最大の障壁、徳川慶喜
翌朝の屯所は、まだ朝霧が残る庭に銃声が響き渡り、普段の殺伐とした剣の稽古場とは異なる空気に包まれていた。
火薬の匂いとともに、山本覚馬の鋭い声が稽古場を震わせる。
「狙いが甘い!肩を沈めろと言うたはずだ!
手元をぶらつかせるな!鉄砲は刀とは違う、的を外せば即座に死を呼ぶのだぞ!」
怒号が飛び交うたびに、若い隊士たちは慌てて構えを直し、汗を滲ませながら再び引き金に指を掛ける。しかし火蓋を切れば、弾はしばしば標的の外れに飛び、砂煙を上げるばかり。
「先生、あまり叱りすぎると、隊士が萎縮します」
宥めるような柔らかな声が、その場に響いた。山南敬助である。
彼は冷静な眼差しで隊士の動きを見つめ、時に肩を支え、時に姿勢を正しながら、隊士たちに声をかけていく。
「焦らず、呼吸を合わせることです。剣と同じく、間合いと呼吸が大切ですよ」
覚馬の峻烈な指導に柔らかい補佐が加わり、稽古場にはようやく均衡が戻っていった。
その様子を少し離れた場所から見守っていたのは、古賀隼斗と、永倉新八、そして斎藤一であった。
古賀が二人に目を向け、穏やかに問いかける。
「永倉さん、斎藤さん……お二人は銃の稽古をなさらないのですか?」
永倉は豪快に笑い飛ばし、肩をすくめた。
「ははっ、俺ぁこういうのは性に合わねぇ。剣一本で十分だ。鉄砲なんぞ小細工に思えちまう。ああいうのは山南さんみたいな落ち着いた人がやるべきだな」
斎藤一は口数少なく、ただ「……俺は剣で生きる」と低く呟いた。
その瞳は冷徹に澄み切り、銃に一瞥すらくれず、ただ鞘に収めた刀の柄に触れていた。
古賀は二人の返答に静かに頷いた。
――剣に生きる者と、銃を担う者。
時代が揺れ動く中で、それぞれの信じる道を選び取る姿は決して否定できるものではない。むしろ、その多様な在り方こそが新選組を強くし、また脆くもするのだろう。
稽古場では再び火薬の匂いと銃声が響き渡る。
山南が隊士の肩にそっと手を添え、姿勢を直すその姿は、鬼気迫る剣の修練場の空気とはまるで別物だった。
だが確かに、そこには新選組の新たな一歩が刻まれていた。
古賀はその光景を目に焼き付けながら、心の奥でそっと呟いた。
――山南さんを推薦してよかった。
この人こそ、新選組の未来を照らす光の一つだ、と。
新選組の屯所。
冬の気配が濃くなりつつある京の街に、冷たい風が吹き込み、古びた板戸をわずかに軋ませていた。
大広間には、局長・近藤勇、副長・土方歳三をはじめ、各隊の組長たちが顔を揃えていた。永倉新八、斎藤一、原田左之助、山南敬助――いずれも剣名を轟かせる猛者たちであり、彼らが一堂に会する場は、さながら軍議の如き緊張感に包まれていた。
話題は屯所の移転である。
近頃の新選組は急速に隊士を増やし、浅葱色の羽織に身を包んだ若者たちが日に日に屯所を賑わすようになっていた。だが、狭苦しい町家を屯所としたままでは、いずれ内部での摩擦や不和を招きかねない。
「このままでは稽古場も手狭すぎる。剣も鉄砲も扱うとなれば、もっと広い場所が要る」
「台所も不足だ。数十人が一度に飯を食おうとすれば、火の回りもままならん」
各隊長からの声が次々と上がり、議論は熱を帯びていく。
土方は眉間に皺を寄せ、慎重に耳を傾けていた。近藤は時に頷き、時に笑みを浮かべつつ、隊士たちの意見をまとめ上げようとする。永倉は豪快に声を張り上げ、原田は腕を組んで考え込み、山南は静かに現実的な数字や可能性を指摘した。
その場に居合わせた古賀隼斗は、しかし一歩引いた位置で、ほとんど口を挟むことなく座していた。
彼の茶色の瞳は、議論に熱を上げる仲間たちを穏やかに見守りながらも、どこか遠い未来を映しているようであった。
――間もなく年の瀬を迎える。
その先に何が待ち受けるのか、古賀には誰よりも知れている。
第一次長州征伐。
薩摩と長州の和解。
そして坂本龍馬による薩長同盟の仲介。
幕府の威信が揺らぎ、倒幕の炎が京の都を覆い始める時代の奔流。
議論の声はますます激しさを増していたが、古賀の耳には遠く霞んで響いていた。
――この平穏にも似た時間は、嵐の前の静けさにすぎぬ。
新選組がいかに備えようとも、時代の奔流は無情に押し寄せてくる。
古賀はふと、庭先に目をやった。冬の陽が障子越しに淡く差し込み、畳に白い筋を描いている。その光は儚くも温かく、まるで「今」を慈しむように照らしていた。
胸の奥に、一抹の不安が芽生える。
仲間たちの笑顔、久坂玄瑞の無邪気な声、山南や沖田の未来――そのすべてを守れるのか。
古賀は静かに拳を握った。
――この命、必ずや皆を護るために振るう。
たとえ時代がどれほど残酷であろうとも。
そしてその決意を胸に秘めながら、古賀はあえて沈黙を守った。
議論を導くのは、局長と副長の務め。
自分の役目は、剣と覚悟をもって仲間を護り抜くこと――ただ、それだけだった。
禁門の変の余燼が消えぬ京の空に、冬の風が冷たく吹き渡る頃。
幕府は第一次長州征伐を命じた。だが、その中に新選組の名はなかった。
史実と同じく――否、古賀隼斗が幾ら奔走しようとも、この時代の表舞台に新選組の名が刻まれることはなかったのである。
されど古賀は失望しなかった。
むしろこの機を逃さじと、彼は歩を進めた。
「玄瑞――さらなる銃の手配をお願いしたい」
浅葱の羽織を肩に掛けた古賀が低く告げると、久坂玄瑞は黄金の瞳を細め、妖艶な笑みを浮かべた。
「隼斗よ。望みとあらば何丁でも揃えてやろう。長州の縁を辿れば、いくらでも流れがある」
その言葉通り、スナイドル銃はさらに百丁追加され、合計二百五十丁に達した。
さらに古賀はエンフィールド銃の導入にも力を注ぎ、両者を合わせて五百丁を超える銃火器を新選組の手に収めた。
屯所に届いた銃箱が次々と開かれ、鉄と油の匂いが充満する。
その場に立ち会った山南敬助は眉をひそめながらも、深い責任を受け止めるように頷いた。
「……古賀殿、これほどの銃があれば、剣と並び立つ力となりましょうな」
「山南殿にこそ、この大役を担っていただきたいのです」
古賀の一言に、山南は静かに眼を伏せた。
やがて新選組は大きく変貌を遂げる。
刀を主に戦う一番隊から八番隊。
そして、山南敬助を総長に据え、山本覚馬を補佐とする鉄砲隊を新設。
隊士の過半数を鉄砲隊へと配し、剣と銃を両立させた新たな戦力へと生まれ変わらせた。
人員補充も進められた。かつて二百名余りに過ぎなかった隊士は、いまや七百名にまで膨れ上がる。
屯所の庭では剣戟の音と銃声が交錯し、浅葱色の羽織が林立する光景は、かつての町方の剣客集団とは似ても似つかぬものとなっていた。
しかし古賀の奔走は、それだけに留まらなかった。
幾度となく古賀は松平容保公に直訴した。
庭に雪解けの水が滴るその日も、古賀は拝謁の間に正座し、深々と頭を下げた。
「容保公……この国はいずれ、幕府に仇なす者どもとの大きな戦いを迎えましょう。その時、旧き姿のままでは敗北は必定にございます。されど銃と兵法を兼ね備えれば、必ずや勝機を見いだせましょう」
声は抑えながらも、熱は決して隠しきれなかった。
その眼差しには、京での血戦を知る者にしか持ち得ぬ覚悟と、仲間を背負う重さが宿っていた。
容保はしばし沈黙した。
障子越しに差し込む冬陽が、その端正な横顔を陰影濃く照らす。
やがて低く、しかし確かに響く声が返ってきた。
「……若き隼斗、汝の熱をしかと聞いた。会津もまた、変わらねばならぬのだな」
その瞬間、古賀は胸の奥で拳を握った。
――祖母の涙を忘れぬため。
――玄瑞の笑顔を護るため。
――そして新選組の仲間を決して見捨てぬため。
未来を語らぬ者の口は固く閉ざされる。
だが、その沈黙こそが剣を鋭くし、銃の導入を急がせた。
血に濡れた敗北の定めを塗り替え、新選組を護る――その一念だけが、古賀を突き動かしていた。
古賀は、軍の近代化を進めることで新選組、そして会津を守り抜く道が開けると信じていた。
だが同時に、その思いに影のように纏わりつく懸念があった。
――最大の障壁。
それは他ならぬ、徳川慶喜将軍その人である。
史実において――いや、過去の記憶として古賀の胸に焼きついているのは、戊辰戦争の初戦、鳥羽伏見の戦いであった。
あの時、幕府軍は数の上でも火力の上でも決して劣ってはいなかった。
むしろ、戦を制するだけの力は備えていた。
しかし、ただ一つの行動が全てを瓦解させた。
――徳川慶喜、敵前での退却。
その報が伝わった瞬間、幕府軍の士気は崩れ落ち、錦の御旗を掲げた敵の前に総崩れとなった。
いかに精強な兵を揃えようとも、いかに最新の銃で武装しようとも、大将が戦場を去れば勝利は掴めぬ。
古賀はその恐ろしさを骨身に染みて知っていた。
「……いかに軍備を整えようとも、肝心の将が退けば、全ては水泡に帰す」
独り、月明かりの下で呟いた言葉は、夜風に掻き消される。
それでも胸の奥で燃える決意は揺るがなかった。
――会わねばならない。
徳川慶喜将軍に。
幕府の存亡を握るその人の心を、どうにかして動かさねばならぬ。
歴史を変えるというならば、慶喜こそが最大の関門。
その壁を越えられぬ限り、いかなる改革も、いかなる犠牲も、すべては虚ろな夢に終わる。
古賀は剣を握る左手に力を込めた。
祖母の涙、玄瑞の笑顔、仲間たちの声――全てを護るために。
いずれ、将軍との邂逅を果たさねばならぬ。
その瞬間こそが、己の真の勝負の場となるのだと。
夜は深く、月は白銀の光を庭に注ぎ落としていた。
古賀隼斗は一人、縁側に腰を下ろし、掌に収めた刀の鍔をじっと見つめていた。剣を握る左手に刻まれた傷は、幾度もの戦いを越えてきた証。その痛みが、彼の決意を呼び覚ます。
――最大の障壁は、徳川慶喜将軍。
いかに銃を揃え、鉄砲隊を組織し、会津の武備を固めようと、あの人が退けば全ては瓦解する。
古賀の胸には焦燥と共に、冷徹な思案が広がっていた。
慶喜は人をよく観察し、己が利と損を量ることに長けた人物。口先の理屈や大義名分では決して動かぬ。
ならば、どうすればよいのか。
「……まずは近藤局長を通じて容保公に訴えるか。いや、それでは遠回りすぎる」
容保公の信任は得ている。だが、将軍家はさらに上。
将軍に近づける者は限られている。松平春嶽か、あるいは勝海舟か――。
勝ならば橋渡しになれるだろうが、その代わり試されることは必定。坂本龍馬のような異才を可愛がる勝が、果たして新選組の若造にどこまで力を貸すか。
古賀は天を仰いだ。
雲間から顔を覗かせた月は冴え冴えと輝き、冷たい光が頬を撫でる。
――それでも行かねばならぬ。
慶喜に会い、その目を見て、己の覚悟を伝えねば。
「退けば全てが終わる」と。