坂本龍馬という存在
江戸の夜は深まり、街のざわめきは次第に遠のいていった。
宿の廊下には蝋燭の灯りが揺れ、障子の隙間から射すその光は淡く畳を染めている。
古賀隼斗は湯呑みを片手に、静かに湯気の立ち上る茶を啜っていた。剣を交える戦場ではなく、言葉で挑む明日の勝海舟との再会を思い、胸の内に重さを抱えていた。
そこへ――障子がすっと開く。
浴衣に身を包んだ久坂玄瑞が現れた。湯上がりの褐色の肌は紅を帯び、漆黒の髪からはまだ滴が零れ落ちている。黄金の瞳が、灯明に照らされて妖しく輝いた。
「隼斗、少し……話がある」
声は柔らかくも、どこか切実さを帯びていた。
玄瑞は古賀の隣に腰を下ろし、膝を揃えて正面から向き合う。
「……一つ、ずっと胸にあった疑問を問いたい」
黄金の瞳が真っ直ぐに古賀を射抜いた。
「なぜ、そこまで新選組に拘る? いや、それだけではない。会津にもだ。隼斗……お主は何故、命を懸けてまであの者たちに尽くすのだ?」
静寂が落ちた。
障子の外では虫の声が響くが、その音すら遠くなるほど、二人の間には濃い沈黙が流れた。
古賀は湯呑みを置き、しばし視線を落とした。
やがて顔を上げ、穏やかだが揺るぎない声音で口を開く。
「……玄瑞。私は新選組を、会津を、ただ幕府の下にある存在として見てはおりません」
一呼吸おき、言葉を選ぶように続ける。
「池田屋でも、禁門の変でも……我らが守ったのは、民であり、町であり、未来です。血に塗れようと、憎まれようと、その本懐は変わらない。会津もまた然り――幕府の命令に従うだけの藩ではなく、民を守る楯であろうとしています」
久坂の唇が僅かに震えた。
古賀はさらに、胸の奥に秘めてきた思いを吐き出すように言葉を重ねる。
「……だから私は、共に立つのです。幕府に殉じるのではない。民に殉じる、その覚悟があると信じるからこそ」
黄金の瞳が見開かれ、久坂は息を呑んだ。
その姿を見つめながら、古賀は最後に低く告げた。
「玄瑞。私は、新選組という剣に、会津という楯に、まだ希望を託せると信じているのです」
玄瑞はしばらく言葉を失い、やがて小さく笑った。
その笑みは妖艶さを湛えながらも、どこか儚げで――心の奥底を揺さぶられるような美しさを宿していた。
「……なるほど。隼斗、お主の拘りが、ようやく少しわかった気がする」
障子の外に吹く風が、二人の間を静かに撫でていった。
翌朝、江戸の町にはまだ朝靄が残り、瓦屋根に薄く光が差し込んでいた。
古賀隼斗は深く呼吸を整え、勝海舟邸の表門に立った。昨日の対話の余韻が、まだ胸の奥で燃えている。だが今日の目的は違う。
――坂本龍馬。
土佐の脱藩浪士にして、勝海舟の直弟子。
やがて幕末を震撼させる海援隊を興し、薩長同盟を取り結ぶ男。
歴史を知る古賀にとって、彼はまさに「時代を動かす触媒」であった。
門番に名を告げると、すぐに案内が通された。
昨日、勝海舟と激論を交わしたばかりの古賀に対し、異例の早さで再面会が許されたことに、彼は内心驚きを隠せなかった。
屋敷の奥、広間に通される。
畳の上には香の淡い香りが漂い、窓から差し込む朝陽が障子を透かしていた。
やがて、ざっざっと下駄の音が近づく。
「……古賀隼斗殿、再び参ったか」
威風堂々たる声が広間に響く。
現れたのは、昨日と変わらぬ勝海舟――だがその隣には、一人の大柄な男が立っていた。
着流し姿に羽織を無造作に纏い、胸を張って笑みを浮かべる。
鋭さよりも奔放さを湛えた眼差し。
無骨でありながら、不思議と人を惹きつける温かさを持つ男。
坂本龍馬であった。
「おう、あんたが新選組の古賀さんか。勝先生から聞いちょるぜ。京で暴れまわっちゅう、隻腕の剣客やと!」
豪快に笑いながら、龍馬は古賀の前に進み出る。
その歩みは軽やかで、まるで壁を感じさせぬ奔放さ。
彼の笑い声は、広間の空気を一瞬にして変えた。
古賀は静かに膝を折り、深く頭を垂れる。
「……お噂はかねがね。坂本龍馬殿、お目にかかれて光栄に存じます」
龍馬は屈託なく笑みを浮かべ、畳にどさりと腰を下ろした。
「まあまあ、そんなかしこまらんと。儂ぁ脱藩浪士ぜよ。偉そうなもんじゃあない。――それより、あんたに聞きたいことが山ほどあるきに」
勝海舟は二人を見渡し、口元をほころばせた。
「よいか、古賀隼斗。こやつは儂が最も目をかける弟子の一人よ。いずれ天下を動かす器じゃ。昨日のあの気迫を、龍馬の前でも見せてみるがいい」
そう言い放つと、勝はゆっくりと背を向け、縁側に腰をかける。
残されたのは――新選組の鬼気迫る剣客、古賀隼斗。
そして、幕末の海を駆け抜ける風雲児、坂本龍馬。
互いの視線が交わる。
その瞬間、静謐な空間に火花が散るような緊張が走った。
畳に腰を下ろした坂本龍馬は、笑顔を崩さぬまま、じっと古賀隼斗を見据えていた。
その眼差しは明るさを湛えながらも、鋭い洞察の光を失わない。
「新選組……」
龍馬の口から洩れたその言葉に、古賀はわずかに眉を動かす。
「京で血を流し、倒幕の志士を斬った侍たち。――儂ぁ、ずっとそう聞いちょった。人斬り集団、幕府の犬。土佐ん人も皆そう言うちゅう」
言葉は柔らかい。だが、そこに潜む批判の刃は鋭かった。
広間に風が吹き抜けたかのように、空気が張り詰める。
古賀は静かに呼吸を整え、膝の上で左の拳を固める。
「……坂本殿の仰ること、世間の目から見れば正鵠でしょう。私もまた、かつては人を斬る剣を誇りとしておりました。ですが……」
その声は低く、しかし確かな響きを持っていた。
「池田屋でも、禁門の変でも――我らはただ剣を振るったのではありません。民が炎に呑まれぬよう、幼子が刃に倒れぬよう、必死に守ろうとした。敵である倒幕派すら、生かして捕らえようとした。……それが我ら新選組の剣なのです」
龍馬の眼が細められる。
嘘か誠かを測るように、眼前の男を凝視する。
「……ほう。敵を生かして捕らえる、とな。もしやおんし、京で捕らえた久坂玄瑞のことを言うちょるか?」
古賀の胸に、一瞬熱が走る。
久坂の名を出されただけで、心の奥底がざわめいた。だが彼は気配を悟られぬよう、表情を引き締める。
「はい。あの御仁は剣を取らず、最後まで戦を止めようとした。その覚悟を見て、私も命を賭して守ったのです」
龍馬は大きく息を吐き、笑った。
その笑いは嘲りではなく、心底楽しげであった。
「なるほどのう! 儂の知っちゅう新選組とは、まるで違うぜよ! ……ただの人斬りやと思うちょったが、どうやらあんたは“民を護る剣”やと胸張っちゅう」
龍馬は前のめりになり、声を低める。
「けんど、古賀隼斗。聞かせてくれ。もし幕府が滅び、この国が新たな道を歩む時――あんたら新選組は、どこに立つがぜよ? 幕府と共に死ぬのか? それとも……」
古賀の茶の瞳が深く燃え上がった。
間髪入れずに、その言葉が広間に響いた。
「――幕府に殉じはしません。民に殉じます」
沈黙。
龍馬の笑みが消え、代わりに驚愕と感嘆が入り混じった表情が浮かんだ。
「……ほう。幕府の剣やない、民の剣、か」
古賀はさらに続ける。
「幕府が旧態依然であることは、私も認めざるを得ません。だが、幕府が戦国を終わらせ、平和な世を築いたこともまた事実。その功は否定できぬ。私は新選組の一員として、会津藩の剣として、最後まで義を貫きます。だがその義は――幕府のためではなく、民のために」
龍馬はしばし黙し、やがて豪快に笑い声を上げた。
その笑いは広間の障子を震わせ、外の庭にまで響き渡った。
「はっはっはっ! こりゃおもろい! あんたぁ、武士やのうて“時代”そのもんぜよ! ええ、気に入った! 古賀隼斗、儂と語り合うに値する男や!」
龍馬の目は炎のように輝き、古賀の瞳と正面からぶつかる。
その瞬間、互いの胸に火花が散る。
――ここに、新選組と坂本龍馬。
二つの異なる道を歩む者が、初めて思想を交わした。
それは後に、この国の運命を大きく揺るがす出会いとなるのであった。
広間に差し込む陽は、西へ傾き、障子に赤みを帯びた光を落としていた。
坂本龍馬は正座したまま、膝に手を置き、真剣な眼差しで古賀隼斗の言葉を待っている。
古賀は静かに口を開いた。
「薩摩と会津は――いずれも幕府の剣。これまでも、そしてこれからも、共に幕臣として歩むべき道を担うものと存じます。互いに手を取り合い、支え合い、この国を守ってゆければと、私はそう願っております」
その声音は落ち着いていた。だが、瞳の奥に宿る光は、真摯な祈りと揺るがぬ信念を映していた。
「そして、長州……」
ひと呼吸置き、古賀は言葉を選ぶように瞼を伏せ、やがて真っ直ぐに龍馬を見据えた。
「国を憂うが故に、多くの国士が生まれた藩。時代を変えようとする熱を持った志士が数多く立ち上がった。……その気概は誠に尊ぶべきものであり、この国にとって決して欠くことのできぬ宝だと、私は考えています」
龍馬の瞳がわずかに見開かれる。
古賀の言葉が、決して単なる幕府方の口上ではないと悟ったのだ。
しかし、その直後。
古賀の表情がふっと変わった。
穏やかであった茶の瞳が、鋭い刃のように光を帯びる。
そこに宿るのは怒りでも、憎悪でもなく――ただ、深く強靭な決意だった。
「……ですが」
低く、鋭く。
その声は空気を震わせ、龍馬の背筋に冷たいものを走らせた。
「如何なる大義を掲げようとも。罪なき民の暮らしを踏みにじる権利は――誰にも、ありません」
言葉の一つ一つが畳を打ち据えるように重く響く。
古賀の脳裏には、炎に包まれた街並みがよみがえっていた。
東の町々を焼き払い、女や子供が泣き叫び、命を失った――あの惨禍。
薩摩と長州の名の下で行われた無惨な光景が、鮮烈に胸を灼いていた。
決して許さぬ。
二度と繰り返させはしない。
古賀の目はそう訴えていた。
龍馬は、しばし声を失った。
普段は冗談混じりに場を和ませる彼でさえ、この男の言葉に込められた重みを否応なく受け止めざるを得なかった。
やがて、龍馬はゆっくりと口角を上げた。
「……なるほどのう。おんし、新選組や幕府の剣に収まる器やないぜよ。まるで、この国そのものを背負うがごとき覚悟じゃ」
古賀は答えず、ただ静かに背筋を伸ばし、膝の上に手を置いた。
その沈黙こそが、彼の決意の深さを物語っていた。
――幕府に殉じるのではない。民に殉じる。
その誓いを胸に刻み、古賀隼斗は、未来を見据えていた。
古賀の問いは、広間の空気をそぎ落とすように冷たく響いた。障子の向こうの陽光が一瞬だけ止まったかのように見え、酒席のざわめきも遠のく。
「坂本殿は──大義があれば、この国を焼き尽くしても良いとお考えですか?」
龍馬の笑みが、一瞬だけ影を落とす。だがそれは嘲りでも狼狽でもない。彼はゆっくりと身を起こし、窓外の江戸湾を遠く見遣った。海面が朝の光を受けて瞬き、風が藪を撫でる。それを見つめる彼の横顔に、幾重もの思念が重なっている。
「おもしろい、ええ問いやな、古賀殿」
龍馬は柔らかな声音で言った。だが、その声の奥には研ぎ澄まされた理が潜んでいる。彼は古賀を見据え、言葉を選ぶように続ける。
「ワシはな、『目標』と『手段』を切り離して考える男だ。目標──この国を良くする、民が腹の底から笑える世を作る、という一義は揺るがん。だが、そのために何を許すかは別もんや。壊すことそのものを美化して、無辜を焼き尽くすのはワシのやり方やない。──誰もが腹抱えて笑える国を作るために、犠牲は出るかもしれん。それは避けられぬ現実や。やがて誰かが倒れる。だが民を道具にして焼き尽くすのは、ワシの言う『改革』には入らん」
龍馬の瞳が熱を帯びる。彼は手をひらりと振り、古賀の胸中の不安を見透かすように続けた。
「考えてみい。もし大聖なる大義の下で、無辜の街を焼き払って、新しい世を得たとしよう。そのとき、得たものは何や? 恐怖で支配された、形だけの秩序かもしれん。人の心は焼き払えん。怨嗟と憎悪が土台を蝕むだけや。真の変革は、焼くことじゃなく、古い殻を割って新しい器をつくることや──できるなら、血を少なくしてな」
古賀は黙って龍馬の言葉を受け止める。目の前の男は、己が抱く“民を守る”という誓いと、別のやり方で国を変えようとする者の理を、はっきりと言葉にしていた。だが古賀の胸には、禁門や東の焼け野原の光景が焼き付いている。その傷が、容易に癒えるものではないことを龍馬もまた見抜いているようだった。
「だがな、古賀殿。理想だけじゃ世は動かん。現実の刃はそこにある。ワシは理想を掲げるが、手段を選ばん奴をも認めん。お前が問うたのは、手段の極限の問題や。ワシは答えをはぐらかさん。『大義があるから何をしても良い』──いう思想はワシの信ずる所ではない。だが、改革の過程で生じる苦しみに対して覚悟がいるとも思う。覚悟と無軌道は違う。そこを見定めるのが、リーダーの仕事や」
古賀の口元に、かすかな緊張と同時に納得の色が差す。彼もまた、理想と現実の折り合いを知る男だ。古賀は低く、しかし一本の刃のように真っ直ぐに答えた。
「坂本殿の言は理解いたします。ですが、私の誓いは決まっております。如何なる大義を掲げようとも、罪なき民の暮らしを踏みにじる権利は誰にもありません。民のために戦うと誓った以上、私はその名において、民を盾にするような手段を断じて許しません。それが私の――私たち新選組の、なすべき理です」
龍馬の口元に、にわかに柔らかな笑みが戻る。彼は立ち上がり、古賀の肩に軽く手を置いた。その手付きは戯れにも、挑発にも似ていたが、どこか敬意があった。
「よし、じゃあ約束しようや。手段を問うて、互いに議論し続ける。あんたが『民を盾にするな』と叫ぶなら、ワシも無駄な血を流すなと叫ぶ。両方の声がいる。そいつがなければ、ほんまの国は作れん。互いに刃を交えるより、言葉で斬り合う日々を選ぼうや」
障子の影が二人の影を重ねる。刃を持たぬ言葉の応酬は、やがて時代の軸を揺らす火花となる予感を帯びていた。古賀はその言葉を胸に刻み、短く頷いた。問いは終わり、だが対話は始まったばかりだった。
勝海舟は、深く背凭れに身を沈めながらも、その眼差しは鋭く光っていた。重厚な静寂が広間を包み、障子の外からは江戸の街のざわめきが微かに届く。やがて、その沈黙を破るように、勝は低く、しかし響き渡る声で問いを放った。
「古賀隼斗……そして龍馬よ。そなたらは若くして既に多くを見てきた。幕府も、戦も、人の愚かさも、そして未来の可能性もだろう。ならば聞きたい。この先の日本は、いかにして欧米列強と渡り合うべきと考える? 黒船以来、この国の海に立ち込める影は、もはや剣一本で払えるものではない。答えてみよ──己が信ずる道を」
重く響いた問いは、まるで雷鳴のように二人の胸に落ちた。
古賀は背筋を伸ばし、茶色の瞳を静かに燃え立たせながら口を開いた。
「私は……剣に生きる者ゆえ、乱暴な言い方に聞こえるかもしれませんが、国を護るとはすなわち“抑止”であると心得ております。列強は力に敏い。弱きを侮り、食い物にします。ゆえにまずは強き軍を備えねばならぬ。会津が命を賭して守ってきたのは民の暮らし、それと同じく、この国全ての民を守る軍を──“武”を育てることが肝要かと存じます。だが同時に、剣一本で異国の砲列に挑むのは愚かです。医も、工も、学も、すべての知を総動員し、国の力とせねば……」
古賀の言葉は一呼吸ごとに重く、勝の耳へと確かに届いた。
一方、龍馬はにやりと笑みを浮かべ、膝を叩いて声を張る。
「隼斗の言葉はもっともじゃ。じゃがワシは、刀を振りかざすだけやと国がすり減ると思うちょる。列強と渡り合うには、“海”じゃ。海を越え、彼らの知恵も交易も飲み込む度量がなけりゃならん。砲台も軍艦も大事やが、それ以上に“商い”や。“富”を積み重ねることで国は強うなる。銭は剣より強い──ワシはそう信じとる。剣は抑止、銭は交渉の武器よ。両の手で使い分けてこそ、初めて対等になれるきに」
龍馬の声は波濤のように勢いを増し、広間の空気を揺らした。
古賀は横目で龍馬を見て、静かにうなずいた。
「剣と銭……確かにどちらも欠けてはならぬ道理ですな」
勝海舟は腕を組み、二人の答えを深く味わうように瞑目した。その口元に浮かんだのは、威風堂々とした笑み。
「ふむ……一人は“剣”を掲げ、一人は“海”を渡るか。どちらも道理だ。剣無くして国は蹂躙され、富無くして国は立たず。──よかろう。そなたら二人の答え、その胆力、この勝海舟、しかと胸に刻んだ」
勝の声は雷鳴のごとく広間に轟き、障子の外で吹いた風が木々を揺らす。二人の若者の答えは、やがて日本の未来を左右する伏線となってゆくのだった。