将軍家の懐刀
江戸の町に辿り着いた一行は、長き東海道の旅路を終え、ようやく宿に身を横たえた。
だが、休息を許されたのは肉体のみであった。心までは眠らぬ。
外では、江戸独特の喧噪が絶え間なく流れていた。夜更けにもかかわらず、往来を行き交う駕籠の軋む音、商人たちが最後の声を張り上げる声、遠くから聞こえる三味線の音色。人の世の営みは確かにここにあった。
しかし、そのざわめきは古賀隼斗の胸を騒がせるものではなかった。
灯火の揺れる座敷の片隅に、彼は正座していた。
浅葱色の羽織は旅塵にまみれ、袖口には道中の疲れが滲んでいる。だが、その瞳は暗闇の中でなお冴えわたり、ただ一つの名を胸に刻んでいた。
――勝海舟。
徳川将軍家の懐刀にして、時代を読む眼を持つ男。
だがその眼はすでに、新選組を切り捨てていた。
鳥羽伏見の戦いの後、勝は甲陽鎮撫隊を掲げ、江戸の命運を新政府軍との交渉に賭けた。そこに新選組の名はない。彼らはもはや「時代遅れの剣客の群れ」、歴史の隅へ追いやるべき存在と見なされていた。
古賀はその冷徹な判断を知っていた。
だからこそ――ここに来たのだ。
「……新選組は、ただ幕府のために刀を振るったにあらず。民を守るために斬ったのだ」
独りごちる声は、かすれ、しかし揺るぎなかった。
池田屋の宵。禁門の炎。そこには確かに民を護るために刃を抜いた自分たちの姿があった。血に塗れ、罵られようとも、その根底にあったのは武士としての矜持であり、人を守ろうとする意志だった。
勝海舟の胸中に巣くう「新選組=人斬り」という観念を崩さねばならぬ。
それが出来なければ――新選組は滅ぶ。いや、それだけではない。
幕府が敗れた時、勝が「新選組はただの殺戮者」と断じれば、その名は永遠に汚される。仲間たちが命を懸けて守った民の記憶すら、歴史に残らず葬られる。
古賀は強く拳を握りしめた。
畳に食い込むほどのその力に、爪が食い込み血が滲む。
「負けることを恐れているのではない……。
敗北の先に、何も残らぬことを恐れているのだ」
目を閉じると、血の匂い、火薬の煙、そして幼子の泣き声が耳の奥で甦った。
あの時救った小さな命。
あの時散った仲間の魂。
――彼らを戯言の中に埋もれさせてなるものか。
古賀の胸に渦巻くのは怒りではなく、烈火のごとき決意だった。
勝海舟は徳川の最後の砦であると同時に、江戸百万の命を握る男。
その心を揺さぶることが出来れば、新選組はただの敗残の剣客ではなく、「民を護る剣」として記憶されるはず。
やがて灯火が小さく揺れ、座敷に影が落ちた。
古賀はその暗がりの中で、ただ一言を胸中で呟く。
――必ず、勝海舟の心を変える。
夜の帳がすっかり降りて、江戸の街はひっそりと静まり返っていた。
宿の奥座敷、油灯がひとつ、揺れる炎で淡く畳を照らしている。
古賀隼斗はその薄明かりの中に座し、腕を組んで思索に沈んでいた。
胸の奥には燃えるような決意があったが、それを誰に語ることもなく、ただ自らの内に抱え続けている。
――新選組は変わらねばならない。
――民を守る剣であることを証さねばならない。
その思いは、過去でも未来でもなく、確かに今この時に生まれ、育まれているものだった。
障子が音もなく開く。
「……隼斗」
現れたのは久坂玄瑞。
いつもの派手な和服ではなく、湯上がりの浴衣姿。濡れた黒髪が首筋に沿って滴り、褐色の肌には朱が差している。妖艶でありながら、今はどこか人懐こい素顔が覗いていた。
玄瑞は静かに畳を踏み、古賀の隣へと腰を下ろす。
黄金の瞳がまっすぐに古賀を見据え、凛とした声が落ちた。
「今回の江戸遠征――表向きは新選組の増員だ。だが隼斗、お主の目は別のものを見ておる。違うか?」
その洞察に、古賀はわずかに苦笑を漏らした。
見透かされた気がしても、不思議と苛立ちはなかった。
「……玄瑞殿には、敵いませぬな」
目を細め、古賀は静かに答えた。
灯火がその横顔を照らし、影を濃くする。
「私の思いはただひとつ。勝海舟にございます」
玄瑞の眉がわずかに動く。
「勝……あの幕府の懐刀か」
「はい」
古賀の声音は穏やかだったが、その奥には鉄のような硬さが潜んでいた。
「勝海舟は……新選組をただの人斬り集団としか見てはおりません。
この先もし幕府が敗れれば、倒幕派との交渉の先頭に立つのは必ず勝でしょう。
その時、真っ先に切り捨てられるのは我ら新選組……。
――それだけは、避けねばならぬのです。
我らは幕府の剣ではない。
民を護り、子らの未来を繋ぐ盾であり、刃である。
それを知らしめねば、新選組はただ血に飢えた亡霊として歴史に葬られてしまう。
私は、それを許すわけには参りません」
古賀の言葉は、宿の静かな一室に重く落ちた。
灯明の揺らぎが彼の横顔を照らし、その瞳に宿る光を黄金の炎のように際立たせる。
久坂玄瑞は、その光景に思わず息を呑んだ。
――民を護る剣。
倒幕派でも佐幕派でもなく、ただ人々のために血を流すと誓う侍。
その声には虚飾がなかった。
「……隼斗」
玄瑞はそっとその名を呼ぶ。
その声音は、いつもの豪胆さや妖艶な微笑を欠き、ひとりの女として震えていた。
「儂は、幕を倒すためにこの身を賭してきた。だが……お主の言葉は儂を惑わせる。
民のために剣を振るう――それは儂の望んだ国の姿、そのものだ。
なのに、儂は敵であり、お主は新選組の侍……」
玄瑞は視線を落とし、浴衣の袖を握りしめる。
褐色の頬が紅潮し、黄金の瞳が揺れていた。
古賀はしばし黙した。
だがやがて、静かに口を開いた。
「玄瑞殿。私は未来を語ることはできません。ただ……今を生きる者として、護りたいものがあるだけです。
もし私の言葉が、貴方の理想と重なるのなら――それを胸に抱いていてくだされば、それで十分です」
その一言に、玄瑞は強く心を揺さぶられた。
思わず、手を伸ばしてしまいそうになる。
だが寸前で拳を握り、震える声で告げた。
「……お主という男は、儂の理想を奪う……そして与える……。
隼斗、儂は……儂はもう、お主を敵だと思えぬ」
灯明がぱちりと弾け、二人の間の静寂が熱を帯びていく。
灯明の淡い光が、静まり返った室内に揺れていた。
古賀の言葉が落ち着いた響きを残し、やがて静寂に溶ける。
久坂玄瑞は唇を噛み、俯いたまま震える肩を抑えきれなかった。
褐色の肌に影が落ち、黄金の瞳が潤んで揺れる。
胸の奥から込み上げるものを押し殺そうとすれど、抑えられない。
「……隼斗……」
その名を呼ぶ声は、震え、切なさに濡れていた。
気づけば、玄瑞の手が伸びていた。
浴衣の袖口から覗く細い指が、古賀の袂を掴む。
その仕草は、いつもの妖艶な彼女からは想像もつかぬほど、儚く、必死で。
古賀は驚き、目を瞬いた。
だが、次の瞬間、袖を掴むその手の震えに気づいた。
敵として生き、理想を掲げ、そして孤独に戦い続けてきた女の、剥き出しの心がそこにあった。
「……私は……」
玄瑞は言葉を探し、やっとの想いで続ける。
「私は、この国を変えるために生きてきた。
だが……お主に出会ってしまった儂は、理想のためだけに生きることが……苦しい。
隼斗、お主の言葉に揺らぐ自分が、悔しいほど愛おしいのだ……」
そう言って顔を上げる。
黄金の瞳に溢れた涙が、灯明に反射して煌めいた。
その表情は、烈しくも儚い――まるで月に焦がれる蝶のようで。
古賀は息をのんだ。
この胸を締めつける感情を、もはや否定できなかった。
己は侍であり、新選組の隊士であり、幕府方の人間である。
だが、それでも――。
古賀は静かに左手を伸ばし、掴まれた袖ごと、その手を包んだ。
「……玄瑞殿」
その声は優しくも強く、揺るぎなかった。
久坂玄瑞は小さく震え、やがて古賀の胸へ顔を寄せる。
浴衣に触れた頬は熱く、涙が布を濡らした。
「……敵だと、思えぬのだ…決してな…」
囁くような声は、ただ一人の女の告白に他ならなかった。
古賀はその頭を静かに支え、目を閉じる。
敵と味方の境を越え、ただ二人の心が触れ合う――
その夜、宿の灯明はゆらめきながら、誰にも語られぬ密やかな逢瀬を照らしていた。
翌朝。
江戸の空は澄み渡り、夏の名残を宿した風が川面を渡っていた。
古賀隼斗は、浅葱色の袖を正しながら、一歩一歩を確かめるように歩いていた。
その隣を、久坂玄瑞が歩く。
艶やかな黒髪を揺らし、黄金の瞳を輝かせながら、左右を見回すたびに声を弾ませる。
「……ふふ、懐かしいものよな。江戸の通りは京とは違う。人のざわめき、匂い、すべてが新鮮で……」
頬をわずかに染め、まるで少女のように浮き立つ姿。
「はしゃぐな、久坂」
斎藤一の冷ややかな声音が、風を切るように響く。
「お前は囚われの身だ。表を歩けるのは、容保公と局長の特例があるからにすぎん。目立てば、すぐに敵の目を引く」
たしなめられた久坂は、子供のように頬を膨らませた。
「……分かっておる。しかしな、儂とて久しぶりなのだ。あまり口うるさく言うでない」
そのやり取りを、古賀は横目で見ながら小さく笑った。
京では常に緊張を張り詰め、理想と現実の板挟みに苦しむ玄瑞。
その彼女が、江戸の雑踏の中で年若い娘のように無邪気な顔を見せる。
その姿は不思議と胸を温めた。
だが次の瞬間、古賀の表情は引き締まる。
――この道行きは、ただの遠征ではない。
これから待ち受けるのは、剣も槍も役に立たぬ、言葉の戦場。
懐から、勝海舟への面会許可書を取り出す。
近藤局長から託された、大切な証。
薄い和紙の一枚が、これからの新選組の命運を左右するのだ。
勝海舟――徳川将軍家の懐刀にして、幕府と諸藩の命運をも操る男。
その慧眼は鋭く、虚言も即興の取り繕いも通じぬ。
「人斬り集団」としか見られていない新選組を、どう変えて見せるか。
古賀は唇を結び、胸中で自らに問いかけた。
もし勝海舟の心を動かせなければ――。
幕府が敗北したその時、真っ先に切り捨てられるのは新選組。
その未来を知るがゆえに、背中へ重くのしかかる圧力は計り知れなかった。
それでも、歩みは止めなかった。
剣を捨て、言葉を武器とする新たな闘い。
その火蓋は、今まさに切られようとしていた。