第28章
久坂玄瑞は、牢屋敷に据えられた木椅子に深く腰を落とし、両の手を膝に置いたまま、重く俯いていた。
仲間には裏切り者と罵られ、己の信じる大義は誰からも受け入れられぬ。胸に去来するのは悔しさと、どうしようもない孤独だった。
その時――ひやり、と首筋に冷たいものが押し当てられる。
「ひゃっ……!」思わず身を跳ね上げた久坂は、驚きのあまり目を見開いた。
「……驚かせてしまいましたか」
涼しい顔で湯飲みを握っているのは古賀隼斗だった。その隣には、無言のまま佇む斎藤一の姿もある。
「牢の隣の団子屋で団子とお茶を買ってきたんです。三人で食べましょう」
そう言って、古賀は竹串に刺さった団子を差し出した。
斎藤一は黙って手を伸ばし、ひょいと団子を取り、無言のまま口に運ぶ。表情を変えず、黙々と咀嚼するその様子に、久坂は一瞬呆気に取られ、思わず吹き出しそうになった。
「ほら、久坂殿も」
古賀は久坂の隣に腰を下ろし、自分の団子を一口かじる。ほんのり甘い香りが牢屋敷の冷たい空気を和らげた。
差し出された団子を受け取り、久坂も口にする。もちりとした食感と甘辛い味わいが舌に広がると、不思議なことに胸の重苦しさがわずかに解けていった。
「……かたじけない」
そう呟きながらも、久坂の頬には自然と微笑みが宿っていた。
古賀は団子を置き、しばし沈黙したのち、ふっと息を吐いた。
「……承知のこととは思いますが」
言葉を紡ぐ声音は落ち着いていたが、その奥底に確かな熱を孕んでいた。
「大義は人それぞれです。己が信じる旗を掲げ、命を懸けて進む者もいれば――ただ己の私欲を満たすために動く者もいる。それは幕府方だろうと倒幕派だろうと、何ら変わりはありません」
久坂玄瑞は真剣な面持ちで古賀を見つめ、唇を引き結ぶ。
「皆が違う大義を持っているからこそ、論争が生まれる。時に、それが殺し合いにまで発展する……今の世は、まさしくその只中にあります」
古賀の視線はまっすぐに、久坂を捉えて離さなかった。
「分かり合えぬからこそ、対話を重ねる。それが最善だと、私も思います」
一瞬、言葉が切れた。だがその眼差しは揺るがない。
「しかし――」
古賀は左の拳を強く握りしめた。
「仲間を、民を、大切な人を傷つける輩がいるなら、私は戦います。例え相手を斬り殺してでも」
牢屋敷の空気が一瞬、張り詰めた。
古賀の声音は静かであったが、そこには血を吐くような覚悟が宿っていた。
久坂玄瑞は小さく震え、やがて目を伏せる。
その胸の奥に、否応なく熱が流れ込んできた。
「……お主という男は」
呟きは、涙を堪えるように震えていた。
古賀は言葉を切らず、まっすぐな声で続けた。
「……でも、私は理想を捨てません」
その瞳には迷いがなかった。
「たとえ泥にまみれ、埃に塗れようとも――民が笑い、仲間が安心し、大切な人が喜んでくれる日が来るまで、私は歩みを止めない」
牢の中に光が射し込む。その淡い陽光が古賀の横顔を照らし、まるで誓いそのものを刻むように輝いていた。
「だから、久坂殿も己が信念を強く持ってください」
古賀の声は、まるで願いのように震えていた。
「貴方の抱く信念は、決して戯言ではない。少なくとも――私はそう思います」
静寂。
その一言に、久坂玄瑞の胸の奥で、熱く張り詰めていたものがふっと緩む。
彼女の唇が震え、瞳がわずかに潤んだ。
「……お主は」
声が掠れる。
「なぜ、そこまで……儂の理想を信じてくれる……?」
古賀は答えなかった。ただ、穏やかな眼差しでその涙を受け止める。
それだけで十分だと、互いの心が告げていた。
夜の屯所。
日中の喧騒はすでに去り、虫の音が庭先に響き渡る。灯明に照らされた一室で、三人の影が揺れていた。
畳の上に正座する古賀隼斗。その正面には、静かに腕を組む近藤勇と、扇子を片手に鋭い視線を投げかける土方歳三が座していた。
座敷の空気は、張りつめた弦のように緊迫している。
古賀は深く一礼すると、口を開いた。
「……局長、副長。僭越ながら、この場をお借りし、一つ進言いたしたく存じます」
土方が目を細め、扇子を畳に置く。
「ほう、進言だと? 池田屋、禁門の変を生き抜いた男の言葉だ。無碍にはせん。申してみろ」
古賀の胸に渦巻く熱が、言葉となって放たれる。
「――新選組の近代化でございます」
一瞬、灯明の火が揺らぎ、畳の間に落ちる影が深く伸びた。
近藤も土方も無言のまま、ただ古賀の言葉を待つ。
「池田屋において、我らは剣をもって勝利を掴みました。禁門の変においても、血路を切り拓き、京都の町を守り抜きました。しかし……」
古賀は静かに拳を握りしめる。
「時代はすでに変わりつつあります。敵は洋式銃火器を大量に備え、やがてその矛先を幕府方へと向けるでしょう。どれほど剣の腕が立とうとも、鉄と火薬の奔流には呑まれる。歴史がそれを証明しているのです」
土方の眼差しが鋭く光る。
「……お前の言い分はもっともだ。だが銃を揃えるには大金が要る。訓練も新たに施さねばならん。新選組はただでさえ財政難だ。飯代と刀の手入れだけで手一杯の組織に、それだけの余裕があるとでも?」
突きつけられたのは現実。土方の声には冷徹な理があった。
だが古賀は怯まなかった。
「承知しております、副長。それでもなお、進めねばなりません。必要であれば、私自ら松平容保公に直訴いたします。新選組の近代化は、会津藩そのものの近代化にも繋がるはず。ここで立ち止まれば、必ずや敵に呑まれる……そうなれば、我らは必敗」
近藤が腕を組み、黙考した。影が濃く、表情は読み取れない。
やがて、低く、しかし確かな声が響いた。
「……隼斗。俺はてっきり、お前は理想ばかりを追い求める侍だと思っていた」
その声には嘲りではなく、静かな敬意が滲んでいた。
近藤は腕を解き、真っ直ぐに古賀を見据える。
「だが今の話を聞いて分かった。お前は夢を語るだけの男じゃない。現実の冷たさも、泥に塗れた人の世も、しっかりと見据えた上でなお理想を口にしている。……それは並の侍には出来ぬことだ」
古賀の胸に熱が広がる。
だが近藤は続けた。
「松平容保公への掛け合いの件――それは俺と副長で引き受けよう。お前ひとりに背負わせはせん。新選組の未来を拓くのは、お前の責務であると同時に、俺たちの責務でもあるからな」
言葉と同時に、近藤の声は不思議な温かさを帯びていた。
その声は、剣で人を斬ることに慣れた局長ではなく、仲間の夢を共に支えようとする一人の侍の声だった。
土方もまた、黙したままではあったが、扇子を閉じて膝に置き、深く頷いた。
それは言葉より雄弁に、古賀の提案を認める合図であった。
座敷の灯明が揺れ、三人の影が重なる。
その影は、新選組の過去と未来とを繋ぐ誓いの証のように見えた。
近藤はしばし沈思の後、ぐっと身を乗り出した。
灯明の炎がその顔を照らし、影を濃くする。
「隼斗……近代化と申すなら、具体の策を示してみよ。どのように新選組を変えるつもりだ?」
その声音は重く、試すような響きを帯びていた。
横に座す土方の眼もまた鋭い。局長と副長、二人の視線を受けた古賀は、静かに息を整えた。
「承知しております」
声は揺れなかった。
古賀は正座を正し、低く、しかし確かな口調で語り始めた。
「まず第一に――銃の装備でございます。今や薩摩、長州は洋式銃を揃え、剣では到底及ばぬ戦いを挑んでくるでしょう。ゆえに我らも、全隊士にエンフィールド銃、あるいは可能であればスナイドル銃を標準装備させるべきと考えます」
近藤と土方の瞳がわずかに光を増す。
古賀は続けた。
「第二に――射撃術の習得。剣術と同じく、稽古の体系に組み込み、隊士らが剣も銃も自在に扱えるように致します。加えて隊列の整備、戦場における火力運用を徹底させ、もはや『剣の徒』ではなく、『剣も銃も兼ね備えた部隊』へと変革するのです」
言葉が熱を帯びる。
古賀の胸奥に燃える理想が、その声を押し上げていた。
「第三に――市中警護の体制を改めます。従来の“斬って脅す”のではなく、“武で守る”という姿を民に示す。銃を持つのは恐怖のためではなく、秩序を守るためであると。そうしてこそ、新選組は真に民の信を得られるはずです」
座敷に沈黙が訪れた。
近藤は腕を組み直し、深くうなずくでもなく、眉をひそめるでもなく、ただ重く受け止めるように聞いていた。
土方は扇子を指先で弄びながら、口元にわずかな笑みを浮かべる。
やがて、近藤の声が再び響いた。
「……なるほど。夢物語ではなく、現の策か。剣に頼らず、剣を活かしつつも新たな道を拓く……。隼斗、お前の言葉、確かに聞いたぞ」
土方もまた、扇子を静かに置き、鋭い目を古賀に向けた。
灯明がぱち、とはぜた。
近藤は腕を組んだまま視線を落とし、短く息を吐く。
「……よかろう。会津にはもちろん、幕府にも俺と副長で掛け合う。だが――問題は、断られた時だ」
顔を上げる。座敷の空気が一段と張り詰めた。
「隼斗。自前で用意する“宛”はあるのか?」
言葉は低いが、逃げ場のない直球だった。
古賀は膝頭に置いた拳を固くしめる。銃、火薬、雷管、訓練場、費用、保管場所――現実の勘定が、冷水のように胸を打つ。
「……今のところは……」
正直に続けようとしたその時だった。
ことり――。
襖が指先ほど滑り、夜気とともに微かな香が流れ込む。
影が一枚、畳に落ち、ふわりと座敷へ歩み出る。
「――その“宛”、もし儂が用意できると言ったら?」
艶やかな声。現れたのは、褐色の肌に凛とした眼差しを宿す久坂玄瑞であった。
土方の目が鋭く細まる。手はすでに脇差の鯉口へ。
近藤がわずかに首を振り、制した。
久坂は古賀の隣に静かに膝をつき、一礼して顔を上げる。
「古賀隼斗。儂の知る商人筋に、異国銃を密かに扱う者がいる。長崎で船荷を受け、大坂で割いて内陸へ上げる筋だ。まずは訓練用に二十挺、弾薬と雷管も揃う。手筈が整えば、ひと月内に百挺まで増やせる」
土方が低く笑った。「長州の名で、幕府方に鉄を流すってか。命を捨てる覚悟はできてるんだな」
「覚悟は、とうに」
久坂の声は澄んでいた。
「民を守る武は、旗の色に依らぬ。――それに、儂は約を違えるのが何より嫌いでな。命を賭して儂を庇った侍に、返すものがある」
一瞬、古賀の喉が鳴る。熱が頬に昇るのを、どうにもできない。
近藤はそのやり取りを黙って見つめ、やがて土方へ目配せした。
「段取りを聞こう」土方が畳みかける。「受け渡しの場所、日取り、代価、証文、責任の所在。曖昧は許さねぇ」
久坂は即答した。
「初手は“試し”で二十挺。代は銀で三割先払い、残りは受け渡しで。場所は淀の水運問屋の米蔵裏――二更過ぎ、人目の絶える刻。荷は茶箱と薬箱の偽装、印は“桂”の片押し。証文は商人名を伏せた二重書付、誓紙は儂が認める。責はこの久坂が負う」
土方の扇子が、ぱちんと閉じられた。
「言うじゃねぇか。――近藤さん」
近藤は静かに頷き、古賀へ向き直る。
「隼斗。近代化の口火は切れるかもしれん。だが銃は“持てば強い”代物じゃない。運用と規律が骨だ。訓練の仕組み、保管の警固、弾の算段……お前の“形”を見せてみろ」
古賀は深く頭を垂れた。
「はっ。射撃稽古を日課に組み込み、三十人規模の“鉄砲組”をまず編成します。弾薬庫は屯所裏手に土蔵を新造、見張りは交代で二名。訓練は私が責を負い、運用の采配は土方副長の指示に従います」
土方が鼻を鳴らす。「言ったな。ならば選り抜きの面子は俺が弾く。腰の軽いのは外す。命の軽いのも外す。弾は戻らねぇが命は戻らねぇ」
近藤は大きく一度頷き、久坂へと向き直った。
「承った。久坂殿、その“試し”を受けよう。ただし――」
言葉を切り、局長の瞳が武辺者の光を帯びる。
「もし裏切りがあれば、新選組は総力で斬る。相手が誰であろうとだ」
久坂は一寸も怯まぬ微笑を返した。
「承知の上だ、局長殿。――約は守る」
灯明がまた小さく、ぱち、と鳴った。
三つの影が畳に重なり、やがて別々の方向へと伸びていく。
未来という名の暗がりへ、その第一歩が刻まれた。