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会津の義と長州の義

広間に静寂が満ちる。松平容保公は、古賀の言葉を受け止めたまま、深く眼を細めた。

「……何故に、久坂玄瑞を我が傍に置くべしと申すのか。隼斗、そなたの胸の内を聞かせよ」


古賀は膝を正し、畳に深々と手をついて頭を下げた。

やがて顔を上げ、真っ直ぐに容保を見据える。その瞳には揺るぎのない信念が宿っていた。


「――玄瑞殿は長州の志士にてありながら、最後の最後まで力による倒幕を拒み続けられました。剣を振るうよりも民を護らんとし、時に己が身を呈して幼子の盾とならんとした。その姿は、まさしく誠の侍に他なりませぬ」


言葉は静かだが、一つ一つが重く響く。

「有事の際、殿の傍らにこの玄瑞殿があれば、必ずや殿のお心を正しき道へ導きましょう。利を超え、大義を超え、ただ民を護るために身を投じられる御方――それが玄瑞殿にございます。殿の御側近としてこれ以上の人材はおりませぬ」


容保公は微動だにせず、ただ黙して古賀を見つめた。

障子越しに射し込む光が、褐色の肌を持つ玄瑞を照らし出し、その黄金の瞳にきらめきを宿す。


――まるでその姿が、自らの言葉を裏打ちしているかのように。


容保公の唇がわずかに動いた。

「……誠の侍、か」


声は低く掠れていたが、その響きには確かな余韻があった。


古賀は深く頭を垂れ、胸の内で静かに誓った。

――必ず、この人を、そして会津を護り抜いてみせる、と。


広間に張りつめた空気が流れる。

古賀の言葉を受け、松平容保公は静かに眼を閉じた。沈黙が長く続き、まるで時すら止まったかのようだった。


やがて容保公は、ゆっくりと眼を開いた。その瞳には迷いの影が消え、揺るぎなき覚悟が宿っていた。


「……隼斗。そなたの申すこと、しかと胸に響いた。玄瑞殿は長州の志士なれど、その志は血気のみにあらず。力を棄て、民を護らんとするその姿勢は、まさしく会津が拠り所とする『誠』に通ずるもの。ならば――」


容保公は視線を玄瑞へと移した。

「玄瑞殿、今より有事の折は、余の傍らにあってその志を尽くしてもらいたい」


その言葉に、久坂玄瑞は驚いたように目を見開いた。黄金の瞳が揺れ、やがて深く息を吐き、膝を正して容保公に向かい直る。


「……畏まりました。儂は長州の生まれなれど、今は隼斗と共に歩む身。誠の心を以って、決して容保公の信を裏切りませぬ」


声は凛と響き、堂内の隅々にまで染みわたった。


古賀はその光景を見つめ、胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じていた。

――これで一歩、未来が変わる。

――久坂玄瑞が殿の傍に在れば、あの日の絶望を防ぐ一助となる。


容保公はゆるやかに頷き、静かに言葉を締めくくった。

「承知した。これより玄瑞殿を我が側近として遇す。……隼斗、よくぞ進言してくれた」


その瞬間、古賀は深く頭を垂れた。

額が畳に触れるほどに。


胸の奥でただ一つの誓いが響いていた。

――この決断を、決して無駄にはしない。

――会津も、新選組も、そしてこの国も護り抜く。


静かな広間に、決意の鼓動だけが高らかに鳴り響いていた。


夕刻。

障子越しに差し込む光は朱を帯び、広間は柔らかな影に包まれていた。

古賀が席を外し、そこに残ったのは――松平容保公と久坂玄瑞、二人のみ。


静けさが広がる。外では虫の声がかすかに響くが、室内には重い沈黙が満ちていた。


容保公はしばし玄瑞を見つめていた。黄金の瞳は褐色の肌に映え、ただ立っているだけで異様なほどの存在感を放つ。

やがて容保公は口を開いた。


「……玄瑞。余は会津の藩主にして、幕府の守護を担う立場。そなたが長州に生まれた志士であること、知らぬはずもない。それでも隼斗の進言を受け入れ、そなたを側近としたのは――ただ一つ、そなたの心に『誠』を見たからだ」


玄瑞は瞼を伏せ、ゆるりと頭を下げた。

「ありがたきお言葉。……されど容保公、儂は未だ長州の者にとっては裏切り者にございます。かつては共に志を掲げた同胞に背を向け、今は新選組に身を置く。いずれは、その咎で命を狙われましょう」


容保公は静かに笑った。

「命を賭しても守るべきものがあると、余は知っている。……そなたが幼子を庇い、剣を執らずとも己の身を盾としたと聞いた時、余は胸を打たれた。武に生きる者よりも、はるかに強い志をそこに見た」


玄瑞は顔を上げ、その黄金の瞳で容保公を正面から見据えた。

瞳は揺れていた――誇りと、迷いと、決意とが複雑に絡み合う光。


「……容保公。儂は隼斗に救われました。あの者の剣に、命を奪われるのではなく、命を繋がれた。新選組に対する誤解は、その時に消えました。儂がこの身をここに置くのは、ただ隼斗が示した道を信じるがゆえ。……容保公の『誠』と隼斗の『理想』、その二つに殉ずる覚悟を持つゆえにございます」


言葉は震えてはいなかった。

むしろ凛と澄み渡り、部屋の隅々まで届いた。


容保公はしばし無言で玄瑞を見つめ、やがて深く頷いた。

「よい。ならば余もまた、そなたを信じよう。長州の血を引こうとも、今のそなたは会津に誠を尽くす者。その志、必ずや余の力となろう」


玄瑞はその言葉に目を細め、深く一礼した。

胸の奥に熱が宿る――それは裏切り者と蔑まれた己に、初めて与えられた赦しと肯定だった。


障子の外、夜の帳が下りはじめていた。

闇の向こうに待つ乱世を思えばこそ、このひと時の光は、久坂玄瑞の心に深く刻まれていくのだった。


夜の京の空には、雲間から白々と月が浮かび、涼やかな光を地上に注いでいた。

屯所の庭はしんと静まり返り、虫の音だけが季節の気配を告げている。


その静寂を破るように、障子をそっと開いて現れたのは久坂玄瑞であった。

派手な衣装ではなく、今宵は控えめな紺の和服に身を包んでいる。それでも褐色の肌と黄金の瞳は闇に映え、まるで異国の幻のように艶やかであった。


縁側に腰を下ろし、ひとり庭を見つめていた古賀隼斗は、その気配に気づいて顔を上げる。

「……玄瑞」

呼びかける声は柔らかく、だがどこか緊張を孕んでいた。


玄瑞は微笑を浮かべ、古賀の隣に腰を下ろした。畳に置かれたその仕草には、どこか重さがあり、長い対話を終えた者特有の疲労が滲んでいた。


しばし二人は並んで月を眺める。風が庭木を揺らし、葉擦れの音が響く。

やがて玄瑞が口を開いた。


「……容保公は、儂を赦してくださった」


その声音は驚くほどかすかで、しかし胸の奥に溜め込んだ感情が震えとして滲み出ていた。


「長州を裏切った者、志を捨てた者と、誰もが儂を罵る。だが容保公は違った。……あの御方は、幼子を守るために剣を執らず身を盾にした、儂の行いを『誠』と仰ったのだ」


黄金の瞳が月明かりを映し、涙のような光を帯びた。

玄瑞は拳を握り、低く震える声で続けた。


「儂は……あの時、本当に救われたのだ。これほどまでに己の選んだ道が正しかったのかと、胸を張れる言葉を頂けるとは思わなんだ。だが同時に、怖くもある。……儂は本当に、この会津の地に、隼斗の傍に居続けてよいのかと」


古賀は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。

その横顔は、戦場で幾度も死を覚悟した男の、静かな決意を宿していた。


「玄瑞。貴方は己の心を偽らなかった。民を護るために剣を抜かず、ただ身を挺した。その志こそが、容保公に伝わったのでしょう。……それを誇りとすべきです」


言葉は穏やかだが、その奥底には熱があった。

玄瑞は横目で古賀を見つめる。

黄金の瞳と茶の瞳が、月明かりの下で交わる。


「……隼斗。儂はのう、長州の志士である前に、一人の女として……お主に救われた。あの日、お主が剣を収めず、儂を斬っていたなら、儂はこの世にいなかった。容保公の赦しも、今こうしてお主の隣に座ることも、すべて失われていた。……だから儂は、己の命を賭してでも、お主と共に在ると決めたのだ」


その告白は、恋慕と誓いとをひとつに束ねたような響きだった。

古賀の胸は激しく脈打つ。だが彼はあえて感情を外に漏らさず、ただ静かに応えた。


「……玄瑞。その想い、決して無にはしません。貴方の志も、容保公の信も、そして……この国の未来も」


言葉は短い。けれど、その奥に宿る決意は揺るぎなかった。


玄瑞はそっと微笑んだ。その笑みは、誇り高き志士の顔ではなく、一人の女性としての柔らかな表情だった。


月明かりの下、二人の間にしばし沈黙が流れた。

その沈黙は気まずさではなく、互いの想いを確かめ合う、静かな安らぎに満ちていた。


やがて久坂玄瑞は、そっと身を寄せた。

黄金の瞳が近づき、茶の瞳とまっすぐに重なる。


「……隼斗。儂はお主と共に歩むと決めた。その証を、今宵、残させてくれ」


囁きのような声が風に揺れた瞬間――

玄瑞は静かに唇を重ねた。


それは熱烈でも、刹那の激情でもなかった。

ただひたすらに、永き誓いを込めた、優しい口づけ。

褐色の肌が月光に照らされ、その横顔は神秘のように美しかった。


古賀は驚き、しかし拒むことはなかった。

胸の奥で長らく閉ざしていた扉が、そっと開かれるのを感じていた。

戦乱のただ中にあるとは信じ難いほど、二人の世界だけが時を止めていた。


やがて玄瑞は唇を離すと、ふっと柔らかく笑った。

その笑顔は、妖艶さではなく、一人の女性としてのあどけなさを帯びていた。


「……これで良い。儂はもう迷わぬ」


そう言って玄瑞はすっと立ち上がった。

裾を揺らし、月明かりの下を背を向けて歩き出す。

振り返ることなく、しかしその背はどこか誇らしく、強い光を帯びていた。


縁側に残された古賀は、胸に残る温もりを両手で押さえ、ただ静かに夜空を見上げた。

月は相変わらず冴え冴えと輝き、二人の運命を見守っているかのようだった。

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