第3章
夜更けの屯所。
月光が障子の隙間から射し込み、薄明かりの中に三人の影を落としていた。
沖田総司は柔らかい笑みを浮かべ、湯呑を傾けている。
斎藤一は寡黙に正座し、鋭い眼光を隼人へと向けていた。
古賀隼人はただ、その視線に胸を締めつけられながら座していた。
「古賀さん」
沖田が穏やかに口を開く。
「あなたの剣は皆が信じています。少しくらい調子を崩しても、気にすることはありませんよ」
その声はいつもと変わらず、春の風のように温かかった。
だが、すぐに重い沈黙が落ちた。
「……それは違う」
低い声が割った。
斎藤一の声音だった。
月光を宿した双眸が、真っ直ぐに隼人を射抜く。
「お前の剣は、確かに強かった。俺はそれを認めている。
だが最近のお前は何だ? 迷いに沈み、刃の冴えを自ら鈍らせている」
その声は低く、夜の静寂を切り裂く刃の音に似ていた。
言葉は冷ややかでありながら、一片の虚飾もなく、ただ真実を突きつける。
隼人の胸は凍りついた。
喉は塞がれ、呼吸さえままならない。
――認められていた。
斎藤一ほどの剣士が、自分の力を「強かった」と過去形で評した。
それは誇りではなく、痛烈な悔恨として胸にのしかかった。
斎藤はさらに続ける。
「俺は惜しいと思っている。だからこそ、今のお前を見ていると腹立たしい」
その言葉には怒気ではなく、苛烈な真剣さが宿っていた。
仲間を軽んじる者に向けられる刃ではない。
己が信じた者が自らを貶める、その姿にこそ彼は怒っていた。
冷たく突き放すように聞こえた声音の奥に、隼人は確かな熱を感じ取った。
――自分を本気で見ている。
だからこそ、甘さを許さず、迷いを断ち切れと迫ってくる。
その真剣さが、隼人の心を抉り、同時に揺さぶった。
斎藤一の言葉は、冷徹に見えてなお「期待」という炎を孕んでいたのだ。
斎藤一の足音が遠ざかり、部屋には沈黙が落ちた。
残されたのは沖田総司と自分、二人きり。
だが、沖田の存在は光のように穏やかで、斎藤の残していった冷たい刃のような言葉と鋭く対照をなしていた。
胸が痛んだ。
斎藤の叱責は、迷いを斬り裂くように鋭く、隠していた自分の弱さを容赦なく暴いた。
あの冷たい視線の奥にあったのは、期待――それがわかるからこそ苦しい。
自分はその期待に応えられない。
そもそも、自分はこの時代に「いるはずのない人間」なのだ。
なぜここにいるのかも分からない。
気づけば幕末に投げ込まれ、古賀隼人という名の隊士として扱われている。
だが、それは自分が知る「剣に秀でた兵の古賀隼人」ではなく、医学生であり、剣を学んだことすらない異形の存在にすぎない。
斎藤の「強かった」という言葉が、虚ろな皮肉にしか聞こえず、心を裂いた。
未来の記憶が、ひときわ重くのしかかる。
新選組が辿る悲劇の末路。
会津が地獄に沈む光景。
祖母の涙――「誰も会津を救ってくれなかった」という悲嘆。
そのすべてを知っているからこそ、ここで刃を振るうことが、自分にとってどれほどの意味を持つのかさえ見失いかけていた。
喉が熱く、視界が滲む。
こぼれた涙は、答えのない問いを形にするかのように頬を伝った。
――自分は何をしたいのか。
――この時代で、何をすべきなのか。
わからない。
ただひとつ、未来が破滅へと流れていくことだけは確かだった。
そんな迷いの渦の中で、思い出す光景があった。
市中巡察の折、子どもたちに囲まれ、竹刀を振る真似をして見せていた沖田総司の姿。
無邪気に笑う声。
その周りで歓声をあげる子どもたちの瞳は、暗い京の町に差し込む光のようだった。
――この人は、どうして笑えるのだろう。
――なぜ血と死に囲まれながら、あんなふうに人に寄り添えるのだろう。
沖田総司という存在の謎が、心を強く揺さぶった。
斎藤一の言葉が胸に突き刺さったまま、その疑問だけが鮮烈に浮かび上がる。
気づけば、唇が震えていた。
「……沖田さん」
隼人は涙を拭うことなく、ただその名を呼んだ。
そして胸の奥から溢れ出す想いを抑えきれずに問う。
「……あなたは、どうして新選組で戦うんですか?」
月明かりが障子を透かし、二人の影を白く浮かび上がらせていた。
問いを投げた隼人は、濡れた瞳でただ沖田を見つめていた。
しばしの沈黙ののち、沖田総司はふっと微笑む。
「……理由ですか」
その声音は軽やかだったが、眼差しは凛として澄んでいた。
「私は武士です。武士として、主君に仕え、義を尽くす。
新選組は京を乱す浪士を討ち、秩序を守るためにある。
剣を取る者として、それは当然の務めでしょう」
その言葉には揺るぎない理想が宿っていた。
だが沖田は、そこで少し目を伏せ、静かに続けた。
「……でも、それだけじゃありません」
隼人の胸が強く脈打つ。
「古賀さんも見ましたよね。巡察のとき、子どもたちが寄ってきて、竹刀を振り回して笑っていたあの光景を」
沖田の声は柔らかく、どこか遠い記憶を懐かしむようだった。
「子どもたちは怖いもの知らずで、いつも私に懐いてくるんです。
竹刀を持てば『やらせてくれ』とせがむし、休憩すれば裾を引っ張って遊びに誘う。
名前も覚えられてしまってね……『沖田のお兄ちゃん』と呼ばれることもあります」
淡い笑みが浮かぶ。
「京の町は血の匂いに包まれているのに、あの子たちの笑顔は何よりも澄んでいる。
だから私は剣を振るいます。血にまみれてでも、あの笑顔を守るために。
……それが、私にとっての義なのです」
飾らない言葉だった。
だが武士としての理想と、人としての優しさがひとつに溶け合い、隼人の胸を深く貫いた。
――未来を知る自分には、その笑顔がいかに儚いものかもわかっている。
――だが今、沖田総司は確かに「守りたい」と言った。
涙は止まらなかった。
悲しみと同時に、胸の奥で新たな何かが芽吹いていた。
この時代に投げ込まれた異形の自分にとって、それは初めて掴みかけた「居場所の光」だった。
頬を伝う涙が畳に落ち、音もなく滲んでいった。
だがその雫は、ただの悲しみの証ではなかった。
胸の奥で絡み合っていた二つの時代の記憶が、ついに堰を切って溢れ出したことを告げる、ひとつの徴であった。
隼人は震えた。
心臓を握り潰されるような圧迫感に襲われ、視界は揺らぎ、音は遠ざかる。
目の前にあるはずの沖田総司の姿も、月明かりに照らされた障子も、霞の向こうへと溶けていった。
――その闇の中に、もう一人の「古賀隼人」が立っていた。
彼の動きは淀みなく、迷いの影を一片も見せぬ。
刃は流れる水のごとく冴え、斬撃は雷鳴のように鋭い。
新選組の仲間が知る「兵の剣士」としての古賀隼人。
本来ならば歴史の中に刻まれているはずの、しかし現実には存在しなかった幻影。
――これは誰だ?
――なぜ、この記憶を俺は知っている?
声なき叫びが胸を突いた。
だが答えは返らず、ただ幻影の剣豪は黙然と太刀を振るい続ける。
その姿が、隼人の血の奥へ、骨の髄へ、記憶の深層へと溶け込んでいく。
喉が焼ける。
肺が軋む。
涙は止まらず、それでも意識は研ぎ澄まされていった。
未来を生きた「医学生・古賀隼人」。
患者の命を預かり、震える手を押さえながら処置に臨んだ日々。
冷静さを保とうとしながら、幾度も無力を思い知らされた青春。
歴史に刻まれた「剣豪・古賀隼人」。
迷いなく刃を振るい、仲間の先頭に立ち、敵を圧倒する剛毅な兵。
新選組の誰もが頼りとした剣士の幻。
その二つが、涙と共に重なっていく。
理性と剣気。
冷徹な観察眼と、戦場を生き抜く直感。
まるで水と油が渦を巻き、やがて一滴の珠となるように、異なる二つの存在が一つの器に収束していった。
刃を握る感覚が変わっていく。
今まで異物でしかなかった刀が、まるで自らの延長であるかのように馴染む。
刀身の重み、風を切る音、踏み込みの呼吸――そのすべてが初めて「自分のもの」として感じられた。
隼人は理解した。
自分はただの迷い人ではない。
過去に捩じ込まれた異物であると同時に、未来と歴史を繋ぐ唯一の存在なのだ。
「……俺は……」
言葉はまだ形を成さず、震える声として夜に零れた。
だがその声には、迷いと共に、確かに芽生え始めた意志が宿っていた。
月光が刀を照らし、煌めきは闇を切り裂く道標のように隼人の胸を貫いた。
この瞬間、彼は初めて「二人の古賀隼人」を併せ持つ者となった。
医学生の冷静な眼差しと、剣豪の冴えた太刀筋。
未来を知る者の苦悩と、歴史に名を刻む者の胆力。
そのすべてを抱えた、唯一無二の新選組隊士――古賀隼人が、ここに誕生したのである。
二つの古賀隼人が融合したとき、胸の奥で新たな問いが立ち上がった。
それはかつて沖田総司に投げかけた問い――
「なぜ新選組で戦うのか」。
今度は、自らに向けられた。
――武士として。
主君に尽くし、義を貫き、剣を執る。
それが「剣豪・古賀隼人」としての答えであった。
だが、それだけではない。
心に残り続けていたのは、沖田総司の飾らぬ言葉。
「子どもたちの笑顔を守りたい」――あの無邪気な声と澄んだ眼差し。
その記憶が、何度も胸の内で繰り返されていた。
未来を知る自分には、やがてその笑顔が消え去る運命が見えている。
だからこそ、その言葉は重く、痛烈で、同時に温かかった。
「古賀さん? 大丈夫ですか?」
沖田の声が現実へと引き戻した。
不安げにのぞき込む眼差しが、月光を受けて煌めいている。
その優しさに触れた瞬間、隼人の胸に一本の道が開けた。
――過去と未来、二人の古賀隼人が導き出した答え。
それは、このまま絶望の末路へと沈んでいく新選組と会津の運命を、必ず変えるということ。
隼人は沖田の視線を真っ直ぐに受け止め、そっと微笑んだ。
その微笑みには、もはや迷いはなかった。
過去から受け継いだ剣と、未来から抱えた記憶。
すべてを携えて、古賀隼人は己の使命を見据えた。
――歴史を変える。
それは容易ではない。
しかし、あの笑顔を守るために、自分は剣を振るう。
月下、二人の眼差しが交わる。
その瞬間、古賀隼人の中で揺らいでいたすべてが静かに結晶し、確かな決意となった。