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東海道の行軍

初夏の太陽は容赦なく照りつけ、東海道の街道を白く照らしていた。地平の先まで伸びる道は揺らめき、まるで陽炎が行軍する者たちを試すかのようだった。

二日続けての強行軍。新選組の隊士たちは無言で歩を進め、土方歳三も黙々と前を見据えていた。斎藤一は冷静そのもの、刀を肩に担ぎながらも目は周囲に鋭く光を走らせている。

そんな中、一人だけ調子を崩すように声を張り上げる者がいた。

「……はぁ……疲れた……。もう足が棒じゃ……儂は侍であって馬じゃないぞ……」

長州の志士にして、今は新選組預かりとなった久坂玄瑞である。

彼女は褐色の肌を汗で光らせ、道端の草の上に腰を下ろそうとすらしていた。

土方は振り返りざま、冷たい視線を玄瑞に投げた。

「……何故お前の同行が許されたのか、俺はいまだに理解に苦しむ。容保公の許可状があるからといって、足手まといまで背負えと仰せか?」

その声音には苛立ちと不信が色濃く滲んでいた。

玄瑞はぷいと顔を背け、子どものように頬を膨らませる。

「な、何じゃその言い草は! 儂は足手まといではない! 大義を抱いているのだ! ……ただ、少し休みたいだけで……」

その様子を見て古賀隼斗は苦笑し、場を和らげるように口を開いた。

「土方副長……もしよろしければ、久坂殿だけでも早馬で江戸へ先行させてはどうでしょう。我らは徒歩で向かえばよいのです」

だが玄瑞はすぐさま古賀の袖をつかみ、かぶりを振った。

「嫌じゃ! 隼斗と離れるくらいなら、馬など要らぬ! 一歩たりとも離れぬ!」

その真剣すぎる声音に古賀は一瞬言葉を失い、次いで深いため息をついた。頬を指で掻き、困ったように笑みを浮かべるしかなかった。

斎藤一がそのやりとりを冷めた目で見つめ、ぼそりと呟いた。

「……お前ら、いい加減にしろ。ここは市中じゃないが、いつ長州の残党が襲ってきてもおかしくない道中だ。目立つ言動は控えろ」

その言葉には、場を引き締める鋭さがあった。

玄瑞はむっとしながらも、唇を噛んで黙る。だがその視線はなお古賀に絡みつく。

古賀は心の奥で、小さな火種のような感覚を抱いていた。

――池田屋、禁門の変。そのどちらも歴史を変えてしまった。自分が知る未来から大きく外れている。

だが、この道を共に歩む者たちは、確かに「今」を生きている。汗を流し、息を切らし、己の信念を背負って。

ふと空を仰げば、真夏の光はあまりにも眩しく、目を細めるほどだった。

そこには、民を守ろうとする新選組と、敵でありながら共に歩む久坂玄瑞、そして沈黙の中で鋭く道を見据える斎藤一――それぞれの影が並んで伸びていた。

その姿は、時代という奔流の中で抗う者たちの象徴であり、彼ら自身もまた歴史の渦に呑み込まれていく存在であった。

夏の東海道。陽は高く昇り、街道の石畳を焼きつけるように照らしていた。白く霞んだ空気の中を、浅葱色の羽織が揺れながら進む。新選組の一行だ。

二日を歩き続けた足取りは重い。隊士たちの息遣いには疲労が滲み、それでもその背筋は真っすぐに伸びていた。江戸での人材募集――剣の達人を求める旅。だが古賀の心には、それ以上に重くのしかかる未来があった。薩長の近代化、銃火器の脅威、そして新選組の立場。剣の時代は終わろうとしている……その思いが、彼の胸を焦がしていた。

その沈黙を破ったのは、久坂玄瑞だった。

「隼斗……お主に知らせておくことがある」

褐色の肌に汗を滴らせ、しかしその瞳はどこか勝ち気に輝いていた。

「――スナイドル銃を、百五十丁。既に調達してある。数日もすれば新選組の屯所に届くはずじゃ」

その声は、炎のように真っ直ぐで、ためらいがなかった。

古賀は思わず足を止めかける。

「な……なんと……! 本当ですか、玄瑞……?」

玄瑞は薄く笑みを浮かべる。

「儂とて夢を語るばかりではない。この命を預けるに値する者のためなら、力にもなる。未来を見据えるお主に……負けておられぬからな」

その言葉に古賀の胸は熱く震えた。

だが、背後から低い声が響いた。

「――調達だけで事は済まん」

土方歳三である。彼は前を見据えたまま、鼻を鳴らすように言葉を続けた。

「俺と近藤さんで容保公に直訴した。会津軍も新選組も近代化が不可欠だとな」

古賀は思わず土方に歩み寄る。

「結果は……いかがでしたか?」

土方の影が陽射しに濃く落ちる。

短い沈黙の後、彼は低く答えた。

「容保公は賛成された。おおむね、近代化は必要だとな……」

古賀の顔に光が差す。しかし土方の言葉はすぐに冷厳な刃となって突き刺さった。

「だがな……問題はそこからだ。肝心の銃に精通した人間が、幕府方にはあまりに少なすぎる。古賀、お前が手配した山本覚馬以外にも銃に精通した武人がもっと必要だ。鉄砲を抱えりゃ戦えるってもんじゃねえ。扱えぬ鉄の塊を何百揃えても、薩摩や長州の連中には勝てん」

その現実的な指摘は、希望に燃える古賀の胸に冷水を浴びせた。

一瞬、歩みが鈍る。だがその場に漂った沈黙を破ったのは、またも玄瑞だった。

「……ならば、学べばよいのだ」

彼女は胸を張り、強く言い放つ。

「剣を磨いてきたように、銃もまた磨けば良い。薩摩や長州ができて、幕府や新選組ができぬ道理はなかろう」

土方が横目で鋭く玄瑞を睨む。

「言うは易い。だがその学びの場をどう作る? そこが穴だと俺は言っている」

玄瑞は一歩踏み出し、まるで挑むように土方へと声をぶつけた。

「ならば――儂の知己に、武器商いに通じた者がいる。その者を通せば、銃だけでなく、扱い方も学べるはずだ。その者に隼斗が呼んだ山本覚馬殿の助手をさせればよかろう?」

その言葉に古賀は驚愕し、思わず玄瑞を見た。

陽光に照らされ、褐色の頬を伝う汗がきらめく。

その横顔はあまりに強く、そして儚かった。

「古賀隼斗……儂はお主を誠の侍だと思う。いや――」

少し声を震わせ、玄瑞は言葉を継いだ。

「……お主の夢が、儂の夢にもなっておるのだ」

古賀の胸に、強い衝撃が走った。

土方の冷徹な言葉、玄瑞の熱情、そして己の理想――すべてが絡み合い、重く、熱く、燃え上がっていく。

東海道の蝉時雨が、その瞬間だけは遠く霞んで聞こえた。古賀はふと江戸へ向かう前の出来事を思い出す。


戦火がようやく収まり、京の街にはなお黒煙の匂いがしみついていた。焼け落ちた町家の柱が、白い灰をまとって風に揺れ、時折ぱきりと崩れ落ちる音が耳に届く。瓦礫の中に咲く夾竹桃の花さえ、どこか憂いを帯びて見えた。

禁門の変から数日。

古賀隼斗は松平容保公と近藤勇に嘆願し、ある人物との対面を許された。

その人物の名は――山本覚馬。

会津藩随一の学識を誇り、砲術・西洋兵学に通じた先覚者。近代化の旗手にして、この混迷の時代にあっては稀有な知の柱。古賀は強く思っていた。

――この人を、絶対に失ってはならない。

薄暗い屋敷の奥座敷。

障子越しに差し込む夕陽が、畳に細い筋を描く。

そこに端然と座していたのは、白髪まじりの髷を結い、深き威厳を漂わせた男であった。

山本覚馬。

彼は静かに正座し、客を待つ姿勢を崩さぬまま、目を細めてこちらを向いた。

だがその双眸は、かつての切れ味を失っていた。

白い靄がかかり、焦点は合わず、虚空を見つめている。

戦火の煙と火薬の刺激で、持病の白内障が急激に悪化したことは明らかだった。

古賀は深く膝を折り、額を畳に近づけるほど頭を下げた。

「覚馬殿。このたびは、突然のお願いをお許しください。禁門の変で……ご眼の具合がさらに悪化されたと伺いました」

覚馬は短く笑った。

その声音には老練の余裕と、どこか諦念が混じっていた。

「……さすがは新選組の古賀殿。噂に違わぬ洞察よ。あの戦火で残された光も曇った。煙と火薬の匂いが、瞳の奥に巣食い、もう景色は霞んでしか見えぬ」

古賀は心臓を締め付けられる思いだった。

かつて戦場を共にした沖田総司の病のことが、脳裏に過った。

またしても、大切な人材を失うのか。そんな恐怖が胸を満たした。

「覚馬殿……どうか、ご自愛ください。この国の行く末を考える時、貴方のような方を欠くことは……幕府にとっても、我ら新選組にとっても、計り知れぬ損失なのです」

覚馬はしばし沈黙し、やがてゆっくりと顔を上げた。

白濁した瞳は光を映さぬはずなのに、その奥には確かな炎が宿っていた。

「古賀殿……人は病み、やがて命を落とす。それは抗えぬ理だ。だが、学びと理想は死なぬ。たとえ視界を失おうとも、儂が積み重ねた知は残る。この国を憂い、この国を救う志ある者がいる限り、道は続く」

低く響くその言葉は、古賀の胸にずしりと突き刺さった。

「……それにのう」

覚馬は微かに笑みを浮かべ、白濁の瞳を古賀へと向けた。

「お主のような若者がいる限り、会津も、新選組も、この国も……まだ未来を捨てるには早い」

古賀は言葉を失い、ただ深く頭を垂れた。

胸の奥で、己の決意が強く固まっていくのを感じる。

――絶対に、この人を護る。

――絶対に、この人の知と理想を活かす。

夕陽は西に傾き、障子の桟を朱に染めていた。

古賀隼斗は深く息を吸い込み、胸に渦巻く想いを押し留めながら、座を正した。

「覚馬殿……厚かましいお願いと重々承知の上で申し上げます」

声は静かであったが、その一音一音は鋼のように揺るぎなかった。

「どうか、新選組の――砲術師範をお引き受けいただけぬでしょうか」

その言葉が放たれた瞬間、空気が張り詰めた。

障子越しに差し込む赤光が、白濁した覚馬の瞳を照らし、まるで沈黙そのものが形を持ったように部屋を包み込む。

覚馬は表情を崩さぬまま、低く問い返した。

「……砲術師範、とな」

古賀は迷いなく頷いた。

「はい。新選組は剣をもって京を護ってまいりました。ですが――剣だけではもはや時代に抗えませぬ。薩長はすでに銃を揃え、砲を操り、西洋の兵学を取り入れております。剣の力だけで挑めば、我らは必ずや呑み込まれる。だからこそ、砲術と兵学を学び、変わらねばならぬのです」

畳に拳を突き立てるような勢いで言葉を吐く古賀の瞳は、燃え盛る炎のように熱かった。

「覚馬殿――その知を、我らに貸していただきたい。新選組をただの人斬り集団で終わらせぬために。民を護る刃であり続けるために。どうか……どうか御助力を」

覚馬は長く目を閉じた。

静寂。

やがて吐き出された溜息は、まるで長年背負ってきた重荷の音のように響いた。

「……古賀殿。儂の目は曇り、戦場に立つことは叶わぬ。白き靄がこの瞳を覆い、世界は霞んでしか映らん。だが――知は残っておる」

白濁した瞳が、確かに古賀を射抜いた。

「砲の構造、射程、陣形の布き方、戦場での応用……積み重ねた理は、まだ胸に息づいておる。それを必要とする者がいるならば、伝えぬ道理はない」

古賀は頭を垂れ、拳を畳に押しつけた。

「覚馬殿……感謝に堪えません。このお力があれば、新選組は必ず変わります」

覚馬は小さく笑んだ。

その笑みは決して弱々しくなく、むしろ確かな光を放つものだった。

「忘れるなよ、古賀殿。砲も剣も、人を殺める道具に過ぎぬ。それを振るう者が、何を護り、何を目指すか――そこにこそ価値がある。お主は、その意味を知っているゆえに儂の前に来たのであろう?」

古賀は深く頷き、胸の奥から言葉を絞り出した。

「はい……必ず、この命に刻みます」

その瞬間、二人の間に結ばれた縁は、ただの師弟を超えたものとなった。

それはやがて、新選組の未来を形づくる大きな礎――時代を動かす火種へと育っていく。

夕陽は完全に沈み、薄闇が部屋を包む。

だが古賀の胸の内には、確かに一つの光が灯っていた。


旅路の途上、東海道を行く一行は小さな茶屋に足を止めていた。

軒先には赤い暖簾が風に揺れ、竹筒の風鈴が涼やかな音を奏でている。

行き交う旅人のざわめきも、この茶屋の空気だけはどこか和やかで、時の流れが緩やかに感じられた。

古賀隼斗は木卓に腰を下ろすと、懐から一通の封書を取り出した。

封を切り、墨痕鮮やかな筆跡が目に映った瞬間、古賀の胸はきゅうと締め付けられた。

――沖田総司。

その名だけで、幾度となく戦場を共にした記憶が蘇る。

文を追うごとに、緊張で固くなっていた心が、少しずつほどけていった。

『病は快方へ向かっております』

その一行は、乾ききった荒野に降る慈雨のようだった。

池田屋、禁門の変と、相次ぐ戦の最中で古賀の胸にずっと刺さっていた棘。

あの剣客が床に伏す姿を思い出すたび、心臓を掴まれるような痛みに襲われてきた。

――失うかもしれない。

それは戦で死を覚悟するよりも、はるかに重く、耐えがたい恐怖だった。

だが今、この手紙は告げていた。

彼は少しずつ立ち直りつつある。

笑いながら「早く剣を振るいたい」と綴っている。

老医に叱られるのを怖がり、半ば戯けている。

その様子が目に浮かぶだけで、涙が込み上げそうになった。

「……良かった、本当に……」

声は掠れ、湯気のように消えていった。

緊張で強ばっていた肩が、静かに落ちる。

浅葱色の羽織の奥、胸の鼓動がひとつ、安らぎを取り戻す。

戦乱のただ中にあっても、こうして一人の命が快方へ向かう。

それは決して大きなことではない。

だが古賀にとって、それは戦で得たどんな勝利よりも尊く思えた。

彼は静かに目を閉じた。

浮かぶのは、あの無邪気に笑う少年のような眼差し。

その眼差しが再び曇らぬように――

古賀は己の胸に、固く誓いを刻んだ。


だが、その安らぎの時はすぐに破られる。

「その串は俺のだ! 返せ、久坂!」

「ははは、副長殿。戦場で散々勝ちを攫ったお方が、団子一串にまで欲を出すのか?」

隣の卓では、土方歳三と久坂玄瑞が真剣な面持ちで団子を挟み合っていた。

皿の上に残るのは、最後の一本。

照り焼きのタレに照らされたそれは、まるで戦場の大旗のように、二人の意地を煽っている。

箸と箸が交わり、ぱちん、と小さな音を立てるたびに、茶屋の女中たちはひやひやと視線を交わした。

副長と長州の俊才が、団子を巡って子どものように争うなど、誰が想像できただろう。

「こ、こら! 団子一つで……!」

古賀は思わず制止の声を上げかけた。

しかし、それを遮ったのは別の声音だった。

「……外でやれ。見苦しい」

低く、冷え切った声。

斎藤一である。

腕を組み、壁にもたれ、半眼のまま二人を睨んでいる。

無表情ながらも、その視線には氷の刃のような冷たさが宿り、土方も久坂も一瞬だけ箸を止めた。

だが、その沈黙は束の間だった。

「ふん、言われて黙る俺じゃねえ!」

「ははは、勝負はここからじゃ!」

結局、二人は団子を真ん中から無理やり引き裂き、互いに勝ち誇った顔をするのだった。

古賀は頭を抱えた。

安堵に浸る間もなく、また騒がしい現実に引き戻される。

だが――心の奥では、なぜか笑みが零れていた。

(……沖田さん。貴方が快方に向かっていると知れたのは、何よりの救いです。

だがこちらもこちらで、実に手のかかる連中ばかりで……)

茶屋の軒先に吹き込む涼風が、古賀の頬を撫でていった。

戦乱の世にありながら、こうしたひとときがあることこそ、人の縁の不思議であり、何よりの強さなのだろう。

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