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第4章

朝の稽古場。

木床を打つ音が絶え間なく響く中で、空気は一瞬にして張り詰めた。

斎藤一と古賀隼人――二人が向かい合った瞬間、周囲の隊士たちの喉は自然と鳴りを潜めた。

ただの稽古ではない。

何かが始まろうとしている。

誰もがそう感じ取った。


斎藤は竹刀を軽く構える。

その姿勢は無駄なく、まるで一本の刃そのもののようだった。

視線は隼人を刺し貫き、言葉なくして告げる――「逃げれば斬る」と。


対する隼人は深く息を吸い、竹刀を握り直した。

昨夜までなら膝が震えていたはずだ。

だが今、掌には確かな馴染みを感じる。

医学生の冷静な観察眼と、剣豪の記憶から流れ込む太刀筋。

その両方が己を支えていた。


「始めっ!」


掛け声と同時に、床を蹴る音が重なった。


斎藤の踏み込みは雷のように速かった。

低く沈み込む構えから突きが放たれる。

刹那、竹刀の先が風を裂き、隼人の喉を狙った。


――速い!


だが身体は迷わなかった。

隼人は反射で竹刀を振り下ろし、斎藤の突きを逸らす。

衝撃が腕を痺れさせたが、同時に脳裏には「剣豪の記憶」が閃いていた。

動きの先を読む。

斎藤はここで身を捻り、刃を返す――!


予感どおり、斎藤は突きを外した流れから横薙ぎを放った。

隼人は竹刀を立て、火花のように受け止める。

激しい打ち合いが始まった。


「……!」

観衆が息を呑む。

斎藤一の剣は冷徹、無駄がなく、一撃ごとに確実に命を奪う軌跡を描く。

対する隼人の剣は未熟さを含みながらも、奇妙な冴えを持っていた。

剣豪の記憶が導く軌跡と、現代の理知的な分析が融合し、予想外の間合いと角度で応じていたのだ。


斎藤の目が細く光る。

「……なるほど」


次の瞬間、斎藤はさらに踏み込み、突きを連ねた。

鋭い連打、突き、斬り上げ、薙ぎ払い――

竹刀の音が雨のように降り注ぎ、隼人は必死に受け返す。

汗が飛び散り、木床に叩きつけられるたび、観衆は声を失った。


斎藤の突きが隼人の面をかすめた。

だが隼人は一歩も退かず、逆に踏み込み、斎藤の肩口へ竹刀を走らせた。

「ッ……!」

斎藤が竹刀を上げて受ける。

火花のような音が響き、二人の刃は交差したまま止まった。


互いの眼が、間近で交錯する。

斎藤の瞳は氷のように冷たく、しかしその奥にかすかな熱が宿っていた。


「……昨日までとは別人だな」

吐き出された言葉は、認めざるを得ない真実だった。


竹刀を下ろすと、稽古場に張りつめていた空気が一気に緩んだ。

見守っていた隊士たちがどよめき、互いに囁き合う。

「古賀が……斎藤さんと渡り合った……」

「本当に同じ奴か?」


沈黙を破ったのは沖田総司の声だった。

「やっぱり古賀さんは強い」


柔らかく微笑む沖田の言葉に、隼人の胸は熱く震えた。

昨夜の迷いは、もうそこにはなかった。

過去と未来を背負う新たな剣士――古賀隼人が、確かにその場に立っていた。


竹刀を下ろした瞬間、稽古場を包んでいた緊張がふっと解けた。

押し殺されていた空気が解放され、周囲の隊士たちは互いに囁き合いながら隼人を見つめた。

「……斎藤さんと互角に……」

「ありえん、昨日まであの有様だったのに」


沖田総司が微笑みながら声を掛ける。

「やっぱり古賀さんは強い。皆の前で証明しましたね」

その声音は優しく、どこまでも温かい。

隼人は胸の奥が熱くなり、沖田へと短く頷いた。


だが、もう一人の視線は鋭く突き刺さっていた。


斎藤一。

竹刀を脇に立てかけたまま、じっと隼人を見据えていた。

その双眸は氷のように冷たく、しかし奥には認めざるを得ぬ炎が潜んでいた。


「……古賀」

低く、重く、名が呼ばれる。

隼人は自然と背筋を伸ばした。


「今のお前は確かに強かった。俺が認める。

だが忘れるな――剣は、稽古場の遊びじゃない」


その言葉は氷刃のように鋭く、稽古場のざわめきを再び凍らせた。


「戦場で迷えば、仲間を殺す。

情に流されれば、己が死ぬ。

……そして一度折れた刃は、二度と戻らん」


冷たく突き放すような口調。

だが隼人には、それがただの叱責ではなく、真実を突きつける警告だと分かった。

斎藤は、剣士として、仲間として、あえて厳しい言葉を投げかけているのだ。


隼人は竹刀を握り締め、静かに答えた。

「……忘れません」


その瞳には、昨夜までの迷いはなかった。

斎藤はその眼差しを確かめるように見つめ、やがてわずかに口角を動かした。

笑みともつかぬ微かな動き――それが彼なりの承認だった。


沖田は柔らかく笑い、斎藤は冷徹に警告を残す。

その二人に囲まれ、古賀隼人はようやく「新選組の一員」として歩みを始めたのだった。


夜。

壬生の屯所に静寂が訪れていた。

廊下の軋む音も消え、障子越しの月光が淡い白を畳に落とす。

古賀隼人は自室にて膝を正し、両掌を膝に置いて目を閉じていた。

呼吸は深く、細く、静かに。

外の虫の声さえ遠ざかり、ただ己の鼓動だけが胸の奥で響いている。


瞼の裏に、白く揺れる影が浮かぶ。

それは浅葱の羽織を纏った仲間たち。

彼らの姿を見据えながら、隼人の胸にひとつの問いが立ち上がる。


――新選組とは何か。


思索は、波紋のように広がっていく。

京の町で人々を震え上がらせる恐怖の名。

幕府の威光を背にし、浪士を斬り伏せる剣の集団。

血と秩序を象徴する刃の群れ。


しかし、その本質は恐怖の外皮だけではなかった。

彼らは元をただせば、浪士にすぎない。

武士に憧れ、武士に成り代わりたいと願った者たち。

貧しさと孤独、血と汗の中から、己の誇りを築こうとした男たち。

新選組とは、義と欲望、忠義と野心、その相克がひとつの器に収められた矛盾の象徴ではなかったか。


呼吸をひとつ吐き、問いは次へと移る。


――彼らは何を目的にしているのか。


表向きには「京の治安を守る」。

だが真実は、幕府の延命に仕え、会津藩の威信を支えるための楯。

命じられるままに血を流し、浪士を斬り、京の秩序を保とうとする。


けれどそれだけではなかった。

土方は武士道を貫くために刃を振るい、近藤は武士に成り上がるためにその命を懸けた。

そして沖田は――あの人はただ、子どもたちの笑顔を守ろうとしている。

目的は一つではない。

一人ひとりが異なる理想を抱きながら、それでも「新選組」という名の下に結集している。

それが、この組織の光と影であった。


隼人の呼吸がわずかに乱れた。

心の奥で最後の問いが浮かび上がる。


――では、なぜ彼らは負けたのか。


答えは知っている。

未来から来た自分だからこそ、嫌というほど理解していた。


新選組は滅びる。

幕府と共に没落し、会津と共に地獄へと沈む。

彼らが強すぎたからこそ憎悪を買い、忠義を貫いたからこそ見捨てられた。

剣の道を極めても、時代そのものが彼らを否定した。

鉄砲と権謀の前に、剣は時代遅れと断じられたのだ。


その未来を思えば、胸が焼けるように痛んだ。

祖母の声が蘇る。

「誰も会津を救ってはくれなかった」――

その悲嘆に濡れた眼差しが、今も心を貫いている。


隼人は目を開いた。

障子を透かした月明かりが静かに流れ込み、畳に銀の道を描いていた。

その光に照らされながら、己の中に生まれた声を聞く。


――もし、この運命を変えることができるのなら。


新選組は義を貫き、会津は忠を守ろうとして滅んだ。

ならば自分は何をすべきか。

医学生としての知識。

未来を知る異物としての記憶。

そして今、剣豪の太刀筋が己の中に宿った。

すべてを抱えた自分だからこそ、まだ見ぬ道を拓けるのではないか。


深く、深く息を吸い込む。

静けさの中で、心は決して揺れなかった。


月光が背を照らす。

その光の下で、古賀隼人は静かに瞼を閉じた。

瞑想はもはや思索ではない。

――それは誓いを刻む儀式となっていた。


月明かりに照らされた室内で、古賀隼人はなおも瞑想の姿勢を崩さず、胸中の思索を続けていた。

しかし、その思索はやがて冷たい計算へと変わっていった。


――今日の日付。

己の知る未来の年表を重ね合わせ、心の中で時を刻む。


池田屋事件――歴史に残された、血煙の夜。

京の動乱を決定的に深め、新選組の名を轟かせる戦い。

だがそれは同時に、彼らが決して逃れられぬ大いなる滅びの始まりでもあった。


隼人は唇を噛む。

己の頭に刻まれた暦を繋ぎ合わせ、数を数える。


――あと四か月と十八日。


未来の歴史を知る者にとって、その数は残酷な時限だった。

避けようのない血の夜が、刻一刻と近づいている。

新選組が京の町を血に染め、浪士を斬り伏せ、名を天下に知らしめる夜。

だがその名声は、彼らをより深い戦乱と憎悪の淵へと追いやる。


隼人は両の拳を膝の上で固く握りしめた。

四か月と十八日。

この限られた刻の中で、自分は何を成さねばならないのか。


――隊士として力を磨くこと。

――沖田や斎藤に食らいつき、真に剣を振るえる存在となること。

――そして何より、この歴史の流れを見極めること。


祖母の悲嘆が胸を刺す。

会津戦争の地獄を回避できなければ、あの涙は繰り返される。

そして沖田総司の命もまた、病に蝕まれ、運命に押し潰されてしまうだろう。


「……間に合うのか」


誰に向けるでもない呟きが漏れる。

静かな部屋に、ただそれだけが木霊した。


月光は障子を透かし、淡く白い光を落としていた。

その光の下で、古賀隼人は改めて誓う。

――残された四か月と十八日を無駄にはしない。

運命を知る者として、この歴史に抗い、必ず別の結末を探し出す。


彼の胸に芽吹いた決意は、もはや迷いの影を宿さぬ光となっていた。


翌朝の壬生屯所。

稽古場には竹刀の打ち合う音が木霊し、浅葱色の羽織を翻す隊士たちの掛け声が響いていた。

古賀隼人もまたその列に加わり、竹刀を振るいながら汗を滲ませていた。

だがその胸中では、別の戦いが繰り広げられていた。


――池田屋事件。


思考の中に、その名が重く落ちる。

文久三年六月、尊攘派志士が京を火の海に沈めようとした夜。

鴨川沿いの池田屋に集い、数十人の浪士たちが倒幕と攘夷を叫び、松の廊下に血を流す覚悟で策を練っていた。

その計画を突き止めた新選組は、僅か四人余りでその集団に斬り込む。


歴史に刻まれた「池田屋事件」。

それは確かに新選組の名を天下に轟かせた。

血の雨の中で浪士を斬り伏せたことで、京の町人は彼らを畏れ、幕府はその武勇を称えた。


竹刀を振るいながら、隼人は喉を焼くような呼吸の中で考える。

――だがその夜から、何が始まったのか。


池田屋を境に、新選組は「京を守る治安組織」から「時代の敵」へと姿を変えていった。

志士たちの血を流したことで、倒幕派の憎悪は一層激しく燃え上がり、やがて新選組そのものを呑み込む炎となる。

名声は手にした。

だがその名声こそが、彼らを破滅の未来へ導いた。


竹刀を交わした相手の肩を弾き、踏み込み、面を打つ。

木がぶつかる衝撃が掌を痺れさせる。

だが頭の奥ではなお、未来の声が響いていた。


――池田屋は、新選組の栄光であり、同時に始まりの墓標。


四か月と十七日後。

その夜をどう迎えるかで、この組織も、会津も、沖田総司の命運も変わるかもしれない。

だが、どう変えれば良いのか。

志士を討たねば京は炎に包まれる。

討てば新選組は憎悪を背負う。


「古賀! 手が止まっているぞ!」

叱責の声に我に返る。

隼人は息を吐き、再び竹刀を振るった。

だが心の奥ではなお問い続けていた。


――池田屋事件とは何か。

――なぜ起こったのか。

――そしてあの夜を超えて、新選組はどうあるべきなのか。


汗に濡れた浅葱の羽織が揺れる。

その下で、未来を知るただ一人の異物は、己の胸に答えを探し続けていた。


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