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御陵衛士

慶応三年三月一日――。

冬の冷気がまだ残る京の空を、鉛色の雲が覆っていた。屯所の会議室には張り詰めた空気が漂い、畳の上に座す者たちの呼吸すら重く響く。

列座するのは、新選組の重鎮たち。

近藤勇、土方歳三、斎藤一、永倉新八、そして一番隊組長・古賀隼斗。

その中央に、伊東甲子太郎が端正な面持ちで座していた。

彼の前には文書が一枚。そこには「御陵衛士結成」の文字。

伊東は穏やかに、しかしその瞳の奥に強烈な光を宿していた。

「――私は、天子様の御心を正しくお守りするため、新たな組織を立ち上げたいと考えております。名を“御陵衛士”と。」

その言葉が落ちると、土方歳三の眉がぴくりと動いた。

すぐさま短く吐き捨てるように言葉が飛ぶ。

「却下だ。」

鋭くも冷徹な声音だった。

だが伊東は怯まず、むしろ微笑を浮かべたまま反論する。

「副長殿、御心は理解しております。ですが、幕府のみに仕える剣ではなく、朝廷をも護る志が必要な時代ではありませんか? 新選組が誠の名を掲げるのならば、それは“忠”のみに非ず、“義”にも通ずるべきです。」

言葉巧みに理を重ね、あたかも正義を手中に収めたかのように伊東は語る。

副長の強硬な一言が、じわじわと押し返されていく。

近藤局長も腕を組み、険しい表情のまま沈黙している。

会議の空気が微妙に揺らいだ、その時だった。

静かに声が上がった。

「――一つ、伺ってもよろしいでしょうか。」

一番隊組長・古賀隼斗。

その声音は穏やかであったが、瞳は真っ直ぐに伊東を射抜いていた。

「伊東先生。もし御陵衛士を結成されるおつもりならば――何故、そもそも新選組に加入されたのですか?」

室内の空気が一変する。

隊士たちは息を呑み、誰もが伊東の返答を待った。

伊東は一瞬だけ言葉を失い、それから柔らかく笑んだ。

「古賀殿、貴殿のような慧眼を持つ方に問われるとは光栄です。……人は、時に己の理想を形にするため、組織を学ぶことが必要なのです。私は新選組で“武の忠義”を学びました。だが今、私は“理の忠義”を果たすべき時だと考えております。」

その言葉は、まるで煙のように掴みどころがない。

古賀は静かに伊東を見据えたまま、何も言わなかった。

その沈黙が、何よりも雄弁だった。

土方は腕を組み直し、伊東を睨み据えた。

「理屈を並べ立てるのは勝手だが、組を離れるなら覚悟しておけ。裏切り者として斬る。それが新選組だ。」

その声は低く、冷たく、畳の上の空気を震わせた。

張り詰めた沈黙が広がり、誰一人として息を呑む音すら立てなかった。

だが、その沈黙を破ったのは古賀だった。

静かに、しかし芯の通った声で言葉を紡ぐ。

「副長。局中法度は、すでに不採用の筈です。仮に伊東殿が離隊されようと、争い事は新選組そのものに悪影響を及ぼします。」

一瞬にして空気がざわめいた。

土方の顔がかすかに動く。

怒気を孕んだ視線が、まっすぐ古賀へ向けられる。

「……お前は、どちらの味方なんだ、古賀隼斗!」

土方の声が、まるで刀身のように鋭く響いた。

だが古賀は怯まず、真っ直ぐにその眼を見返す。

「勿論――局長、そして副長の味方です。」

その声音には一点の迷いもなかった。

古賀は続けて、伊東を見据える。

「伊東殿。離隊すること自体を咎めるつもりはありません。ですが――共鳴する者が、既におられるのですか?」

その問いに、伊東は口元を歪めた。

静かな笑みが、どこか妖しく畳の上に影を落とす。

「ええ、もちろんですとも。」

伊東の声は甘く、そして冷たい。

「十五名ほど――私の理に共鳴する志士がいます。」

その言葉に、場がざわめく。

土方の目が一瞬見開かれ、拳が膝の上で強く握り締められた。

しかし古賀は驚かなかった。

彼の眼差しは静まり返り、まるですでにこの展開を見通していたかのようだった。

「十五人……ですか。」

古賀の声が、畳に沈み込むように低く響く。

「それだけの覚悟があるのなら、もう止めることはできませんね。」

伊東は愉快そうに目を細めた。

「ふふ……流石は古賀殿。話が早い。やはり貴殿とはいつか、共に志を語り合いたいと思っていましたよ。」

その瞬間、伊東の瞳がわずかに動いた。

横に座す斎藤一を見据え、唇の端を上げる。

「――そうでしょう? 斎藤さん。」

一斉に、全員の視線が斎藤へと向かう。

永倉が息を呑み、土方がわずかに眉を動かす。

斎藤一は何も言わず、ただ俯いた。

その沈黙が、何より雄弁だった。

伊東の口元がさらに深く吊り上がる。

「ほら、彼も私と同じ考えですよ。新選組は――変わらねばならぬ。」

その言葉が落ちた瞬間、張り詰めた空気が再び凍りつく。

土方の指先が刀の柄に触れかけたが、古賀が一歩前に出た。

「副長、ここは――まだ刃を抜く場ではありません。」

彼の声には、凛とした静けさと、どこか悲しみが混ざっていた。

この日、古賀は悟っていた。

この瞬間を境に、新選組が確実に二つへと分かれていくことを――。

畳の上を、風のような沈黙が流れた。

誰もが息を潜め、ただ一人――斎藤一のわずかな動きを待っていた。

伊東甲子太郎の眼が、まるで蛇のように光を帯びる。

ゆっくりと右手を差し出し、柔らかく、しかし押しつけがましい声音で語りかけた。

「……共に参ろうではありませんか。斎藤さん?」

その声音には誘いと確信が混じっていた。

斎藤が頷く――それを当然のように信じて疑っていない。

しかし斎藤は、動かない。

伸ばされた手を前に、ただ黙して視線を落とした。

わずかに喉が動き、唇が開きかけて、また閉じる。

伊東の眉がぴくりと揺れ、口元に苛立ちの影が浮かぶ。

「何故、迷うのです? 斎藤さん?」

その声は、先ほどまでの理知の仮面を失い、薄く焦りを滲ませていた。

土方歳三の目が細められる。

腕を組み、口元に苦笑すら浮かべながら――その瞳の奥で、炎が揺れた。

「(……迷うな。断れ。)」

その沈黙の圧が、まるで刃のように斎藤へと突き刺さる。

場の空気が弾けそうになったその時――古賀隼斗が一歩前へ出た。

畳の軋む音が、まるで鐘の音のように響く。

「斎藤さん。」

その穏やかな声が、静寂を裂く。

斎藤の肩がわずかに震えた。

「貴方の――思うように生きてください。」

その一言に、誰もが息を呑む。

古賀は続けた。

「新選組は“誠”を掲げています。それは――義に、民に、幕府に対して誠実であらんとするため。ですが、己の意思に背いていては、“誠”を貫くことは難しいのです。」

彼の声は決して大きくはなかった。

だがその静けさは、不思議と誰の胸にも深く届く。

「自分の心が定めた道を選んでください、斎藤さん。それが、貴方の“誠”であるならば。」

「古賀! 一体何を――!!」

土方が怒声を上げ、立ち上がる。

その腕が古賀に掴みかかろうとした――が。

「やめろ、副長!」

低く、しかし絶対の響きを持った声が割って入った。

近藤勇だった。

その手が土方の腕を掴み、動きを止める。

近藤は静かに言う。

「聞こうじゃねえか。こいつの言葉を。……“誠”ってやつを、な。」

古賀は一礼し、再び口を開いた。

「――局中法度は、今は存在しません。

 だからこそ、これまで五十を超える隊士が、それぞれの道を選び、離れていった。

 彼らを止められぬのに、組長だけを縛るのは――些か不平等ではありませんか。」

伊東の顔に満足げな笑みが浮かぶ。

「古賀殿、まさにその通り! 貴殿のような御仁がいるとは! さあ、斎藤さん――我らと共に!」

再び差し出される伊東の手。

その掌が、灯の下で白く輝いた。

だが――斎藤一は動かなかった。

長い沈黙の果てに、彼はただ一言だけ、吐き出すように呟いた。

「……俺は、俺の信じた“誠”を貫く。」

その瞬間、伊東の笑みが凍りついた。

土方の拳が緩み、近藤が静かに息を吐く。

斎藤はゆっくりと立ち上がり、伊東の差し出した手を見つめた。

そして、ほんのわずかに頭を下げる。

「申し訳ねぇ、伊東先生。」

それだけを言って、手を取らずに立ち去った。

畳の上には、誰も言葉を発せぬ沈黙が落ちた。

ただ、伊東の伸ばした手だけが、空を掴んだまま――微かに震えていた。

そして古賀はその光景を見つめながら、胸の奥で静かに呟く。

――これでまた、運命の歯車が一つ、回ったのだと。

室内の空気が、張り詰めた弦のように震えていた。

伊東甲子太郎の伸ばす手は、まだ宙に在る。

その指先の白さが、蝋燭の灯に淡く照らされるたび――沈黙はさらに深まっていく。

やがて、斎藤一が口を開いた。

低く、掠れるような声。だが、その一言一言に確かな意志が宿っていた。

「……確かに、俺は――伊東先生の掲げる思想に、共鳴している。」

その言葉に、場がわずかに揺れた。

伊東の瞳が鋭く光り、土方が息を呑む。

古賀だけが静かに、黙って斎藤を見つめていた。

斎藤は続ける。

「朝廷のために戦う……その理念、間違ってねぇと思う。

 この国の未来を見据える気概、誰よりも持ってるのは、先生だろう。」

伊東の口元に、勝利の笑みが浮かぶ。

だが――その瞬間、斎藤は顔を上げた。

その瞳は鋭く澄み、まっすぐに伊東を射抜いた。

「――だが、それ以上に、俺はこの“新選組”の貫く姿勢に共鳴している。」

沈黙。

その言葉の重みが、畳の上に響いた。

「幕府のために戦う。義のために剣を抜く。

 そして――何より、“民のため”に剣を振るう。

 それは俺が幼い頃から憧れてきた、“侍”そのものだ。」

斎藤の声は決して大きくなかった。

だが、誰の耳にも深く、鋭く突き刺さった。

「だから――俺は御陵衛士に加わるつもりは、ない。」

その言葉と同時に、伊東の顔から血の気が引いた。

伸ばした手が宙で止まり、やがて静かに下ろされる。

唇が震え、かすかに笑みを作ろうとするが、それはもはや形だけのものだった。

「……そうですか。残念です、斎藤さん。」

声は柔らかく、それでいて氷のように冷たい。

一瞬、蝋燭の灯が揺れた。

その隙に土方が立ち上がる。

「話は終いだ。伊東、出ていけ。」

冷たい声だった。

しかし伊東は何も言わず、静かに一礼して去っていった。

その背中は、光ではなく影を纏っているように見えた。

扉が閉まる音が響くと、室内に深い沈黙が訪れた。

古賀は目を伏せたまま、静かに息を吐く。

――これで、避けられぬ分岐は決まった。

やがて、斎藤がぽつりと呟いた。

「……悪いな、古賀。迷わせた。」

古賀は首を横に振る。

「いいえ。貴方の選んだ道こそ、“誠”の道です。」

その言葉に斎藤は微かに笑い、刀の柄を軽く叩いた。

「誠、か……重たい言葉だな。」

その夜、新選組の灯は揺れ、

静かに――確実に、分かれ道へと差し掛かっていた。

慶応三年三月十七日――春の気配が京都の空気に微かに混じり始めたその日、

伊東甲子太郎はついに決断を下した。

彼は十二名の隊士を連れ、静かに――しかし確固たる足取りで新選組屯所を後にした。

誰もが息を殺し、その背を見送る。

淡い朝靄の中で、浅葱の羽織が風にたなびく様は、まるで決別の狼煙のようだった。

だが、その列の中に――斎藤一の姿は、なかった。

その事実は、隊中を大きく揺るがした。

屯所の中ではすぐさまざわめきが起き、若い隊士の一人が吐き捨てるように言った。

「裏切りだ……! あんな奴ら、生かしておけるか!」

その声は瞬く間に広がり、他の者たちの口からも次々と似た言葉がこぼれた。

「粛清すべきだ!」「誠を汚した奴らを討つべきだ!」

怒号が木霊する中、古賀隼斗は静かに立ち上がった。

その動きは決して荒々しくなく、むしろ厳かな静けさを纏っていた。

彼の眼差しが、隊士たちの激情をひとつずつ吸い取るように巡る。

「――それだけは、駄目です。」

低く、しかし確固たる声が響いた。

瞬間、喧騒がぴたりと止まる。

「彼らもまた、“誠”を信じた。形こそ違えど、自らの信念を貫いた侍です。」

古賀の言葉は、怒りを鎮める雨のように隊士たちの心に沁み込んでいった。

「血で血を洗えば、新選組は瓦解します。

 いまは――志を捨てた者を斬る時ではない。

 我らが守るべきは、“義”と“民”と、そしてまだここに残る“誠”の心です。」

その言葉に、沈黙が広がった。

土方歳三が腕を組んだまま、何も言わずに目を閉じる。

近藤勇は深く息を吐き、静かに頷いた。

やがて、誰かがぽつりと呟いた。

「……古賀組長の言う通りだ。」

その一言が波紋のように広がり、やがて怒りは鎮まっていった。

夜。

屯所の庭に立つ古賀の耳に、かすかな風が通り抜けた。

ふと空を仰ぐと、雲間から月がのぞいている。

――行ってしまいましたね、伊東先生。

胸の奥でそう呟きながら、古賀は静かに目を閉じた。

あの時、御陵衛士へと向かった者たちの背に映った光と影。

それは決して裏切りではなく、

それぞれの“誠”が選んだ、もう一つの道なのだと――

古賀は、誰よりも深く理解していた。

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