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歴史を変えろ

雨上がりの夜、石畳を滑るように風が走る。

遠くから三味線の音が微かに流れてくる。

その静寂を破ることなく、一人の女が闇に溶けるように料亭の暖簾をくぐった。

久坂玄瑞――。

その姿は褐色の肌に薄紅の唇、艶やかな黒髪を夜風に揺らし、

まるで月の影が人の姿を取ったようであった。

奥の座敷ではすでにひとりの男が待っていた。

白い羽織に身を包み、無造作に髪を束ねたその姿。

目を細めて笑いながら、湯気の立つ茶碗を差し出す。

「おお、玄瑞。よう来てくれた。

 ここまで内密に動くのは、あんたくらいじゃなきゃ無理じゃき。」

坂本龍馬の声には、どこまでも快活な響きがあった。

その眼差しの奥には、世の行く末を見通すような確信があった。

久坂は静かに座り、膝を正す。

「まさか、坂本殿がここまでの策を立てられていたとは……。

 薩摩と土佐を動かし、朝廷に働きかけ、

 戦を経ずして政権を返上させるなど――まさに天命の業です。」

龍馬は茶碗を傾け、微笑を浮かべた。

「戦で人は死ぬ。血を流せば、恨みが残る。

 わしはな、玄瑞……この国を“血で染めぬ”ためにここまで走ってきたんじゃ。」

久坂はその言葉に、息を呑む。

燃え盛る長州の過去が、脳裏をよぎる。

友を、民を、未来を失ってきた日々――。

だが今、この男の前には、確かに別の道がある。

「……坂本殿。あなたは、日ノ本を割らずして治めようとされている。

 それは奇跡です。わたくしも、この目で見届けとうございます。」

龍馬は笑った。

「奇跡やのう。けんど、やらにゃ誰にも分からん。

 わしは、徳川が好きでも嫌いでもない。

 ただ、この国が“日本”として立ち上がる姿を見たいだけじゃ。」

その時、風が障子を震わせ、灯が揺れた。

一瞬、二人の影が重なり、そして離れる。

その光の中で、久坂玄瑞の金の瞳がきらりと光った。

「坂本殿……。

 あなたの志が、この国を変える礎となりますように。」

龍馬は笑いながら立ち上がる。

「玄瑞。あんたのその言葉、わしは生涯忘れんぜ。」

その夜、二人は長く語り合った。

戦を避け、血を流さぬ道を、幾度も幾度も。

月が沈む頃、二人は別れ際に深く頭を下げた。

まるで、これが最初で最後の再会であることを、

互いに感じ取っていたかのように。


――慶応三年十一月十四日 西本願寺・夜

夜の西本願寺は、しとしとと降る雨に包まれていた。

石畳を叩く雨音が、遠い太鼓のように響き、

灯籠の火が揺らめくたび、闇の中の影がゆらゆらと形を変える。

黒塗りの廊下を、ひとつの影が音もなく進んでいた。

足音を忍ばせるその男は、新選組一番隊組長――古賀隼斗。

彼は一室に入ると、静かに帳面を閉じ、深く息を吐いた。

蝋燭の灯が、白い指先を照らす。

紙の上には墨痕も新たに、たった一行の文字が踊っている。

「近江屋 坂本龍馬 命狙われる」

墨はまだ乾いていなかった。

古賀は筆を置き、その文を見つめる。

視線は静かに揺れ、やがて小さく呟いた。

「……いよいよか。」

雨脚が強まり、雷鳴が遠くで唸った。

それはまるで、天がこの夜を拒むような音だった。

古賀は眉をひそめ、雨に混じる気配を感じ取る。

外界の音がどれほど喧しいとも、彼の心は静まり返っていた。

これより先、自らの刃で、時代を変える。

そんな覚悟が、胸の奥でゆっくりと燃え始めていた。

そのとき、廊下の向こうから、草履の音が一つ。

障子の向こうで、くぐもった声が響く。

「……古賀殿。まだ起きておられたか。」

障子が開き、灯の光が差す。

現れたのは、白い羽織を肩に引っかけた男――

新選組二番隊組長、永倉新八だった。

彼は雨に濡れた髪を指で払い、苦笑を浮かべながら言った。

「副長に呼ばれたのかと思えば、あんたの使いとはな。

 まったく、静かな夜に呼び出すもんだ。」

古賀は黙って机上の地図を広げた。

薄明かりに照らされた京の地図に、墨で小さな点をつける。

「――ここです。近江屋。」

指先が止まる。

「坂本龍馬殿が、今宵、命を狙われる。

 つい先ほど、確かな筋から報せが入りました。」

永倉の表情が凍った。

目が細くなり、息が詰まる。

「坂本龍馬……あの薩長を結び、幕府を揺るがせた男か。

 あいつは“敵”だ。俺たち新選組が追ってきた相手じゃねえか。」

古賀はゆっくりと頷いた。

その目には、雨に濡れたような光が宿っている。

「敵――確かにそうでしょう。

 ですが、龍馬殿は戦を望まぬ。

 彼が倒れれば、薩摩も長州も暴発し、

 この京は炎に包まれる。民が泣き、血が流れる。

 ――それだけは、止めねばならぬのです。」

永倉は腕を組んだまま、黙り込んだ。

灯籠の炎が、二人の顔に淡く影を落とす。

時折、障子の外を風が走り、雨粒が壁を叩く。

「……止めたい、だと?」

永倉は鼻で笑った。

「まさか龍馬を“守れ”って言うつもりじゃねえだろうな?」

古賀はまっすぐにその目を見た。

一瞬の沈黙ののち、静かに頷く。

「――そうです。」

永倉の口元が歪む。

その笑みには呆れと、ほんの少しの畏敬が混じっていた。

「おいおい……副長が聞いたら卒倒するぜ。

 敵のために刀を抜く? 冗談も大概にしろ。」

しかし古賀の目は動かなかった。

その瞳には、夜よりも深い静けさと、火よりも強い決意があった。

「永倉殿。

 これは“敵を救う”のではありません。

 ――この国の未来を守るための一手です。」

灯火が一瞬揺れる。

外で風が唸り、雨が一層強まる。

やがて永倉は、唇の端を吊り上げて笑った。

「……厄介な男だよ、あんたは。

 だが、嫌いじゃねえ。」

そう言って羽織を正し、腰の刀を叩く。

刀身の金属音が、夜の空気を裂いた。

「分かった。俺が行く。

 だが、副長には絶対に内緒だぞ? 俺の首が飛ぶ。」

古賀は深々と頭を下げた。

「感謝いたします。」

永倉は障子に手をかけ、ふと振り返った。

「ひとつ聞かせろ。

 お前、なぜそこまでこの国にこだわる?」

古賀は静かに答えた。

雨音が、まるでその言葉を聞こうと耳を傾けているようだった。

「……亡き祖母が申しておりました。

 “人の命は、刃で守るものではなく、志で守るものだ”と。

 今こそ、その志を果たす時なのです。」

永倉は何も言わなかった。

ただ一度、深く頷くと、雨の闇へと消えていった。

残された古賀は、灯籠の火を見つめながら、

ひとり小さく呟いた。

「――刃は血を流すためではなく、血を止めるために在る。」

雷鳴が、遠く京の空を裂いた。

その轟きがまるで、時代の扉が軋む音のように聞こえた。


この夜、雨の中で交わされたたった一つの密命が、

やがて歴史の運命を変える――。


――慶応三年十一月十五日 京都・近江屋

雨は途切れることなく降り続いていた。

通りを行く行灯の灯が雨粒に滲み、

まるで星が地に降りたかのように、

京の町を淡く照らしていた。

屋根を打つ雨音は、遠い雷鳴のように絶え間なく響き、

それがまるで、時代そのものの鼓動のように感じられた。

二階の一室――。

そこには、硯を前に筆を取る男がいた。

坂本龍馬。

その傍らでは、中岡慎太郎が湯を酌み交わしながら、

静かに筆を走らせている。

文机には、まだ乾かぬ書状。

それは新たな日本を描こうとした夢の設計図だった。

「これでええ……」

龍馬は小さく笑い、筆を置いた。

「もう戦は避けられる。

 あとは朝廷に任せりゃええ。」

彼の笑みには、長き奔走の果ての安堵が滲んでいた。

しかし、その笑みが“最後のもの”になるとは――

誰も知る由もなかった。

雨脚が一瞬弱まり、

静寂が降りる。

その瞬間――

階下で、微かな軋み音がした。

中岡が眉を上げ、龍馬が振り向く。

畳を踏む重い足音が三つ、四つ。

「誰じゃ……?」

問い終えるよりも早く、

障子が弾け飛んだ。

破片が宙を舞い、

その隙間から黒装束の影が三つ、雪崩れ込む。

「坂本龍馬、覚悟!!」

鋭い声とともに、

刀が月光のように閃いた。

紙灯籠の炎が吹き消え、

闇の中で刃の光だけが走る。

畳が裂け、血の匂いが空気を染めた。

中岡が立ち上がろうとする。

龍馬は咄嗟に脇差を抜こうとするが――遅い。

刃が振り下ろされる、その瞬間――

外から轟く怒声が、

雨を切り裂いた。

「――新選組、二番隊!! 構えッ!!!」

戸が爆ぜるように開き、

そこに現れたのは、

ぬれた羽織を纏い、刀を抜いた一人の男。

永倉新八。

「貴様ら――何者だ!!」

咆哮と同時に、金属音が夜を裂いた。

刀が交わり、火花が散る。

雨と血が入り混じり、

畳に跳ね、霧のように漂う。

「下がれ龍馬ッ!」

永倉が叫び、身を投げるように斬り込む。

一撃――鋭く、正確に。

黒装束の一人が呻き声を上げ、倒れ込んだ。

「原田! 援護しろッ!!」

背後の階段から槍の穂先が光を裂く。

原田左之助が敵を突き飛ばし、

一気に体勢を崩させる。

「永倉隊、押せェッ!!!」

怒号が響く。

刀の音、槍の音、雨音、血の滴る音。

それらが入り乱れ、

まるで地獄の太鼓のように夜を震わせた。

畳が焦げ、壁に刃が突き刺さる。

永倉の頬を血が伝う。

しかし、その瞳は一瞬たりとも揺るがない。

「龍馬を死なせるなぁぁぁッ!!!」

永倉は叫び、

敵の斬撃を肩で受け止め、

体を捻って返す。

――閃光。

一太刀。

音もなく、襲撃者の右手が宙を舞った。

床に落ちた刃が、

雨音の中で乾いた音を立てる。

静寂。

息を呑む音だけが残る。

外では、雨が再び降り出した。

龍馬は壁にもたれ、

荒い息をつきながら永倉の背を見つめていた。

「……あんた、何者じゃ?」

永倉は血の滴る刀を静かに払う。

雨に濡れた髪が灯の光を反射した。

「俺か?」

彼は口の端をわずかに上げた。

「――ただの剣客よ。

 “誠”の旗の下で、血を流すしか能のない男だ。」

その言葉を残し、永倉は踵を返す。

襖を開けると、外の雨風が吹き込み、

灯火が一瞬、大きく揺れた。

龍馬はその背を呆然と見送る。

「誠……? まさか……新選組……?」

永倉は振り返らなかった。

ただ静かに階段を降り、

雨の中へと溶けていった。

――その夜、

坂本龍馬は生き延びた。

だが、誰も知らぬまま、

新選組がその命を救った夜が、

幕末の歴史の影にひっそりと刻まれた。


――慶応四年正月 京都・西本願寺屯所

夜風が、戦の匂いを運んできていた。

冬の空は鉛のように重く、遠くでは砲声のような雷鳴がくぐもって響く。

屯所の中庭では、隊士たちが慌ただしく動き回っていた。

革袋に弾を詰め、火縄を乾かし、刀の刃こぼれを砥石で削る音が絶え間なく響く。

空気の張りつめた気配は、まるでこの世の呼吸そのものが戦を拒んでいるかのようだった。

「これが……戊辰戦争の始まりか。」

古賀隼斗は、廊下の柱にもたれながら低く呟いた。

新政府軍――薩摩と長州が中心となった新たな権力の旗が掲げられ、

その前に立ちはだかる旧幕府軍の一翼として、新選組もまた参陣を命ぜられていた。

京を追われた徳川の威信を取り戻す戦い。

だが、古賀の目には、誰よりも深い哀しみが宿っていた。

廊下の向こうでは、隊士たちが声を張り上げている。

「弾薬は揃ったか!」「火皿の湿り気を確かめろ!」

その声に混じって、若い隊士の嗚咽が聞こえた。

逃げ出した者もいた。だが、多くは残った。

「誠」の旗の下で、己の信じる義を貫くために。

古賀はその様子を黙って見つめていた。

彼らが何のために剣を取るのか――それを誰よりも理解しているからこそ、

胸の奥に刺さる痛みは深かった。

やがて、鉄砲隊の鍛錬場から乾いた銃声が響いた。

音に導かれるように古賀は歩き出す。

訓練場の中央には、盲目の男――山本覚馬の姿があった。

両眼には白布が巻かれ、杖の代わりに指揮棒を握っている。

その隣には、心配そうに寄り添う山南敬助。

「覚馬殿、もうお休みください。夜明けの冷えは骨に障ります。」

山南の声は穏やかだが、どこか切実だった。

覚馬は首を横に振る。

「いや、山南殿。私はまだこの手で、音で、風で――戦の形を掴める。」

「しかし、貴方の眼は……」

「眼など、とうに捨てた。」

覚馬は微笑を浮かべ、空を仰いだ。

「私はこの闇の中で、光を見ている。

 それは銃火ではなく、人の心が放つ“志”の光だ。」

その言葉に、山南は息を詰まらせた。

古賀は近づき、静かに声をかける。

「覚馬殿……貴方が無理をすれば、鉄砲隊の心が乱れます。

 指揮は山南殿に任せ、どうか御身をお労りください。」

覚馬は小さく笑い、手探りで銃の機構を撫でた。

「古賀殿。貴方の声を聞くと、不思議と安心します。

 だが、私は己の手で未来を撃ち抜きたいのです。

 この老いぼれの手でも、まだできることがある。」

古賀は言葉を失った。

盲目の男の顔に浮かぶ微笑は、まるで神仏のように穏やかだった。

やがて覚馬は、周囲の鉄砲隊に向かって声を上げる。

「鉄砲隊、整列!」

その声は低く、しかし確かな響きを持っていた。

数十名の隊士が一斉に並び、銃口を夜空へと向ける。

雨上がりの空に、乾いた音が轟いた。

ドン――

「これが、我らの“誠”だ!」

覚馬の声が夜を貫いた。

その姿を見つめる古賀の胸に、熱いものが込み上げた。

「……人は、光を失っても志を見失わぬ。」

古賀は呟き、天を仰ぐ。

そこには雲の切れ間から、淡く月が覗いていた。

山南が静かに言う。

「古賀さん、まるで戦の神のようだな、覚馬殿は。」

古賀は微笑を返した。

「ええ。

 この国を護ろうとする者の中で、

 最も強いのは――視える者ではなく、信じる者です。」

夜風が吹き抜け、旗がはためく。

“誠”の二文字が、闇の中で淡く揺れた。

それは、血塗られた時代においてなお、

決して消えぬ希望の灯のようだった。

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