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尊王攘夷

談話室に射し込む冬の光は淡く、障子を透かして薄金色に揺れていた。

古賀は深く息を吐き、静かに瞑想を終える。瞼を開けば、冷たい空気の中にもどこか凛とした清澄さが宿る。耳に届くのは、外庭から響く隊士たちの声――「一! 二!」と気合と共に木刀を振り下ろす音。新選組の日常は、変わらぬ鍛錬と規律に彩られている。

しかし古賀の胸奥には、先ほどの瞑想の中で垣間見た幻影がまだ残っていた。

光に溶けて消えていった「もうひとりの自分」。その別れ際に口にした言葉が、静かに甦る。

――最後の戦いに臨む、か。

呟くように心の内で反芻し、古賀は唇を結ぶ。決して未来を語ることはできぬ。だが、その言葉が己の胸に刻んだ重みを消すこともできない。

ただの夢だと切り捨てることもできる。だが夢は時に、己の進むべき道を示す。

「……いや、今は考える時ではない」

古賀は小さく首を振った。己に言い聞かせるように、静かに呼吸を整える。

まもなく、対峙すべき人物が現れる。己が未来を憂うよりも先に、当座の課題と向き合わねばならぬ。

その刹那。

「いやはや、お待たせして申し訳ない」

談話室の襖が静かに開き、朗らかな声が響いた。

そこに現れたのは――伊東甲子太郎。

冬の冷気を払いながら入室してきたその姿は、どこか柔和な笑みを浮かべていたが、同時に眼差しには鋭い光を宿していた。

理と文を武器に世を動かさんとする男。その到来が、この慶応二年の年末において、新選組の行く末を揺さぶる因子となることを、古賀は知っていた。

浅葱色の羽織の胸を正し、古賀はゆるやかに立ち上がった。

――ここからまた、新たな試練が始まる。

古賀の背には、静かなる決意が確かに灯っていた。

冬の談話室には、炭火の匂いと障子越しの淡い光が静かに漂っていた。

畳に正座して向き合う古賀と伊東甲子太郎。外の稽古場からはまだ隊士たちの掛け声が聞こえていたが、この一室は別世界のように静まり返っていた。

やがて伊東が、緩やかに口を開く。

「さて、古賀殿。お呼び立ていただいたのは他でもない、何か拙者に御用か?」

その声音は柔らかだが、瞳には理を問う者の鋭さがあった。

古賀は一瞬呼吸を整え、深く頭を下げる。

「はい……。此度お呼びしましたのは、伊東先生と問答を重ねたく思ったからにございます。まったくもって私の我儘であり、ご迷惑をお掛けしたのなら心よりお詫び申し上げます」

その声音には誠実さと緊張が滲んでいた。

しかし、伊東はすぐさま微笑を浮かべ、軽く手を上げた。

「どうか、頭をお上げください。古賀殿。むしろ、こちらこそ光栄に存じます。拙者も、いずれ貴殿とは腰を据えて語り合いたいと、折に触れて思っていたところでしたゆえ。こうして面と向かって話せるのは、歓迎すべきことです」

伊東の声音は静かでありながら、その言葉の裏には確かな熱があった。

剣よりも理で世を動かさんとする男。その熱が、談話室の空気をじわりと変えてゆく。

古賀は姿勢を正し、目を上げた。

――この対話が、やがて新選組を左右する分岐点となる。

その予感が、胸奥で微かに燃えていた。

炭火の赤がぱちりと弾け、淡い光が二人の顔を揺らす。

古賀隼斗は正座を崩さぬまま、静かに息を整えた。障子の外ではまだ隊士たちの掛け声が木霊しているが、この談話室だけは別世界のように張り詰めていた。

やがて古賀は、真っ直ぐに伊東甲子太郎の瞳を射抜くように見据え、低く、しかし明瞭な声で問いを放った。

「――伊東先生。率直にお尋ねいたします。先生は、この新選組を、いかにお思いか」

その言葉は決して攻める響きではなかった。むしろ、自らの胸の奥にある迷いや信念を確かめるような、静かな切っ先。

火の粉が小さく舞い、空気がさらに重く沈む。

伊東甲子太郎は一瞬だけ眉を動かし、薄い笑みを浮かべた。

その笑みは皮肉ではなく、まるで長らく温めてきた言葉を呼び起こすかのような、深い余裕に満ちていた。

「……良い問いでございますな、古賀殿」

伊東は背筋を伸ばし、膝に置いた手を軽く握る。

その眼差しは炭火の揺らめきを映しながら、静かに熱を帯びていった。

――これから語られるのは、伊東の胸奥に秘められた「新選組観」。

理想と現実の狭間で、新選組をどう捉え、どう導こうとしているのか。

古賀はその答えを待ちながら、己の鼓動がわずかに速くなるのを感じていた。

この問いに対する伊東の言葉が、新選組の未来を左右する――そんな予感があった。

炭火の明滅に、伊東の横顔が浮かんでは沈む。

しばしの沈黙ののち、彼は静かに口を開いた。

「新選組……それは誠を旗に掲げ、京の治安を守りし精鋭。

 剛毅果断にして、武士の矜持を示す場。

 だが同時に――その実は、幕府という大樹の影に縛られた鳥籠でもあります」

伊東の声は落ち着いていたが、言葉の一つひとつが炭火よりも熱を孕んでいた。

「彼らの剣は確かに鋭い。しかし、その剣が誰のために振るわれているかと問えば、必ずしも京の民ばかりではない。

 幕府の命に従い、時に理なき血を流し、志士を斬り捨てる。

 その姿を見た時、私は思うのです――このままでは新選組はただの人斬り集団と化す、と」

古賀の眉が僅かに動いた。だが否定も反論もせず、ただ真っ直ぐに聞き続ける。

伊東はその様子を見やり、さらに声を深めた。

「されど……私は彼らを蔑むことはできません。

 剣に生き、己を捨てて尚も仲間を護らんとする、その心根は紛れもなく侍のもの。

 ゆえに私は願うのです――この新選組が、ただ幕府の犬として死に絶えるのではなく、真に天下のために剣を振るう存在となることを」

言葉を結ぶと、伊東は視線を天井に上げ、息を吐いた。

炭火の赤が、彼の眼に揺らめきながら映り込む。

「私は新選組を愛している。だが同時に、変革せねばならぬとも思う。

 それが、私の偽らざる思いです」

伊東の瞳には、理想を追い求める者の光が宿っていた。

古賀はその言葉を胸に受け止め、深く呼吸を整える。

――この男は敵か、味方か。

いや、そうした二分では測れぬ存在なのだ。

新選組を変えんとするその思想が、やがて血を呼ぶのか、あるいは未来を開くのか。

古賀は、ただその答えを求めるように、炭火を見つめ続けた。

炭火のはぜる音が、ふたりの間に静かに落ちた。

古賀はしばし思案したのち、低く問いを放った。

「――では、伊東先生。

 あなたは新選組をどのように変革なさるおつもりなのですか?」

その言葉に、伊東甲子太郎はゆるやかに目を閉じ、一拍置いてから開いた。

瞳には烈々とした光が宿り、語り口は理路整然としていた。

「変革……それは一つしかありますまい。

 我らが剣をもはや幕府のみに捧げるのではなく、天子――すなわち朝廷のために振るうことです」

古賀は息を呑んだ。

伊東は続ける。

「思い出してください、古賀殿。

 幕府は三百年、確かに世を保ってきました。だがその力はすでに衰え、政の大義を失いつつある。

 人々が求めるは新しき秩序、そして真の正統――それは朝廷にこそ宿る。

 もし新選組がなお誠を標榜するならば、幕府に縛られず、天子の御名のもとに剣を執るべきなのです。

 それこそが、この動乱の世を収める唯一の道。私はそう信じています」

伊東の言葉は決して声高ではなかった。

だがその響きは、夜気を震わせるほどの確信に満ちていた。

古賀は黙して炭火を見つめた。

ぱちり、と弾ける火の粉が、彼の瞳に小さな光を落とす。

――幕府のためではなく、朝廷のために。

それは新選組の根本を揺るがす提案であった。

だが、伊東の瞳に浮かぶ理想の炎を見たとき、古賀はその熱を否定することもできず、ただ静かに受け止めるしかなかった。

炭火がぱちりと弾け、薄暗い談話室の空気に一瞬の火の粉を散らした。

古賀はその光をじっと見つめ、やがて視線を伊東に移す。

問いは静かだが、刃のように鋭かった。

「――では伊東先生。

 あなたは、幕府、ひいては会津藩お抱えの今の新選組に……不満を持たれていると、そう解してよろしいのでしょうか」

伊東は微かに笑みを浮かべた。だがそれは愉快の色ではなく、寂寞を帯びた笑みであった。

ゆっくりと背筋を正し、両手を膝に置くと、その瞳に烈しい光を宿す。

「不満――そう申されれば、確かにそうかもしれません。

 近藤局長も、土方副長も、己が誠を信じて疑わず、その剣を幕府のために振るっている。

 その心根を私は尊びます。だが……」

伊東は小さく息を吐き、言葉を区切った。

「だが、それだけでは時代を渡れぬのです。

 幕府は既に威信を失い、会津藩もまた、その重荷を背負って沈もうとしている。

 その下に新選組がある限り、我らは共に沈むしかない。

 私は新選組を沈ませたくはないのです」

炭火がまた、ぱちりと弾けた。

その音が伊東の言葉を刻むように響く。

「もし、この剣が朝廷のために捧げられるならば……新選組は動乱の闇を裂く光となれる。

 その可能性を、私は捨てきれぬのです」

薄暗い談話室の空気が、二人の言葉によってさらに濃く沈み込むようだった。煤けた壁に映る影が互いの輪郭を長く伸ばし、炭火の赤がじりじりと時間を焦がしていた。

伊東甲子太郎は、差し出した手をそのまま静かに留めた。期待に満ちた瞳が、古賀の一挙手一投足を追っている。やがて、口元に浮かんだわずかな笑みは、真剣さと安堵が入り混じったものだった。

「古賀殿……共に、あの新選組を時代に応じた器へと変えんではないか。剣だけではなく、理をもって国を動かす。そうすれば、お主の掲げる――民を守るという理想も、より確かな形で現実となるはずだ。」

伊東の言葉には、熱と論理が同居していた。彼は目の前の若者を救国の伴侶と見定め、真剣にその手を差し伸べている。だが古賀の応答は、彼の差し出した掌を取らぬことだった。

古賀はゆっくりと息を吐き、部屋の隅に置かれた掛け軸の陰で揺れる煤竹の揺らぎを見つめる。その表情は穏やかだが、その眼差しは氷のように澄んでいた。やがて、静かに言葉を紡ぐ。

「伊東先生……私は、先生の志を否定いたしません。理があるなら、理を以って説くことは尊い。私も、理で人の心を動かす力を軽んじてはおりません。」

言いながら古賀は、手を胸元にあてる。指先が浅葱色の袴に触れるその所作に、決意の重みが宿る。

「しかし私が守りたいものは――幕府がこの国の根幹として築いた秩序、その上で暮らす民です。幕府は完全無欠ではない。腐敗もあるでしょう。だが、戦乱の世を終わらせ、長きに亘る平穏をもたらしたのもまた事実なのです。私は、もし欧米列強がこの国を脅かすならば、幕府の尖兵として、会津の盾として、この浅葱の袖で人々を守る覚悟を持っています。幕府に殉じるのではなく、民に殉じるために──私はその道を選びます。」

古賀の声には揺るぎがなかった。だがそこに怒気はない。むしろ温度は低く、確固たる光を放つ像のようである。彼は己の信念を、伊東に誤解なく伝えようと努めていた。

伊東は一瞬、瞳を細めた。差し出した手が小さく震えるように見えたが、古賀にはそれが不満なのか、あるいは別の、もっと複雑な感情のせいなのか測りかねた。沈黙が数拍、室内を満たす。

やがて伊東は、静かに口を開く。声は低く、だがどこか爽やかな諦観を含んでいた。

「ふむ……なるほどな、古賀殿。お主の言葉、聞いた。お主は我らの掲げる“理”を完全に受け入れる者ではない。だが、それをもって我が道を否定する者でもないようだ。私としては残念だ。しかし、残念であると同時に、少し安堵もしているのだ。お主がここに立つこと自体が、新選組の中に多様な選択が存在し得る証左だからな。」

伊東は軽く肩をすくめ、そして顔を上げた。瞳の奥に、かすかな炎が灯る。

「私は朝廷の名を以て新しい秩序を構想する。だが、お主のように現状を守りつつ、民を護りたいという思いがあることも、また一つの真実だ。ならば――互いの考えは異なれど、我らは互いに学びあうべきだろう。時は必ずお主の思うところを問うだろう。私はその日まで策を練り、貴公は貴公の剣を磨け。そして――いざという時、お主が掲げる“民”を守る為に、剣を振るうならば、私はその覚悟を見届けよう。」

伊東の口許に、かすかな笑みが戻る。差し出した掌は閉じられ、もはや古賀の手を求めることはなかった。しかし彼の瞳は、敵意でも軽蔑でもなく、むしろ確かな敬意と策士の閃きをたたえていた。

古賀は深く頭を下げる。言葉は短い。

「承知しました、伊東先生。貴方の理には敬意を表します。私は私の方法で、この国と民と仲間を守ります。」

二人の間に交わされたのは、完全な同意ではない。だが冷徹な誠実さと、互いの信念を尊重する一種の盟約であった。談話室の炭火が、いつの間にか赤みを帯びて消えかけている。外では遠く、夜鶯の声がひとつ、ふたつと鳴いた。

伊東はゆっくりと立ち上がり、古賀を見渡す。そして、ふと呟くように言った。

「……では、次はお主の“行動”を見せてもらおうか。言葉はいつでも変わり得る。しかし行動は、そう易々とは騙せぬからな。」

その言葉に古賀は僅かに頷く。室内を満たす空気は、静かな決意で満ちていた。二人はいま、それぞれの方法で新選組という巨きな器を鍛えようとしている。表向きには同じ旗を掲げながらも、進む路はいつか分岐するかもしれない──その兆しを、二人だけは互いに知っていた。

やがて伊東は振り向き、闇に溶けていく。古賀はその背を見送った後、拳を固めて天井を仰いだ。胸の中には静かな硝煙の匂いが残り、遠くで誰かが夜襲の訓練をしているのが聞こえた。外套の浅葱色が、月明かりの中でふっと浮かび上がる。

古賀は唇をかみしめ、再び己が道を確認した。 「民を守るために。仲間を守るために。たとえ道が分かれようとも、私はここに居続ける。」

その誓いは、談話室の壁に静かに刻まれるようだった。

談話室には、まだ伊東甲子太郎が去った余韻が漂っていた。

その反対側の襖が静かに開き、土方歳三と斎藤一が現れる。闇を切り裂く二つの影は、まるで試すかのように古賀を見据えた。

土方は腕を組み、無駄のない足取りで中へ進む。その面差しには険しさはなく、ただ冷徹な光が宿っている。

「……古賀。お前が俺たちに聞かせたかったのは、さっきの問答か?」

古賀は背筋を正し、一礼した。

「はい。伊東先生の志と、我らの歩む道。その間に乖離があることを、どうしてもお二人にお伝えしておきたかったのです。」

その声は落ち着いていながら、胸の奥には緊張が潜んでいる。

斎藤一は目を伏せ、低く吐息を漏らした。

「……あの方の理屈は、俺の胸にも響いた。剣ではなく理で世を動かす――それもまた真実だろう。」

その言葉に、土方の眼光が揺れる。

「伊東は……悪くねえ。頭の切れる人物だ。俺はあいつを買っている。新選組が先を生きるために、ああいう理屈を持つ者も必要だ。」

口調は淡々としていたが、その裏には確かな敬意が感じられた。

斎藤もまた頷いた。

「俺も同じです。伊東殿の言葉には理があった。……だが。」

彼は古賀を見やり、沈黙をひとつ挟んでから続けた。

「古賀殿の言うこともまた、正しい。志の乖離はやがて火種になる。その火が燃え広がれば、仲間同士が斬り結ぶことになるかもしれん。」

土方は炉の火を睨み、長い沈黙に沈んだ。

その瞳には迷いが映っていた。

「伊東の才は確かだ。だが……古賀、お前の言葉もまた、俺を揺らす。理か、忠か。どちらが新選組を救うか……俺にも分からねえ。」

古賀は静かに応えた。

「局長、副長、そして皆がどう選ばれようとも、私はひとつの想いを貫きます。――仲間同士の殺し合いを、是が非でも避ける。それが、私の望みです。」

その言葉に、土方の瞳が一瞬だけ柔らいだ。斎藤は深く息を吐き、どこか苦しげに天井を仰ぐ。

三人の間に訪れた沈黙は重く、しかし確かな絆をも孕んでいた。

それぞれの胸にあるのは異なる答えだった。だが、その答えを求めて悩み続ける姿こそが、彼らを同じ新選組の一員として結びつけていた。

――理か、忠か。

その岐路に立つ新選組の未来を、誰もまだ見通せはしなかった。

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