第26章
夜の闇がわずかに退き、東の空が薄紅に染まり始めた頃。
壬生屯所の道場には、既に二人の影があった。
木刀と木刀が鋭くぶつかり合うたび、乾いた音が板張りの壁に反響し、静寂の朝を震わせる。
片や「無敵の剣」と恐れられ、冷徹なまでの無心で剣を振るう男。
片や、隻腕でありながら幾多の死線を越え、新選組一番隊組長代理として立つ古賀隼斗。
互いに無言のまま、ただ木刀の音だけが道場を支配していた。
古賀の額から滴る汗は稽古だけのものではない。
池田屋事件、禁門の変――その記憶が未だ鮮明に焼き付いている。
血に染まった京の町、炎に包まれる屋敷、泣き叫ぶ子どもを抱き締めた久坂玄瑞の姿。
そして、自らの刃で防ぎ切った死闘の数々。
「……ふっ」
斎藤の木刀が唸りを上げて振り下ろされる。
古賀はそれを隻腕で受け止め、足運びで体勢を制す。
力ではなく理で、斎藤の一撃をいなすその動きに、冷徹な剣士の瞳が僅かに細められる。
「池田屋、禁門……地獄を潜ってなお、衰えていない。いや――」
斎藤はわずかに息を吐く。
「むしろ、お前の剣は冴えを増しているな」
古賀は答えず、ただ静かに木刀を構え直した。
――強くならねばならぬ。
その胸中に響く言葉は、もはや己の生き残りのためではなかった。
次に待ち受けるものを、彼だけは知っている。
それは外から迫る薩長の近代兵装だけではない。
新選組という組織そのものが、内側から引き裂かれる未来。
伊東甲子太郎――彼が現れ、御陵衛士を掲げ、同志が血で血を洗う日が訪れることを。
「……」
斎藤の木刀を弾き返しながら、古賀の胸に戦慄が走る。
己は未来を知りながら、その未来を断ち切る術を模索している。
剣で勝つだけでは足りない。
剣の時代は終焉を迎えつつある。
薩摩も長州も、既に洋式銃を手に入れ、兵制を改めている。
もし新選組が「人斬りの集団」であり続けるなら、いずれ呑まれ、消え失せるだろう。
古賀の胸中に浮かぶのは、隊士全員に銃を――エンフィールド銃、できるならスナイドル銃を標準装備させたいという構想。
だがそれを成すには莫大な資金、そして銃を扱う訓練、時代を先取る胆力が要る。
木刀の鍔迫り合いの最中、古賀の胸を貫くのは「己がまだ遠い」という焦燥だった。
剣も、未来も、すべてを掴み切るには力が足りない。
「……まだだ」
低く呟き、古賀は踏み込み、斎藤の木刀を弾き飛ばしかけた。
だが斎藤も即座に体勢を立て直し、冷ややかな声を落とす。
「お前は、まだ伸びる」
その一言に、古賀はわずかに眼を伏せた。
未来を知り、なお足掻く己の決意を、誰も知らない。
知るのは自分だけ。
池田屋、禁門の変――歴史は既に変わった。
だが、まだ終わりではない。
御陵衛士、鳥羽伏見、会津――。
数多の血戦が待ち受けている。
古賀隼斗は木刀を下ろし、朝の光を浴びながら深く息を吐いた。
未来を変える戦いは、まだ始まったばかりであった。
朝稽古を終え、斎藤一と共に食堂へ向かった古賀は、入り口からして異様な熱気を感じ取った。
笑い声と歓声が渦を巻き、まるで祝宴の最中のようだ。
「……妙だな」
斎藤が低く呟く。
古賀は怪訝な顔で戸を開ける――その瞬間、目を疑った。
そこには、浅葱色の羽織を身にまとい、袖を翻しながらくるりと舞う久坂玄瑞の姿があった。
まるで舞台の役者のように軽やかに一回転し、満面の笑みを浮かべている。
「どうじゃ、似合うであろう?」
その声に応じて、周りの新選組隊士たちは手拍子しながら大歓声を上げる。
「おおーっ!」「久坂殿、めちゃくちゃお似合いですよ!」
「こりゃ舞妓どころか芸者も顔負けだ!」
「いや、むしろもう“新選組の看板娘”だな!」
場は笑いに包まれ、すっかりお祭り騒ぎ。
誰も彼もが浮かれきっていた。
だがその光景を見た古賀は、額に青筋を浮かべ、ただ硬直する。
「……なにをやっているんだ、あの人は」
斎藤は呆れ顔で、ぼそりと一言。
「……芝居でも始める気か」
しかし当の本人――久坂は上機嫌そのもの。
「いやいや、これはな、正式に新選組に入る日の予行演習よ!」とおどけてみせる。
「入隊する気ですか!?」
古賀の声が思わず裏返った。
隊士たちは腹を抱えて笑い、さらに囃し立てる。
「玄瑞さん、1番隊にどうですか!」
「いや、古賀さんの補佐役でしょ!」
「むしろ古賀さんが補佐じゃねえの!?」
笑いと冷やかしに包囲され、古賀はついに頭を抱える。
「……頼む、せめてその羽織だけは返してください」
だが久坂は涼しい顔で袖を翻し、からかうように微笑んだ。
「返すのは簡単じゃ。――だがどうする? 古賀隼斗、儂を捕まえて取り返すか?」
挑発めいた声音。
その瞳は冗談めいていながらも、どこか楽しげに煌めいていた。
古賀は必死に冷静を装う。
(落ち着け……これはただの余興だ。浮かれる必要はない)
古賀は深く息を吐いた。
「……やはり返していただきます、久坂殿」
その言葉と同時に、彼はすっと足を踏み込み、袖を掴みにかかる。
しかし――。
「おっと」
久坂はまるで舞の稽古でもしているかのように、ひらりと身をひねった。
羽織の裾がふわりと舞い上がり、古賀の指先を空を切らせる。
「ほう、これが“鬼の一番隊組長”の動きか。だが遅いのう」
挑発的な笑みを浮かべ、くるりと一回転。
まるで女舞の所作を真似るかのように優雅だ。
「遅い……ですと?」
古賀のこめかみがぴくりと動いた。
「そうじゃそうじゃ。隻腕での奮闘、確かに見事。じゃが――この儂を捕まえられんで、どうする?」
にやりと笑みを浮かべ、久坂は片足を引きながら軽やかに間合いを外す。
周囲の隊士たちは手を叩いて大盛り上がりだ。
「いいぞ玄瑞殿!」「古賀さん頑張れー!」「勝ったら結婚だな!」
無責任な囃し立てに、古賀は真っ赤になった顔を必死で押さえ込む。
「……ふざけないでください。これは規律の問題です!」
「規律か。ならば――捕まえてみせよ。そうしたら大人しく返してやろう」
古賀が再び踏み込む。
久坂はその袖を翻し、足さばきも軽やかにかわす。
頬をかすめる香のような匂い、翻る浅葱色。
「――っ!」
古賀は不覚にも、その仕草の艶めかしさに一瞬心を奪われた。
久坂の笑みが一層深まる。
「……どうした? 目が泳いでおるぞ、古賀隼斗」
その挑発に、古賀の胸はかすかに高鳴った。
(いかん……これはただの羽織だ。ただの羽織を取り返すだけだ……!)
しかし、久坂玄瑞の舞うような動きと、挑むような視線に、彼の心は否応なく乱されていくのだった。
「古賀ァァァ!!!」
突如、雷鳴のごとき声が食堂に轟いた。
瞬間、ざわついていた隊士たちは硬直し、笑みを浮かべていた者もまるで氷像のように固まった。
振り返ると、そこには腕を組んだ土方歳三が立っていた。鋭い眼光はまさしく抜き身の刃。声を出しただけで食堂の空気を一変させる圧は、やはり副長その人であった。
「……は、はいっ!」
古賀は思わず背筋を伸ばす。
土方はずかずかと歩み寄り、古賀の目の前で仁王立ちした。
「古賀、お前……敵の長州者に隊服を着せて、皆で盛り上がっていたそうじゃねえか?」
「い、いえ、盛り上がったのは私ではなく周囲が……!」
「黙れッ!!」
土方の声が再び炸裂し、古賀はピタリと口を閉ざした。
「いいか古賀。新選組の隊服は命を懸けて守る旗印だ。敵も味方も関係ねぇ、浅葱色を纏った時点で“誇り”を背負うんだぞ! それを舞妓の小芝居みてぇにひらひら着せて、お前は何をやってやがったんだ!」
「そ、それは……取り返そうと……!」
「取り返そうと? 俺には追いかけっこしてるようにしか見えなかったぞ!」
「ひ、ひらりと……かわされまして……」
古賀が小さく絞り出すと、土方の眉間がさらに寄った。
「ひらりだと!? 貴様は舞踊の稽古でもしてたのか!」
その言葉に、周囲の隊士たちが一斉に肩を震わせる。必死に笑いを堪えていたが、中には口を押さえきれず「ぷっ」と噴き出す者まで現れた。
「……!」
土方の鋭い眼光がそちらへ飛ぶ。
「笑ってんじゃねぇ!!!」
場が再び氷点下に落ち込む。笑いを漏らした隊士は顔を真っ青にして口を閉ざし、古賀は額に冷や汗を浮かべながらただ立ち尽くすしかなかった。
「古賀ァ……」
低く唸るような声。
「お前は理想に酔って、時々現実を見失いやがる。隊士を守るのも、民を救うのも大事だ。だがな――浅葱色を軽んじた時点で、新選組は瓦解するんだ」
食堂に重苦しい沈黙が落ちた。
古賀は拳を握りしめ、深々と頭を下げた。
「……申し訳ありません」
その頭を下げる古賀の背を見つめながら、土方は小さく鼻を鳴らした。
「次に同じことをしたら……俺が真っ先にお前を斬る」
その言葉に、一同は凍り付いたまま息を呑む。
だがその直後、土方がわずかに口角を上げたことに気付いたのは、古賀だけだった。
――副長なりの叱咤と、信頼。
古賀は胸の奥にそう受け止め、改めて背筋を伸ばしたのだった。
浅葱色の羽織を翻し、古賀隼斗は街路を歩いていた。
その隣で久坂玄瑞は、頬をぷうっと膨らませ、不満を隠そうともしない。
「儂とて、もはや長州を脱藩したも同然ぞ。ならば新選組の羽織ぐらい、纏って何が悪い」
そう言っては、地団駄を踏む。
だが古賀は片手をひらひらと振って、力なく返す。
「はいはい」
「何じゃ! そのぞんざいな返事は!」
「……はいはい」
再び適当な相槌。
久坂は今にも髪を振り乱して怒り狂いそうな顔で、腕をぶんぶん振り回す。
そのやり取りを、少し離れて歩いていた斎藤一がちらりと見やり、ため息を落とした。
「お前ら……ここは屯所じゃない、市中だ。あまり騒ぐな。いつ長州の連中が牙を剥くかわからん」
低く冷えた声に、古賀も玄瑞も一瞬口を閉ざす。だが次の瞬間、久坂はまたむすっと口を尖らせた。
「……ならば尚更だ。羽織を纏えば、わしも市井の目からは新選組の一人と見なされよう。市中で浮かぬではないか」
「……はいはい」
「だからその返事はやめろと申しておろうが!」
地団駄が再び石畳を打つ。周囲の町人たちは恐る恐る振り返り、何事かと目を丸くするが、浅葱色の羽織が目に入ると一様に慌てて道を開けていった。
そんな騒ぎの最中、古賀の胸中には別の思惑があった。
――これから連れて行く先は、池田屋で捕縛した宮部鼎蔵と吉田稔麿の牢。
久坂が「どうしても会いたい」と聞かなかったのだ。
当然、土方副長は烈火の如く反対した。
「捕らわれの身にそんな自由を許してたまるか!」
だが久坂は、どこからか手に入れた松平容保の直筆許可状を懐から出して見せた。
副長といえど、容保の命令には逆らえない。土方は歯噛みしながらも渋々認めざるを得なかったのだ。
その経緯を思い返しつつ、古賀は深いため息を洩らした。
――食堂での騒動といい、この女は本当に新選組を振り回す。
だが横を歩くその姿に目をやると、久坂玄瑞は苛立ちを隠さぬままも、どこか誇り高く、美しい光を帯びていた。
古賀は無意識に視線を逸らす。
斎藤は肩をすくめ、刀の柄にそっと手を添えた。
こうして三人は、市中に張り詰める不穏な気配を纏いながら、牢へと歩みを進めていった。
夏の朝の光は澄んでいた。
石畳に響く三人の足音――浅葱の羽織を揺らす古賀、影のように歩む斎藤、そして頬をふくらませ小さな子どものように不機嫌を装う久坂玄瑞。
だがその背後に忍び寄るものは、確かに「血の匂い」であった。
古賀は軽く息をつき、肩越しに斎藤を振り返る。
「……しかし、斎藤さんまで同行されるとは。
久坂殿の護衛ならば、私ひとりで事足ります」
その声音には、どこか気負いを隠すような軽さがあった。
だが返答は容赦なく遮られる。
「違う」
低く、氷刃のように鋭い声。
古賀は思わず足を止めかけた。
「守るのは久坂玄瑞ではない。……お前だ、古賀」
風が一瞬止まったように感じられた。
久坂もまた歩みを止め、興味深そうに二人を見つめる。
「……私の護衛?」
古賀は目を見開いた。
「どういう意味ですか」
斎藤の眼差しは、剣の切っ先のごとくまっすぐだった。
「お前は池田屋で志士を斬り伏せ、禁門の変では敵の進軍を押し返した。
市中の人々はそれを“英雄”と呼ぶだろう。だが――」
そこで言葉を区切り、斎藤は淡々と告げる。
「長州や倒幕派にとっては、悪鬼羅刹そのものだ。
近藤でも、土方でもない。
いま最も恨まれ、狙われているのは……お前だ、古賀隼斗」
石畳に沈む言葉は、重く冷たい鉛のごとく古賀の胸に沈み込む。
英雄の姿は、同時に敵にとっての“最凶”の姿でもあった。
その二面性が、彼を容赦なく引き裂こうとしていた。
古賀の指先が無意識に震えた。
彼は今さらのように気づいた――自分が見てきた市民の笑顔、子どもから受け取った団子や饅頭、それを守るために剣を振るった自分の姿。
その裏側で、数えきれぬ怨嗟と憎悪が己に注がれていたことを。
沈黙を破ったのは、久坂玄瑞だった。
彼女はふっと笑みを浮かべ、柔らかに告げる。
「……だから言うたろう。儂とお主は違えど、同じく命を狙われる身なのだと。
敵と味方に分かれようとも、背負うものは同じよ」
その微笑みは艶やかでありながら、どこか哀しみに濡れていた。
古賀の胸に、言葉にし難い熱が込み上げる。
――英雄か、悪鬼か。
その答えを見出すことは、もはや彼自身に委ねられていた。
斎藤一の声音は、ますます鋼のように冷ややかだった。
静かに歩を進めながら、彼は古賀を横目で射抜く。
「それにな、古賀――」
低く抑えた声は、石畳の街路に吸い込まれるように響いた。
「お前は、河上彦斎と戦った。
そして、中村半次郎とも斬り結び……生き延びた」
古賀の胸がかすかに揺れる。あの修羅の夜を、灼けるような抜刀術の一閃を、思い出さずにはいられなかった。
だが斎藤は感傷に浸ることなく、言葉を畳み掛ける。
「河上も、中村も、幕末が産み落とした最強の“人斬り”だ。
その二人と死闘を演じ、生還したというだけで――敵にとっては化け物そのものだ」
淡々と告げられる声。そこには畏怖でも称賛でもない。
ただ冷徹な事実の指摘。
「分かるか?
お前が生きていること自体が、倒幕派にとっては悪夢なんだ。
連中は考えるだろう。――古賀隼斗がいる限り、我らに勝機はないと」
街のざわめきが遠ざかり、周囲の空気が重く圧し掛かるように感じられた。
古賀は思わず、隻腕となった右肩に視線を落とす。
刀を握る左手は震えてはいなかったが、その背後にある重責の影が濃くなるのを感じた。
久坂玄瑞が口を開く。
その声音はどこか優しく、しかし痛みを滲ませていた。
「……だからこそ、儂には見えるのだ。
お主の背に集うのは、民の期待と同時に、敵の怨嗟。
その両方を背負い立っておるお主の姿が……」
微笑む玄瑞の横顔に、古賀は言葉を失った。
英雄でありながら、同時に悪鬼として恐れられる――その宿命。
斎藤の冷徹な現実と、玄瑞の憐憫と。
二つの視線に晒されながら、古賀の心は静かに震えていた。