りだけで動く者たちを、
“この国の形をどう残すか”を考えずに剣を抜く者たちを、
私は許せませぬ。
そして――上様がその相手に背を向ける姿も、許せませぬ。」
容保が、ここで静かに言葉を継いだ。
久坂の鋭さを受け止め、やや柔らかく、しかし芯は同じくして。
「上様。
徳川が三百年かけて築いたのは、ただの政道ではございませぬ。
『大名たるもの、勝手に兵を起こさず。
刀を抜くは幕命あってこそ』――
この形を、戦国の乱世を知らぬ世代にまで浸み込ませたのです。
それがいま、“徳川が退くから”の一言で崩れれば、
各藩はすぐに“うちはうちでやる”と申しましょう。
その時、最初に犠牲になるのは、
上様がお守りしたいと願っておられる“民”にござりまする。」
慶喜は唇をかんだ。
「……儂は、民を思って退こうとしておるのだぞ。」
「存じております。」
容保はすぐに言った。
「しかし、“退く将軍”が民の上に立つことはできませぬ。
民が見るのは、常に“誰が最後まで座していたか”です。
たとえ敗れようとも、最後まで国を守ろうとした者を、
この国は最後に選びましょう。
ならば徳川こそ、最後までお座りくださいませ。」
「……最後まで座って、お前たちは儂に死ねと申すのか?」
「申しておりませぬ。」
今度は久坂がやわらかく笑った。
「“逃げるな”と申しておるのです。
死ぬ覚悟と、逃げぬ覚悟は似て非なるもの。
前者は己の美学のため。
後者は、人を残すため。
上様に求めておるのは、後の方にございます。」
部屋に、しばし雨音だけが満ちた。
慶喜の目は、やや潤んでいるようにも見えた。
それは悔しさか、安堵か、誰にも分からない。
「……儂はな……」
慶喜はようやく口を開く。
「儂は、誰も信じられなんだ。
将軍になった時から、皆が“徳川のため”と言うて近づく。
“慶喜様のため”と言うた者は、一人としておらなんだ。
だから、怖かった。
前に出て、誰もついて来なかったらどうしようと。
儂が“戦う”と言うて、皆が“それは時勢に逆らう”と言うて離れていったら――
そう思うと、前に出られなんだ。」
それを聞いた瞬間、容保は深く頭を垂れた。
「そのご不安に気づけなかったこと、誠に申し訳なく存じます、上様。」
久坂は微笑み、首を振った。
「……では、今お示しになればよろしいのです。
“私は逃げぬ。
薩長の軍門には下らぬ。
民を守るためなら、戦う”と――
そう一言、仰せくだされば。
会津も、桑名も、越後も、江戸も、
皆、胸を張って上様の後ろに並びましょう。」
「……並ぶか、本当に?」
慶喜が問うと、久坂は迷いなしに頷いた。
「はい。
私も並びます。
長州に生まれたこの身であっても。
“逃げぬ将軍”に敵対するほど、私は愚かではござりませぬ。」
容保もまた、まっすぐに言った。
「会津も並びます。
この十年、京にて浴びせられた罵声も、流した血も、
すべて“徳川の旗の下”にあったからこそ耐えられたのです。
その旗が揺らがぬ限り、我らは何度でも立ちましょう。」
徳川慶喜は、長く息を吐いた。
それはまるで、胸の中に溜めていた“逃げる理由”という名の煤を、
ひとつ吐き出すようだった。
「……そうか。
儂は、見誤っていたのだな。
“戦えば徳川が汚れる”と思うておった。
だが――
逃げれば、もっと汚れるのだな。
汚れるなら、前で汚れる方がまだましだ。」
久坂がにやりと笑った。
「それでこそ、将軍にございます。」
容保も頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます、上様。」
慶喜は二人を見渡し、ようやく将軍としての声音を取り戻した。
「――松平。久坂。
この大坂は、儂が動かぬ。
兵には“将軍家、ここを動かず”と触れを出せ。
薩長に対し、幕府はまだ息があること、しかと示す。
ただし、無益な焼き討ちや民草への狼藉は、一切、許さぬ。
幕府は、最後まで民の上に立つ政であると知らしめよ。」
その言葉を聞き、久坂はふっと目を細めた。
まるで遠くにいる新選組の誰か――浅葱色の羽織を着た、あの男に届くように。
――聞いたか、隼斗。
お主が守ろうとした“逃げぬ将軍”は、ここにおる。
こうして、
“逃げる将軍”と“支える家臣”の構図は崩れ、
“立つ将軍”と“それを支える侍たち”の本来あるべき形が、
大坂城にひととき甦ったのだった。




