鉄砲隊総長、山南敬助
元治二年三月一日。
冬の寒気がようやく和らぎ始めた京の街に、古賀隼斗の姿があった。
行き先は、療養中の沖田総司のもと――ただそれだけの道程に過ぎぬはずだった。
だが、古賀の周囲には三つの影が寄り添っていた。
山南敬助、斎藤一、そして久坂玄瑞。
「ただの見舞いですよ...貴方たちまでついて来なくてもわ」
古賀は小さく嘆息し、苦笑を洩らす。
しかし山南敬助は、その静かな眼差しを逸らさずに言った。
「隼斗君、君は今や幕府に仇する者たちにとって最大の障壁だ。君ひとり倒れれば、新選組は大きく揺らぐ」
その言葉に斎藤一が頷く。
「……概ね同意だ。刀も銃も揃え、組織も整えた。だが柱が折れれば、屋台骨はあっけなく崩れる」
二人の言葉には、気負いではなく現実を直視した重みがあった。
古賀は返す言葉を見つけられず、ただ口をつぐむ。
その隣で、久坂玄瑞が串団子を頬張りながら、呑気に肩を竦めた。
「ま、二人の言うことももっともじゃな。隼斗、お主が倒れたら儂は困るぞ。容保公の前での頼みごとも、もはや出来んからな」
その言い草は軽い。だが、その軽さに込められた信頼と、深い覚悟を古賀は知っていた。
久坂は、かつて倒幕を志しながらも、その最後の一線を越えずにここに在る。
療養所の門をくぐると、春の風がほのかに薬草の匂いを運んできた。古賀が一歩踏み入れると、畳の上には沖田総司が静かに横たわっていた。頬にうっすらと血色が戻り、瞳にもかすかな光が宿っている。まだ咳は残るものの、かつての儚い影は薄れつつあった。
「古賀さん……!」
沖田は声を張ることはできなかったが、その微笑みは鮮やかだった。古賀の後ろに控えていた山南敬助と斎藤一の姿を認めると、驚きと喜びに目を見開く。
「山南さん、斎藤さんまで……本当に……ありがたい」
老医と古賀は顔を見合わせ、小さく頷いた。
「短い時間ならば面会も許せましょう」
「はい……仲間に会えることが、なによりの薬になります」
二人の見解は一致していた。
やがて室内は温かな談笑に包まれる。沖田は弱々しいながらも冗談を交え、山南の穏やかな声と斎藤の落ち着いた言葉に、次第に笑顔を取り戻していく。
――その時、庭先から明るい笑い声が響いた。
障子を少し開けると、そこには褐色の肌を持つ一人の女性が、子どもたちと遊ぶ姿があった。地味な紺の着物を纏っているが、その面差しには凛とした美しさが漂う。かつて長州の志士として名を馳せた女傑、久坂玄瑞であった。
団子を手に子どもに追いかけられ、笑いながら庭を駆け回る姿は、戦の志士ではなく、一人の快活な若き女性そのものだった。
沖田の目が大きく見開かれた。
「あの方は……?」
山南が静かに応える。
「……かつて長州藩に身を置いた志士、久坂玄瑞殿です」
「な、長州の……!」
沖田の胸が大きく上下し、かすかな咳が漏れる。
病身の彼にとって、その名は驚愕にほかならなかった。
すぐさま斎藤が低い声で制した。
「総司、落ち着け。久坂殿は今や我らの敵ではない。古賀が共に歩み、容保公もまたその心根を認められた。信じてよい」
沖田の視線が揺れる。その先にいる古賀は、静かに頷いた。
――信じてくれ。
言葉なき言葉が、仲間の心に届く。
沖田は長い吐息を漏らした。
「……そう、ですか。ならば……私も信じましょう」
彼の表情に安堵の影が浮かぶと、再び室内には柔らかな空気が流れた。
障子の向こうでは、久坂が子どもに肩を叩かれながら大げさに倒れ込み、子どもたちの笑い声が弾けている。
その笑顔は、血に濡れた幕末を知る者とは思えぬほどに、無垢で明るかった。
古賀はその光景を胸に刻み込む。
敵であった者と味方であった者が、こうして同じ時を過ごしている――。
それは、彼が未来を語らずとも為そうとする「変革」の一つの形であった。
その在り様は、古賀にとって心強くもあり、同時に危うさを孕むものでもあった。
四人は並んで京の市中を進む。
通りを行き交う人々は、ただの日常を生きている。だが、その日常の裏で、確実に幕末の激流は加速していた。
古賀は心中で静かに思う。
――自分が歩む一歩一歩が、確かに歴史を変えつつある。
だが、その道を共に歩む者たちがいる限り、自分は倒れてはならない。
京の空は薄曇り、早春の光をかすかに透かしていた。
やがて彼らは療養所の門へと辿り着く。
療養所の門をくぐると、春の風がほのかに薬草の匂いを運んできた。古賀が一歩踏み入れると、畳の上には沖田総司が静かに横たわっていた。頬にうっすらと血色が戻り、瞳にもかすかな光が宿っている。まだ咳は残るものの、かつての儚い影は薄れつつあった。
「古賀さん……!」
沖田は声を張ることはできなかったが、その微笑みは鮮やかだった。古賀の後ろに控えていた山南敬助と斎藤一の姿を認めると、驚きと喜びに目を見開く。
「山南さん、斎藤さんまで……本当に……ありがたい」
老医と古賀は顔を見合わせ、小さく頷いた。
「短い時間ならば面会も許せましょう」
「はい……仲間に会えることが、なによりの薬になります」
二人の見解は一致していた。
やがて室内は温かな談笑に包まれる。沖田は弱々しいながらも冗談を交え、山南の穏やかな声と斎藤の落ち着いた言葉に、次第に笑顔を取り戻していく。
――その時、庭先から明るい笑い声が響いた。
障子を少し開けると、そこには褐色の肌を持つ一人の女性が、子どもたちと遊ぶ姿があった。地味な紺の着物を纏っているが、その面差しには凛とした美しさが漂う。かつて長州の志士として名を馳せた女傑、久坂玄瑞であった。
団子を手に子どもに追いかけられ、笑いながら庭を駆け回る姿は、戦の志士ではなく、一人の快活な若き女性そのものだった。
沖田の目が大きく見開かれた。
「あの方は……?」
山南が静かに応える。
「……かつて長州藩に身を置いた志士、久坂玄瑞殿です」
「な、長州の……!」
沖田の胸が大きく上下し、かすかな咳が漏れる。
病身の彼にとって、その名は驚愕にほかならなかった。
すぐさま斎藤が低い声で制した。
「総司、落ち着け。久坂殿は今や我らの敵ではない。古賀が共に歩み、容保公もまたその心根を認められた。信じてよい」
沖田の視線が揺れる。その先にいる古賀は、静かに頷いた。
――信じてくれ。
言葉なき言葉が、仲間の心に届く。
沖田は長い吐息を漏らした。
「……そう、ですか。ならば……私も信じましょう」
彼の表情に安堵の影が浮かぶと、再び室内には柔らかな空気が流れた。
障子の向こうでは、久坂が子どもに肩を叩かれながら大げさに倒れ込み、子どもたちの笑い声が弾けている。
その笑顔は、血に濡れた幕末を知る者とは思えぬほどに、無垢で明るかった。
古賀はその光景を胸に刻み込む。
敵であった者と味方であった者が、こうして同じ時を過ごしている――。
それは、彼が未来を語らずとも為そうとする「変革」の一つの形であった。
障子が開かれ、庭から室内へと入ってきた久坂玄瑞。
子どもたちの笑顔に見送られ、褐色の肌を陽光に照らしながら静かに歩み寄る。その姿に沖田総司は思わず体を起こそうとするが、咳がこみあげ、山南に肩を支えられる。
久坂は膝をつき、深々と頭を垂れた。
「……新選組一番隊組長、沖田総司殿。長州の者、久坂玄瑞にございます」
その言葉に、沖田の瞳が鋭く光る。
「……名は、聞いております。かつて……京を乱し、多くの血を流したお方と」
久坂はその冷ややかな視線を真っ向から受け止めた。
「否定はいたしませぬ。私の志が、多くの者を巻き込み、結果として民草を苦しめた。それは、私の咎です」
沖田の呼吸が乱れる。病のせいだけではなかった。
かつて剣を抜き、命を懸けて戦った者が、今目の前で頭を下げている。信じ難い光景だった。
斎藤が低く言う。
「総司。耳を貸してみろ。彼女は、もう我らの敵ではない」
久坂は静かに顔を上げ、沖田を真っ直ぐに見つめる。
「私は……隼斗と共にあります。新選組の志を踏みにじるつもりは決してない。容保公の御前においても誓いました。私はもはや、力での倒幕を望む者ではございません」
沖田はしばらく沈黙した。
その間、室内には彼の荒い息づかいと、外から聞こえる子どもたちの笑い声だけが響いていた。
やがて、沖田の瞳から鋭さが和らぐ。
「……不思議なものですね。かつての敵が、こうして……仲間のように言葉を交わしている」
久坂の口元に、安堵の笑みが浮かぶ。
「ええ、不思議な縁にございます。しかし……これがこの国を救う縁であると、私は信じております」
沖田はしばし彼女の姿を見つめ、やがてふっと小さく笑った。
「古賀さんが信じるのなら……私も信じましょう。あなたのその言葉を」
その瞬間、病床の空気がふわりと和らぎ、山南と斎藤の表情にも安堵が広がった。
古賀は黙って二人を見つめながら、胸の奥で拳を握る。
――敵であったはずの者と、こうして心を通わせることができるのなら。
血に染まった史実を変える道も、きっとある。
障子の外には、春の風が吹き抜け、庭の若草を揺らしていた。
その風は、沖田の咳を優しく包み込み、久坂の誓いを遠くへと運んでいくかのようだった。
久坂玄瑞は、真面目に言葉を重ねていた表情をふと和らげ、唇に微笑を浮かべた。
「なぁ、沖田殿。いつまでも堅苦しい顔をしていては、病の方が勝ってしまうぞ。……隼斗がな、よく申すのだ。『玄瑞は真面目すぎると皺が寄るぞ』とな」
その声には、普段古賀と過ごしている時の朗らかな調子がにじみ出ていた。
総司は驚いたように瞬きを繰り返し、やがて困惑した顔のまま笑みを零した。
「……久坂殿、いや……玄瑞殿。あなたが古賀殿を『隼斗』と呼ぶのを聞くと、不思議と胸が軽くなる。やっと腹の底が見えた気がいたします」
玄瑞は照れ隠しのように肩を竦め、朗らかに笑った。
「そうか? ならば隼斗にも感謝せねばなるまいな」
そう言って、ちらりと古賀へと視線を送る。その瞳は柔らかく、誇らしげであった。
沖田はその二人のやりとりを見て、久方ぶりに心の奥底から笑い声を上げた。
「私は……先ほどまでの久坂殿より、今の久坂殿の方が好きです。飾らず、隼斗殿と共にある、素顔のままの久坂殿が」
玄瑞は一瞬だけ頬を赤らめたが、すぐににこりと笑い返す。
「おやおや、そんなことを申せば、隼斗が妬いてしまうぞ!」
古賀は慌てて咳払いをし、顔を逸らす。
斎藤は目を伏せて笑みを隠し、山南は「まったく、仲が良いことで」と小さく苦笑した。
病の空気が晴れ渡るように、療養所には笑い声が満ちていった。
春の風が障子を揺らし、玄瑞の明るい声と沖田の笑い声を柔らかく運び、隼斗の胸には確かな温もりが刻まれていた。
療養所の奥、薄暗い控えの間。
障子越しに差し込む光が淡く畳を照らし、外では子どもたちの遊ぶ声が微かに響いていた。老医は深く眉を寄せ、古賀に向き直る。
「……病状はたしかに快方に向かっております。だが、かつてのように戦場を駆け抜け、剣を振るうまでの回復となるか……それは、私には断言できませぬ」
古賀は黙ってその言葉を受け止めていた。沈黙の後、ゆっくりと微笑が浮かぶ。
「それで、十分です」
老医の眼差しが驚きと疑念を帯びる。その視線を真正面から受けながら、古賀は静かに続けた。
「沖田さんが、生きている。その事実に勝るものなどございません。命が灯り続けている限り、その存在そのものが、私たち新選組の心を奮い立たせてくれるのです」
言葉は抑えているのに、胸奥に秘めた熱が滲み出るようだった。
「私はそのために、一番隊をお預かりしました。沖田さんが生きてくださるなら、その剣を握られずとも、一番隊の魂は決して揺るぎません。むしろ、この命に代えてでも、その魂を守り抜く覚悟がございます」
老医は古賀の顔をしばし見つめ、やがて深く頷いた。
「……若いのに、ずいぶんと重いものを背負っておるな」
古賀は小さく笑みを浮かべる。
「背負わせていただいたのです。沖田さんが命を繋いでくださっているからこそ、私もまた生きる意味を見いだせるのです」
外からは久坂玄瑞の明るい笑い声が風に乗って届く。
古賀はその声を耳にしながら、決意を胸に深く刻んだ。
――沖田総司の命が続く限り、新選組は折れぬ。
その確信が、彼の瞳に静かな光を宿していた。
西本願寺の境内に、乾いた銃声が幾度も響き渡る。
新設された鉄砲隊の鍛錬所では、隊士たちが一糸乱れぬ列を組み、号令に従いスナイドル銃を構える。火薬の匂いが濃く立ち込め、白い硝煙が空気を震わせるたび、歴史の流れが変わりつつあることを誰もが実感していた。
その光景を見守る古賀の隣には、山南敬助と山本覚馬。
古賀は思わず口を開いた。
「……見事なものですな。以前の新選組では到底想像もできなかった光景。流石は山南さん、そして山本さんです」
山南敬助は柔らかな笑みを浮かべ、控えめに首を振る。
「私は皆の心をまとめているだけに過ぎません。理と技を与えているのは覚馬殿です」
「いやいや、山南さんが居なければ隊列の心は整わぬ。戦の前に心を導くこと、それもまた大義です」
山本覚馬は即座に返し、力強い声で笑った。その眼差しは、銃を構える若い隊士の一人ひとりに注がれ、指導者の誇りを滲ませていた。
二人のやり取りを聞きながら、古賀はふと目を伏せる。
――山南さん……。
かつて史において、山南敬助は仲間の手により短い命を閉じた。規律と理念の狭間に追い詰められ、無念の切腹を遂げた男。
だが、それは断じて繰り返させはしない。
古賀が鉄砲隊の組織を強く推し、山南敬助を総長に据えたのには、明確な理由があった。剣の道ではなく、知と統率をもって新選組に尽くさせることで、あの悲劇を避けるために。
――この人は、生きねばならぬ。
――仲間を導く者として、そして私の大切な同志として。
「互いに互いのおかげと申されますが……」
古賀は二人を見回し、静かに言葉を継いだ。
「お二人が共にいてくださるからこそ、この鉄砲隊は未来を担えるのでしょう。……新選組が敗者とならぬために」
硝煙の向こうで、汗を流しながら必死に銃を構える隊士たちの姿。
その背を見つめながら、古賀は静かに心の奥で誓った。
――仲間同士の殺し合いは、絶対にさせない。
――新選組は、必ず勝者の道を歩むのだ。
銃声が再び夜空に響くたび、古賀のその決意はさらに揺るぎないものへと変わっていった。