鳥羽伏見の戦い 1
冬の風が、城壁の瓦を鳴らしていた。
空は鉛のように重く、遠雷が腹の底を揺らす。
嵐の前の静けさとは、こういう夜を言うのだろう。
大阪城の広間では、松明が炎を吐き、
甲冑の金具が絶え間なく鳴っていた。
廊下を駆ける兵、怒号、伝令の声――
まるでこの城そのものが息を荒げているかのようだった。
「鉄砲隊、北門へ急げ! 補給は明朝までに整えろ!」
「城下の民は避難を開始せよ!」
夜の空気は、鉄と油の匂いで満ちていた。
その中を、黒衣の裾を翻して歩む一人の女。
久坂玄瑞。
長州の女志士として生まれ、
筆と剣の両方で時代を切り開こうとした女。
だが今、その瞳にはかつての炎の代わりに、
深い翳りが宿っていた。
――戦は、もう避けられないのか。
彼女の胸中には、重い現実が横たわっていた。
かつての同志たち――桂、木戸、西郷――
そして彼女は、松平容保の側に立ち、徳川慶喜を護る立場にいた。
廊下を曲がると、
広間の奥で将軍・徳川慶喜が俯いていた。
その横に座るのは、鎧姿の松平容保。
容保の声は優しく、しかし震えていた。
「上様、どうか御心を鎮めください。
まだ矛を交えると決まったわけではございませぬ。」
慶喜の唇がかすかに動く。
「……だが、もう止められぬのだな。
わしは政を返した。
それでも、誰も刀を置こうとはせぬ……。」
その声には疲弊が滲んでいた。
容保は、幼子を諭すように肩へ手を置いた。
「民を思うなら、ここで討たれてはなりませぬ。」
その光景を見つめながら、久坂玄瑞は唇を噛み締めた。
胸の奥で、燃え尽きたはずの炎が、ふっと再び灯る。
――古賀。
あの夜、京都で交わした会話が甦る。
静かな笑みを浮かべた、あの青年の声が。
「民のために、新選組はあるのです。」
女として、侍として、
幾度も“理想”と“現実”の狭間に立たされた。
その度に剣を握り、血を見、心を失いかけた。
だが――古賀の言葉だけは、
血の匂いの中でも、確かに“温かかった”。
「……戦わずして、守ることは出来ぬのか。」
小さく呟いたその声を、容保が聞き取った。
「玄瑞……?」
久坂はゆっくりと振り向く。
彼女の瞳は、灯火のように静かに燃えていた。
「上様をお護りいたします。
この身が女であろうと、剣を捨てたくはありません。
ですが――どうか、戦の中で民を巻き込むことだけは……お控えください。」
慶喜はその言葉に、かすかに顔を上げた。
そこには、怯えと感謝が混じった複雑な光があった。
久坂は再び外に目を向けた。
城下には、無数の灯がゆらめいている。
その方角――淀の彼方に、新政府軍の火が見えた。
「来る……かつての仲間たちが。」
そう呟いた声は、夜風にかき消される。
だが次の瞬間、
胸の奥で確かな響きが生まれた。
――民のために。
――血のためではなく、未来のために。
古賀の声が耳の奥で重なり、
彼女の頬を一筋の涙が伝った。
やがて天が裂けるように雷光が走り、
大阪城の天守を白く照らした。
久坂玄瑞はその光の中で、
静かに刀の柄へ手を添えた。
「……私は、もう二度と泣かぬ。
この戦で、誰一人泣かせぬために。」
その言葉は、夜明け前の闇へと消えていった。
――慶応四年一月二日 京都・西本願寺屯所
夜がまだ明けきらぬ。
冬の空は鈍い群青に沈み、
遠くで銃の試射音が幾度か木霊していた。
古賀隼斗は、屯所の奥座敷で一人座していた。
畳の上には、油で手入れされた愛刀。
それを左手に巻き付けるように、若い隊士が布を締めている。
「これで……抜刀の時も離しませんね、組長。」
少年のような隊士の声に、古賀は静かに頷いた。
「戦場で刀を落とせば、それは“死”だ。
どれほどの覚悟を持とうと、誠を貫くには生きねばならぬ。」
布の下から白い指が僅かに血を滲ませた。
それでも古賀は眉ひとつ動かさず、微笑んだ。
その姿は、どこか祈りにも似ていた。
襖の向こうから、足音が聞こえる。
やがて障子が開き、永倉新八が姿を現した。
その背後には、深く頭を垂れた一人の男がいた。
「……古賀殿。」
声を震わせたその男――坂本龍馬。
いつか京都の夜を語り合った、“理想”の人だった。
龍馬は何も言わずに畳へ手をつき、
そのまま額を床に擦りつけるように土下座した。
「……すまんっ!」
声が震え、空気が凍る。
永倉も思わず息を呑んだ。
「見立てが甘すぎた……!
まさか倒幕が、こんなにも早く進むとは思わなんだ!
俺は……ただ、血を流さずに世を変えたかっただけなんじゃ!
それなのに、このままでは日ノ本が二つに割れるッ!」
涙が畳を濡らした。
坂本龍馬は、その拳を握り締めて震えていた。
古賀はしばらく黙っていた。
冬の朝の光が障子越しに射し込み、
龍馬の背に淡い白を落とす。
やがて古賀は、ゆっくりと口を開いた。
「……ご無事で何よりです、坂本さん。」
その声音には、怒りも嘆きもなく、
ただ静かな慈しみがあった。
「貴方は、己の信じた未来のために尽くされた。
貴方を責める権利など、誰にもありません。」
龍馬は顔を上げる。
古賀の微笑は、まるで雪明りのように柔らかだった。
「……古賀殿……。」
古賀は立ち上がり、帯刀を整える。
左手に巻いた白布から、血が滴った。
「坂本さん――一つだけ、お願いがございます。」
龍馬は真剣な面持ちで頷く。
古賀の瞳には、炎と涙が同居していた。
「我ら新選組は、これより薩長と戦います。
“誠”の名にかけて、決して退かぬ覚悟です。
しかし――」
古賀は少し言葉を詰まらせ、拳を握り締めた。
「もし、もしも我らが敗れることがあれば……
どうか、罪なき民が泣かぬように。
そのために、貴方の力をお貸しください。」
龍馬の目に、再び涙が浮かんだ。
その瞳の奥に映る古賀の姿は、
もはや“敵”でも“幕臣”でもなく――
同じ時代を生きる、ただの“侍”だった。
龍馬は震える手で古賀の肩を掴んだ。
「……あんたみたいな奴が、もっと早うおったら……
この国は、きっとこんなことにはならんかった。」
古賀は微笑み、静かに首を振る。
「いいえ。
過ぎた歴史を悔いるより、今を護ることが先です。」
外から、太鼓の音が響いた。
戦支度の合図。
永倉が刀を抜き、低く言った。
「……出陣の刻だ。」
古賀は頷き、坂本に一礼する。
「坂本さん。
貴方が見た夢――私も信じています。」
そして背を向け、戸口へ歩き出した。
背中に、坂本の声が届く。
「古賀ァッ! 生きろよ! 死ぬなよォ!」
古賀は立ち止まり、
ただ一言だけ、静かに返した。
「誠の旗が揺れる限り、私は生きています。」
外は雪が舞っていた。
白い息が、朝焼けの中に溶けていく。
その光の中で、古賀隼斗は戦場へと歩き出した。
地鳴りのような砲声が、天地を裂いた。
空を焦がす火線が走り、
黒煙と土埃が入り乱れる戦場には、もはや昼も夜も区別がなかった。
銃弾が唸り、血潮が飛沫を上げる。
兵の叫びと馬の悲鳴が渦を巻き、
地獄とはまさにこの光景を指すのだろう。
「――新選組、前へェ!!」
その声が轟く。
旗が翻る。
“誠”の文字が火の粉に照らされ、紅く染まって揺れた。
最前線。
古賀隼斗は、煙の中に立っていた。
左腕には白布を巻き、そこに滲む血が新たな誓いのように輝く。
「撃ち方、止めェッ!! ――抜刀せよッ!!!」
古賀の号令に、隊士たちは一斉に銃を捨て、
鞘走る音が戦場を裂く。
敵味方の距離は、もはや十間もない。
視界を覆う煙の中から、叫び声と銃火が交錯する。
古賀は刃を抜いた瞬間、
風が巻き、視界が一瞬だけ冴え渡った。
その瞳に映るのは――修羅。
「……来い。」
一歩踏み出す。
刃が閃く。
一人、二人――首が宙を舞い、血が風を染める。
古賀はもはや“不殺”を捨てていた。
誠を貫くため、民を守るため、
己の心を犠牲にして修羅となった。
「退けェッ!!」
敵兵の叫びが響く。
だが、その声はすぐに絶たれる。
古賀の刃は容赦なかった。
踏み込む。
横薙ぎ――血が飛ぶ。
突き――悲鳴が消える。
切り返し――二の太刀が胸を裂く。
そのたびに、古賀の顔には表情がなかった。
ただ、冷たい光が瞳の奥で燃えていた。
「斎藤、左翼を抑えろ!」
「応!」
斎藤一が抜刀し、疾風のように駆ける。
その動きは影の如く、音すらない。
気付いた時には、敵の喉が裂かれている。
「永倉、新政府の砲兵を叩け!」
「任せろォッ!!」
永倉新八の叫びが轟き、
その豪腕が敵を叩き斬る。
刀を振るたび、火花が散り、血が雨のように降った。
三人が並び立つ姿は、まさに鬼神。
古賀の刃が風を裂き、
斎藤の突きが影を断ち、
永倉の一撃が大地を揺らす。
「化け物だ……!」
新政府軍の兵が震え、銃を放り出して後退する。
「逃げるなァッ!!」と叫ぶ指揮官の声も、
その怒号の中で掻き消された。
古賀は振り向かず、血に濡れた刃を下げた。
周囲には屍が積み重なり、
熱気と鉄の匂いが空気を焼いている。
「……これが、守るということなのか。」
小さく呟いた声は、煙にかき消えた。
その眼には、涙のようなものが光ったが、
それを拭う手はもう震えていた。
「古賀! 右に敵の増援だッ!」
斎藤の声が飛ぶ。
古賀は頷き、再び前を向いた。
そこには、なお果てぬ戦場が広がっていた。
「――まだ終わらぬ。誠を、貫け。」
彼は再び刃を掲げ、
地獄の中へと踏み込んだ。
その背中を、永倉と斎藤が追う。
三つの影が、炎の中を駆け抜けていく。
まるで燃え尽きる星のように――。
空は血のように赤く、
黒煙が風に流れ、炎が民家を呑み込んでいた。
砲声が絶え間なく響き、兵たちの悲鳴と怒号が入り交じる。
それでも戦況は、拮抗していた。
新政府軍の兵は士気旺盛、
“錦の御旗”のもとに命を懸ける。
だが、幕府軍もまた怯まなかった。
「誠」の旗を掲げる新選組が、その中心に立っていたからだ。
「――新選組、前進せよ!!!」
古賀隼斗の咆哮が戦場を貫いた。
その声は爆音にも負けず、兵の心を震わせる。
「うおおおおおおっ!!!」
斎藤一が疾風のごとく駆け、突きが閃光のように敵兵の胸を貫く。
永倉新八の刀がうなりを上げ、火花を散らして敵の槍を両断する。
古賀は二人の背を追い、次々と刃を浴びせる。
その姿はまさに修羅。
しかし、それは殺戮ではなかった。
“誠”の名を穢さぬための、無言の祈りに似た剣舞だった。
敵の陣形が崩れかけたその瞬間――
「伏せろォッ!!!」
永倉が叫んだ。
煙の向こう、敵の鉄砲隊が火を噴こうとしていた。
数十の銃口が一斉に古賀らへと向けられる。
瞬間、世界が静止したように思えた。
そして――
「――撃ち方、始めェェッ!!!」
轟音が響く。
だが、それは敵の発砲ではなかった。
別方向からの弾雨が敵鉄砲隊を襲う。
黒煙の向こうに、
山南敬助の姿が見えた。
冷徹な指揮、鋭い眼差し。
その隣には、
盲目の軍師――山本覚馬。
彼は白い布で両眼を覆いながらも、
耳と感覚だけで戦場を見通していた。
「第二隊、照準右三間――撃てぇぇッ!!!」
覚馬の声が風を切る。
その精緻な指示に従い、
鉄砲隊の銃口が一斉に火を噴いた。
敵兵が次々と崩れ落ち、
鉄砲隊の陣形が瓦解する。
火薬の煙の中、山南が静かに呟いた。
「古賀君……今だ、前へ。」
その声に導かれるように、
古賀は立ち上がった。
「――新選組、進撃ッ!!!」
叫びと共に再び刀を振り上げる。
その刃が光を受け、炎を裂いた。
斎藤の突きが風を裂き、
永倉の一撃が大地を鳴らす。
山南と覚馬の銃火が、
彼らの背を照らすように放たれた。
敵兵の叫びが遠のく。
その瞬間だけ、
戦場に一瞬の“調和”が訪れた。
――剣と銃が交差し、
――修羅と信念が重なり、
――誠が、ひとつの光となった。
古賀は振り返り、
煙の向こうにいる山南と覚馬に深く一礼した。
覚馬は見えぬはずの空を見上げ、
静かに呟いた。
「……この瞳は見えぬ。
だが“誠”の旗が、確かにそこにある。」
山南は薄く笑い、
銃を構え直す。
「ならば、その旗を守り抜こう。
たとえ命尽きようとも――。」
炎が空を焦がし、
戦場は再び混沌の渦へと沈んでいく。
しかしその中で、
確かに“誠”の旗は風に揺れていた。
血と涙にまみれながらも、決して倒れぬように。




