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古賀隼斗の懐刀

白障子の向こうに夏の光が淡く射し込み、静かな座敷を白銀色に照らしていた。

微かな風が庭の木々を揺らし、蝉の声と風鈴の涼やかな音色が重なり合う。

その中で、古賀隼斗は静かに膝を折り、横たわる沖田総司の寝顔を見つめていた。


枕元に漂うのは、清潔な薬草の香り。

薄布に包まれた総司の胸が、規則正しく上下しているのを目にした時――古賀は、思わず両手を握り締め、胸の奥に熱が込み上げてくるのを抑えられなかった。

数カ月前まで命の灯火が消え入りそうであった男が、こうして息をしている。その奇跡が、古賀の目に涙をにじませた。


老医の言葉が甦る。

――快方に向かっている。このまま養生すれば、必ず歩けるようになる――。


古賀はその場で深々と頭を下げ、声にならぬ感謝を口の中で繰り返した。

「……ありがとうございます……」

だが老医は優しく笑みを浮かべ、逆に古賀に向かって「頭を上げてくれ」と告げた。

「貴殿が伝えてくれた知識があってこそだ。肺を蝕む病――それを“結核”と呼ぶと知ったからこそ、儂は手を打てたのだ」


それでも古賀は頭を上げることができなかった。

なぜなら彼の瞳には、涙が溢れていたからだ。

転生した直後、不安と孤独に押し潰されそうだった時――最初に手を差し伸べてくれたのが沖田総司だった。その恩人を救う手立てを得た、その喜びに心が震えていた。


「……沖田さん……」


その名を呟いた瞬間、枕元からかすかな声が返ってきた。

「……古賀さん……?」


はっとして顔を上げると、総司のまぶたがゆっくりと開かれ、黒曜石のように澄んだ瞳が細い光を受け止めていた。

まだ病み疲れた顔色ではあったが、そこに浮かぶ微笑みは確かな命の輝きだった。


「ご気分はいかがですか?」

古賀は声を震わせぬように努め、丁寧に問いかける。


総司は小さく首を振りながら、唇に薄い笑みを刻んだ。

「体は……重いですが……心は、不思議と軽いのです」


その答えに古賀は胸を突かれる。

どれほど病に苛まれ、死の影に追われても、彼は人を安心させるように微笑む――その強さが、眩しかった。


「無理はなさらぬでください。今は、静養が第一です」

古賀が言うと、総司は少年のように頬を膨らませた。

「……でも、早く剣を振りたいんです。体が鈍ってしまうのが、怖い」


その拗ねた声音に古賀は苦笑を漏らし、そっと首を横に振った。

「はは……沖田さんらしいお言葉だ。しかし、命あってこその剣です。仲間を護るにも、民を護るにも……まずは御身があってこそ」


その瞬間、総司の瞳がわずかに潤んだ。

「……古賀さんは、やっぱり強い。僕には、真似できないくらい……」


「強いだなんて……違いますよ」

古賀は静かに答えた。

「私はただ――もう二度と、大切な人を失いたくないだけです」


沈黙の中で、総司は目を閉じ、唇に微笑を残した。

「大切な人……そう言ってくださるのなら……それだけで、僕は幸せです」


古賀は胸に熱を覚え、心の奥にひとつの誓いを刻んだ。

この人を、必ず護る。命を賭してでも。


座敷の外では蝉が鳴き、風鈴が揺れる。

時はゆるやかに過ぎていったが、古賀の心の中では燃えるような誓いが鋼のように固まっていた。


療養所を後にした古賀の足取りは、いつになく軽やかであった。

空には淡い雲が流れ、夕暮れに差し掛かる陽光が町並みを黄金色に染めている。胸の奥に宿るのは、確かな安堵――沖田総司が助かるかもしれない。その奇跡に似た希望が、古賀の心を温めていた。


道すがら、ふと漂ってきた香ばしい匂いに古賀の足が止まる。そこは、もう顔なじみとなった団子屋であった。

「おやまあ、新選組のお侍さん。今日も寄ってくださったんですね」

気さくに声を掛ける女主人に、古賀は軽く頭を下げて暖簾をくぐる。木の台に腰を下ろし、焼きたての団子を頬張ると、柔らかな甘味が口いっぱいに広がり、思わず表情が緩んだ。


「美味い……これは、何度食べても飽きませぬな」

「へえ、そう言っていただけると嬉しいね!」

女主人はにこやかに笑い、おまけだと串を一本添えてくれる。

古賀は笑いながら受け取り、陽気に団子を頬張った。その一瞬だけは、戦乱も不安も遠く、ただ平穏な市井の暮らしの温もりに浸っていた。


――しかし。


古賀は気づかなかった。

団子屋の前を、数人の男たちがゆっくりと通り過ぎたことを。

羽織に刻まれた紋は薩摩。見廻組の精鋭である。


「ほう、これはこれは……見覚えがあると思えば」


古賀は団子の串を握ったまま、背筋をわずかに粟立たせる。

その声、その眼――忘れようにも忘れられぬ因縁の男。


中村半次郎。


かつて死地で相まみえた薩摩の鬼神が、今、夕暮れの団子屋に立っている。

蜜の甘味は突如として苦みに変わり、日常の温もりは冷え切った刃の気配へと反転した。


半次郎はゆっくりと暖簾をくぐる。草履の音が木の床を叩き、その一歩ごとに団子屋の空気が張り詰めていく。

女主人はその気配に怯え、箸を持つ手を止めた。


「新選組の……古賀隼斗。こんなところで、団子など食うているとはな」


その声音は、嘲りか、挑発か。

古賀は静かに串を置き、女主人を庇うように立ち上がった。


二人の間に、言葉より先に過去の記憶が閃く。

血煙の夜、死闘の場、交えた剣と交わした視線――すべてが一瞬で蘇る。


夕暮れの光は、もはや温かさを失い、二人を照らす月光の前触れのように冷たく沈みゆく。

歴史の闇が、再び彼らを邂逅させたのだ。


中村半次郎は団子屋の椅子に腰を下ろすと、にやりと笑い、女主人に声を掛けた。


「俺にも団子をくれ。甘いものは好物でな」


その声音には遊び心が混じっているようでいて、底知れぬ緊張感が漂っていた。女主人は恐怖に肩を震わせながらも「は、はい……」と串を差し出す。


古賀はその横顔をじっと見据えた。敵地のど真ん中にいるにも関わらず、少しも臆することのない薩摩の剣鬼――その余裕に、逆に周囲の空気が張り詰める。


「……何をしに来た、中村殿」


古賀の低い問いに、中村は串を噛み切りながら、愉快そうに肩を揺らした。


「ただの見廻りよ。京の夜も物騒だからな」


冗談めかした声音。しかしその目だけは笑っていない。団子の蜜を舌で舐めとりながら、中村はふと声色を落とした。


「……久坂は元気か?」


その名が出た瞬間、古賀の瞳がかすかに揺れる。しかし口は固く閉ざされたまま。答えぬ古賀を見て、中村はさらに唇の端を吊り上げる。


「ふん……相変わらずだな。だがいいさ」


串を机に打ち付けるように置き、半次郎は背をわずかに傾け、古賀を睨み据えた。


「――あの夜のこと、忘れたとは言わせんぞ」


低く、しかし刃のように鋭い声。


「俺の太刀を止めたのは……貴様ただ一人だった。しかも片手で、だ」


その言葉は嘲笑にも似ていたが、奥底には認めざるを得ぬ驚愕と苛立ちが滲んでいた。

薩摩の鬼神・中村半次郎が、生涯初めて屈辱に似た感情を味わった瞬間を思い返しているのだ。


団子屋の空気は、もはや蜜の甘味どころではない。

古賀と中村、二人の視線がぶつかるその場は、いつ血風が吹き荒れてもおかしくない死地へと変わっていた。


中村の放つ刃のような殺意が、団子屋の空気を一瞬にして切り裂いた。

古賀の手が鞘にかかる。刹那、体内の血が逆流するような緊張が走り、古賀は無意識に刀に手を伸ばした——だが、その動作は半ばで止まった。


中村はふっと肩を震わせて笑った。笑いは浅く、砂利を噛むようにざらついていた。

「ここで斬りあうつもりはねぇよ」中村は低く呟く。周囲の雑踏と団子屋の茶気が、その一語を取り巻く緊迫をいっそう際立たせる。


「俺たちは――同じ面を向いてる。今はな。だから、此処では殺り合わん。」


その声に、古賀の刃先はほんの少しだけ后退する。だが中村の目付きが変わった。笑い声の端に、砂嵐のような冷たさが混じる。

「だがな」と中村は続けた。「この動乱の世だ。明日は味方が、明後日は敵になる。そういう世だ。俺はな、そういうのを楽しむ方だ。分かるか?」


古賀は刃を握る手に力を籠めたまま、息を殺す。刃の柄が指の間で微かに鳴る。団子屋の天井の薄い梁、女将の震える掌、そのすべてが、時間の経過を止める。


中村の声はさらに低く、確信に満ちていた。

「だが――お前は違う。お前の剣筋、眼つき、それに宿る意志は、俺の趣味とは相容れぬ。侍としての直感だ。いや、野性かもしれん。お前と俺は、いつか必ず相見える。その日は来る。俺は、その時はお前を必ず殺す。」


その言葉は宣告であり、同時に約束だった。刃を交える日を予告するように、空白の先へと放たれる。店内の空気が、無言の誓いで満たされる。


古賀は一瞬、胸の奥に激しい熱が走るのを感じた。怒り、苛立ち、そして——不思議なほど冷静な覚悟。相手の言葉を受け止めることで、逆に自分の内側にある何かが明瞭になった。刃を抜かずとも、刃の向かう先はいつも定められている。

古賀はゆっくりと刀の柄を離し、鞘に収める。その動作は短く、無駄がなかった。周囲には平静を装ったが、肩の内側では決意の筋が硬く膨らんでいた。


「――そのときが来たとしたら、拙者は全力で貴方と戦う」古賀は低く、だが確かな声で応えた。

言葉は穏やかに聞こえたかもしれない。だが、その言葉の背には、今ここで抱いた覚悟と、未来に刻むべき誓いが凝縮されていた。


中村は古賀の言葉を一瞥し、鋭く笑った。

「楽しみにしてるぜ。いい一戦にしようじゃねぇか、古賀隼斗。」


そして中村は立ち上がり、ざらついた掌で帯を直すように見せかけて、ふらりと店を後にした。足音は遠ざかり、暖かな夜風が通り抜ける。


夜の京の街は、まだ戦乱の爪痕をそこかしこに残していた。

石畳に月光が冴え冴えと降り注ぐ中、団子屋を後にした古賀隼斗は、屯所への道を歩みながら胸の奥でざらつく感覚を拭えずにいた。


中村半次郎。

因縁深き男との再会。その笑み、その言葉、その放たれた殺気——すべてが脳裏に焼き付いて離れない。


歩を進めながら、古賀はふと近藤勇局長の言葉を思い出していた。

「示現流の一撃は避けねばならぬ。必ずだ。受けるな、受け止めるな。あれは受け止めれば斬られる太刀だ」

近藤の声音は、今なお耳に残っていた。豪放磊落な人柄の中にも、剣の実戦において培われた深い警鐘があった。


——だが、禁門の変で相対した中村の剣筋は、示現流ではなかった。

荒々しくも鋭い斬撃ではあったが、あの独特の「初太刀必殺」の太刀筋ではなかった。

そのおかげで古賀は片腕で押しとどめることができた。


もしあの時、中村が正統の示現流の太刀を放っていたなら——

古賀の背筋を冷たいものが走る。

敗北していたのは間違いなく、自分の方だった。


「……拙者は、生かされたのだな」

古賀は低く呟く。


偶然か、あるいは中村自身の気まぐれか。だが一度の死闘で見えた可能性は決して軽んじられない。次に相まみえる時、中村が真に示現流の太刀を振るえば、自分がどうなるか——。

その未来を想像するだけで、胸が焼け付くような重圧がのしかかる。


だが同時に、古賀の瞳には静かな炎が宿っていた。

祖母の涙、玄瑞の笑顔、仲間の命。守るべきもののために、自分は敗北できない。

そのためには、中村をも凌駕する剣を鍛えねばならない。


月明かりに照らされた浅葱色の羽織が、夜風に揺れる。

古賀は柄に触れたまま、歩を止めて空を仰いだ。


「……近藤局長。次に相見える時は、必ず避けてみせます」


その誓いは、月下の静寂の中に沈み、やがて刀の冷たい輝きと重なり合った。


京の冬は、澄んだ空気が骨の髄まで冷え込む。

その日、古賀隼斗は松平容保公の御前に進み出ていた。

浅葱色の羽織を正し、静かに頭を垂れる。だがその胸の奥では、ここ数日間の思慮が渦を巻いていた。


――徳川慶喜公。

鳥羽伏見の戦いでの「敵前逃亡」。

史実を知る古賀にとって、それは幕府方にとって最大の敗北の要因であり、覆し難い汚点であった。

だが、ここに転生し新たな時を歩む己は、ただ史実を見守るつもりはなかった。


「……慶喜公を止めねばならぬ」

その結論に、古賀の思考は行き着いていた。


しかし自らが大阪城へ赴くわけにはいかぬ。

新選組の一番隊組長である自分が、戦場から離れれば何の意味もない。

鳥羽伏見は、幕府、新選組、会津藩の命運が交差する決戦の地。

そこに古賀隼斗が立たずして、誰が仲間を導けるのか。


ならば、容保公の傍らに「信頼の置ける者」を据え、慶喜公を繋ぎ止めさせるしかない。

古賀の脳裏に浮かんだのはただ一人——


褐色の肌、黄金の瞳、漆黒の髪を持つ妖艶なる女。

それは、かつて長州の才女にして国を憂えた烈士、今は新選組と共に歩む久坂玄瑞であった。


松平容保公が柔和な眼差しを古賀に向けようとした刹那、廊下を踏み鳴らす軽やかな足音が響いた。

「容保公、元気にしておられるか?」

まるで旧知の友にでも語りかけるような砕けた声音が、広間に広がる。


静まり返った空気の中で、現れたのは紺の小袖をまとった久坂玄瑞。

凛とした美貌の奥に漂う妖艶さは、場を圧倒するほどであった。

だが、そのあまりに砕けた態度に、古賀はぎょっとして慌てて歩み寄る。


「玄瑞……! ここは容保公の御前、言葉をお慎みください」

低声で耳打ちする古賀の表情は、冷汗を隠せぬ必死さを帯びていた。


一方の久坂は、黄金の瞳をいたずらに輝かせながら唇に笑みを浮かべる。

「よいではないか、隼斗。堅苦しいのは性に合わん。それに——」

視線を容保公へと向け、真っ直ぐに言い放った。

「会津の殿をお守りするために、この身を置いておるのだ。遠慮など必要なかろう」


その言葉に、容保公はしばし目を瞬き、やがて微笑を湛えた。

「……なるほど、隼斗が信を置く理由がわかった」


古賀は心中で溜息を吐きつつも、頷いた。

彼女ならば慶喜公の心の揺らぎを見抜き、時に叱咤し、時に支えられる。

己が剣をもって最前線に立つならば、背後を託せるのはこの女しかいない。


——史実を覆すために。

——幕府の敗北を避けるために。

——そして、愛する者を二度と失わぬために。


古賀の眼差しは、やがて強く、鋭く光を増していった。


久坂玄瑞は正座したまま、黄金の瞳で容保公を真っ直ぐに見据えた。

その声音は凛と澄み、広間に響き渡る。


「――儂はもとより長州の者。されど、力を以て世を転ずる道には最後まで与せなんだ。血で世を洗えば、いずれはまた血を呼ぶだけと悟っておったゆえな。


その志を容保公が汲み取り、特例として新選組に預けられたこと、いまだ胸に深く刻んでおります。


今は隼斗と共に歩み、この会津に身を置く者として、容保公の信を裏切ることだけは、決していたしませぬ」


その場に漂う空気は、まるで冬の寒気を溶かす陽だまりのように温かくなった。


久坂玄瑞の言葉が静まり、広間に一瞬の沈黙が訪れた。

障子越しに射し込む冬の光が、彼女の褐色の肌を照らし、その黄金の瞳をひときわ鮮やかに輝かせる。


松平容保公はその姿をじっと見つめ、ゆるやかに瞼を閉じた。

やがて深い息を吐き、言葉を紡ぐ。


「……そなたの心意気、しかと伝わった。長州の志士でありながら、最後の最後まで力に依らぬ道を求め、血を避けんとした……。その志こそ、わしが求めて久しく得られなかった光かもしれぬ。会津にとって、まことの宝であろう」


声は穏やかだが、胸奥からあふれる感嘆の情が響きに宿っていた。


容保公はそのまま古賀に視線を移した。

凛とした面持ちの若き隊士――隼斗をじっと見据え、わずかに口元を和らげる。


「古賀隼斗……そなた、良き友を持ったな」


古賀は言葉を失った。

己が胸の内で誇りに思っていた玄瑞の存在を、容保公の口から「宝」と称され、そして「良き友」と断じられた。

その重みは剣の一太刀よりも強く、古賀の胸に深く突き刺さる。


古賀は畳に両手をつき、深々と頭を垂れた。

「……恐悦至極に存じます」


その声は震えていた。

久坂玄瑞は横で小さく微笑み、古賀の肩に視線を落とす。

――共に歩むと誓った道が、今まさに認められたのだ。

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