第24章
禁門の変――。
御所を巡る戦火は烈しく燃え、やがて京の町そのものを炎に巻き込んだ。
赤黒い煙が天を覆い、火の粉は夜を昼に変える。
人々は泣き叫び、荷を抱え、ただ必死に逃げ惑う。
母が子を呼び、子が親を探し、無数の声が炎に呑まれて消えてゆく。
史実の通りなら、ここで京は焼け野原となる。
だが――その炎の中に、一人の影が立った。
浅葱色の羽織を纏い、隻腕に刀を抱いた侍。
新選組一番隊組長代理、古賀隼斗。
命を救うための号令
松平容保からの命はただ一つ。
「市中の民を救え」
その言葉を胸に、古賀は叫んだ。
「聞け、一番隊! 救え! 女子供を抱えてでも逃がせ! 家財は捨てろ、命が先だ!」
声は炎を裂き、隊士たちの胸を震わせた。
かつて“壬生の狼”と恐れられた新選組が、この夜は“民の守り手”として動き出す。
隊士たちは泣き叫ぶ子を抱え、倒れた老人を背負い、炎の道を駆け抜ける。
「こっちだ! 生きろ!」
「走れ! 俺たちが守る!」
火消しとの共闘
そこに駆けつけたのは町火消しの男たちだった。
桶を抱え、鉦を鳴らし、炎に立ち向かう。
「新選組の兄ちゃんら! 手を貸せ!」
古賀は即座に応じた。
「よし、桶を回せ! 延焼を止めるんだ!」
刀を置き、水を運ぶ隊士たち。
剣を誇りとした彼らが、この夜は炎に立ち向かう人柱となった。
炎はなおも広がり、熱は肌を裂き、煙は喉を焼く。
だが新選組と火消しの共闘により、史実で灰となった街並みの半ばは救われた。
そこには――確かに“変わった歴史”が刻まれていた。
子どもの声
避難の最後尾。
すすにまみれた童が、古賀の裾を掴み、涙混じりに叫んだ。
「ありがとう……お侍さん」
小さな声だった。
だがその一言は、古賀の胸を深く貫いた。
恐怖の象徴、壬生の狼。
その名で怯えられ、忌み嫌われてきた新選組。
だが今――民の目に映るのは、違った。
炎に抗い、人を救う盾としての新選組だった。
古賀は童の頭にそっと手を置き、燃え盛る都を振り返った。
火の粉が舞い、夜空を焦がす。
だが、その瞳には迷いはなかった。
(――この町を、必ず守る。
誰一人、無駄に死なせはしない。
たとえ史書に名が残らずとも、命の灯火を護ることこそ、俺の戦いだ)
その誓いは炎を越えて、仲間へ、民へ、そして未来へと響いていた。
京の町を焼き焦がした戦火は、夜明けと共にようやく沈静の兆しを見せた。
だが、黒煙はまだ空を覆い、焦げた臭いが鼻を刺す。
倒れ伏す者、泣き崩れる者、瓦礫の中から必死に人を探す者――。
その混乱の只中に、新選組の浅葱の羽織が駆け回っていた。
「こっちだ! まだ人が残っている!」
「火消しを急げ! 桶を回せ!」
刀を携えた武士でありながら、彼らは剣を抜くよりも先に民を導き、炎を断ち切ることに奔走した。
それは命じられたことではなく、古賀隼斗が徹底して仲間に叩き込んだ方針だった。
やがて戦況が収束すると、会津藩や幕府の上層部に報せが届く。
「新選組、市中の避難に尽力」
「延焼を最小限に食い止め、被害軽減に大功」
「戦火のなかで民衆を守り抜く」
その報告に松平容保は深く頷き、土方や近藤もまた仲間の奮闘に誇りを隠さなかった。
新選組は「壬生狼」ではなく、今や「京を救った守護者」として評されたのだ。
しかし、その裏で敗れた長州や倒幕派の志士たちは憤激していた。
「民を守った? 笑わせる……奴らは幕府の犬にすぎぬ」
「古賀隼斗……あの隻腕の侍を討たねば、我らに未来はない」
彼らにとって新選組は、剣だけでなく「大義」をもって自分たちを圧した憎むべき存在となった。
古賀の名は恐怖と怒りと共に、敵陣営の口の端にのぼることになる。
だが最も雄弁だったのは、民の声だった。
「新選組に救われた」
「燃え盛る家から子を抱き上げてくれた」
「命を懸けて我らを守った」
母が涙ながらに語り、子どもが憧れの眼差しで武士の背を追う。
市井に生きる人々にとって、新選組はもはや恐怖の象徴ではなかった。
「守ってくれる者たち」 へと変わっていた。
仲間たちも民も、ただ「勝利」と「救済」を語った。
だが、未来を知る古賀は一人静かに思う。
――史実よりも被害は少ない。
――しかし、燃えた命もある。
――久坂玄瑞も、生き残った。
それは彼だけが知る“違和感”であり、決して他者と分かち合うことの出来ぬ影だった。
誰も知らない未来を背負いながら、古賀はただ一人、その果てしない孤独に立ち尽くしていた。
禁門の変から二日。
京の町にはまだ硝煙の匂いが残り、焦げた瓦の破片が風に転がっていた。
だが屯所の一角、静まり返った一室にて、古賀隼斗はただ黙々と新たな愛刀の手入れを続けていた。
刃は凛として冴え、今にも光を吐きそうなほど澄んでいた。
だがそれを映す古賀の瞳には、決して晴れやかな色は宿っていなかった。
そこに浮かんでいたのは、未来を知る者だけが抱く冷たい焦燥。
池田屋――禁門の変。
二つの大乱を経て、新選組は「壬生狼」から「京を護る守護者」へと姿を変えた。
市井の子どもたちは浅葱の羽織を見て駆け寄り、女たちは涙ぐみながら頭を下げ、町人は笑顔で道を開ける。
それは史実には存在しなかった未来。古賀が望んだ一つの形。
だが――その歓声に、彼の胸は決して安堵で満たされはしなかった。
未来を知るのは古賀ただ一人。
近藤も、土方も、沖田も、永倉も、斎藤も――誰ひとりその先の血の運命を知らない。
いかに剣を極め、忠義を尽くそうとも、
やがて薩長が手にする“鉄と火薬の嵐”には抗えない。
それが歴史の残酷な定めであった。
古賀の耳に甦るのは、銃声と共に散る仲間たちの声。
未来に見た地獄――炎に包まれた会津、屍となる新選組。
その記憶が、愛刀を磨く手を止めさせた。
「……エンフィールド銃を。いや、出来ることなら――スナイドル銃を」
低く呟いた言葉は、静かな部屋に溶けていった。
それは夢ではない。必然だった。
剣を捨てろというのではない。
だが刀のみでは、時代に呑まれる。
剣と銃――二つを揃えねば、新選組も会津も、やがて歴史に呑み込まれる。
だが問題は――どうやってその銃を手に入れるか。
幕府からの支給は望めぬ。
薩摩や長州が裏で操る武器商人に繋ぎもない。
未来を知りながら、ただ一人、その道を切り拓かねばならない。
古賀は刀を置き、膝の上で両手を組んだ。
誰にも告げられぬ苦悩が、胸を灼く。
「薩長が銃を揃える」――そう口にしたところで、誰も信じはしない。
むしろ「夢想」と笑われるか、狂人とさえ思われるだろう。
だが知っている。確かに未来はそこへと進むのだ。
ならば、己が孤独に歩むしかない。
隻腕の痛みが脈打つ。
それは“犠牲”の証であり、未来を変えるために残された唯一の誓約でもあった。
新選組を救うために。
会津を守るために。
京の町を火から護るために。
そして――久坂玄瑞のように“民を守ろうとする者”さえも救うために。
彼は心の奥で、刀より重い覚悟を握り締めた。
夜の帳が降り、提灯の灯が揺れた。
古賀は新たな刀を鞘に収め、静かに立ち上がる。
未来を知る者として、彼に迷いは許されなかった。
剣に加え、銃を――。
それこそが新選組を生かすための唯一の道。
だがその道は、孤独で、果てしなく険しい。
だからこそ、彼は静かに笑んだ。
「――この命、尽きるまでに成し遂げる」
その囁きは誰に届くこともなく、ただ夜風に溶けていった。
だが確かに、それは新選組の未来を変える最初の一歩であった。
愛刀を鞘に収め、静かに立ち上がったその時だった。
古賀の背に、柔らかくも鋭い声が降りかかった。
「……お主は、いつも何処を見ているのだろうな?」
驚きに振り返ると、そこに佇んでいたのは――久坂玄瑞。
戦火を逃れ、なお妖艶な輝きをまとったその姿は、炎に焦がされず咲き残った一輪の花のようであった。
「儂も、この国の行く末を憂いておるつもりだった。だが――」
玄瑞は薄く笑みを浮かべ、すっと近づく。
「お主は、儂とは違う“未来”を見ているように思えてならぬ」
その洞察に、古賀の胸が微かに揺れる。
未来を知るのは自分ひとり――誰にも明かしてはならぬ孤独な宿命。
だが、今目の前の女は、その核心に指先を触れようとしていた。
久坂玄瑞の身柄は、松平容保の命により新選組預かりとなっていた。
ただし、牢へ繋ぐことは許されなかった。
――禁門の変において、最後まで戦を退けようとしたこと。
――実際に刃を振るわず、戦闘には不参加であったこと。
――そして何より、子ども一人を命を賭して守り抜いたこと。
その行為は敵であっても武士の誉れと認められたのだ。
だが、その判断に最も反発したのは土方歳三だった。
「妖艶な女を屯所に置けば、隊士の規律が乱れる。
しかも長州の首謀者だぞ。あまりに甘い」
だがその異議は退けられた。
結果、久坂玄瑞は新選組の屯所に迎え入れられ、
しかも――古賀隼斗の傍に置かれることが決定したのだ。
「どうした? 驚いた顔をして」
玄瑞は小首を傾げ、唇に妖しげな笑みを浮かべる。
古賀は言葉を返せぬまま、しばしその視線に射すくめられていた。
まるで心の奥底を覗かれているような、居心地の悪さと――抗い難い引力。
「……未来を見ているのは、貴方も同じではないのですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「ふふ、そうかもしれぬな。だが儂の未来と、お主の未来――その姿は、まるで別の絵を描いておる気がするのだ」
そう言い残して、玄瑞はひらりと踵を返す。
その背を見送る古賀の胸中に、言いようのない不安と、名もなき期待が交錯していた。
夜の帳が降り、屯所の灯りが静かに揺れていた。
縁側に並んで腰を下ろす古賀と久坂玄瑞。
虫の音が遠くから響き、二人の間には重苦しくも不思議な静寂が漂っていた。
古賀は愛刀の柄に手を添えながら、深く息を吐いた。
「……久坂殿。
私は、新選組を“変えたい”と考えております」
玄瑞が視線を向ける。
その瞳は、ただ侮るのではなく、真に聞き届けようとする者の眼差しだった。
古賀は続ける。
「池田屋も、禁門の変も……血の奔流でした。
ですが、これからの世は、ただ剣で斬り結ぶだけでは生き残れぬ。
最早“剣の時代”は終わりつつあるのです」
玄瑞は微笑を崩さぬまま、口を開いた。
「ほう……剣を捨てる、と言うのか?
新選組の看板は、まさにその剣の切っ先で築かれたものではないのか」
「捨てはしない」
古賀の声は低く、だが確かに響いた。
「だが――剣だけに縋れば、やがて新選組は時代に呑まれる。
薩摩や長州は、すでに銃を揃え始めている。
もし我らが旧き形に固執すれば……新選組は“人斬り集団”として散り、民もまた戦火に巻き込まれるだろう」
言葉を吐くごとに、古賀の胸の奥に熱が宿っていく。
未来を知るがゆえの焦燥が、声を震わせていた。
玄瑞は静かに団扇で風を送り、やがて口端を上げた。
「……やはりお主は、不思議な男だな。
敵でありながら、この国を思う心は、どの志士よりも熱い。
剣の時代の終わり……確かに、儂もそう感じていた。
だが、それを口にした侍に会ったのは――お主が初めてだ」
その声音には、侮蔑も皮肉もなかった。
あるのは、純粋な驚きと、抑え切れぬ共鳴。
古賀は玄瑞を見据える。
玄瑞の頬に映る灯火の陰影は、ただ妖艶なだけでなく、どこか乙女のように柔らかく――古賀の胸を一瞬惑わせた。
久坂玄瑞は団扇を膝に置き、真っすぐに古賀を見つめた。
灯火の赤がその褐色の肌を艶やかに染め、声には熱と憂いが混じっていた。
「……もし本当に、剣ではなく銃の時代が来るのなら――武士の誇りは、どこに在るのだ?
剣こそが武士の魂。
刀を腰に差し、命を懸けて刃を交えるからこそ、我らは己が忠義を示せるのではないのか」
玄瑞の声音は震えていた。
それは怒りではなく、失われゆくものへの哀惜。
生まれながらに背負わされた「武士の道」への執念と矜持が、その言葉にはあった。
古賀はゆっくりと鞘に触れ、瞼を閉じた。
池田屋での修羅、禁門の炎、そしてこれからの戦乱を思い出す。
「誇りとは、刃そのものに宿るものではない」
静かに言葉を紡ぐ。
「命を守る覚悟、そのために己を削り、血を流す意志――それが誇りだ。
剣であれ、銃であれ。手にする道具が何であろうと、己が信じるもののために立つならば、それは武士の誇りに他ならぬ」
その言葉には、医学生として人を救おうとした過去と、剣士として人を斬らねばならなかった現在とが、苦悩の末に溶け合っていた。
玄瑞の唇が震えた。
「……道具ではなく、覚悟に誇りがある……か」
呟いた声は、縁側を吹き抜ける夜風にかき消されそうにか細かった。
だがその目は、古賀を見つめるうちに揺らぎ、やがて熱を帯びていく。
「お主の言葉は……不思議だ。
敵の刃よりも胸に突き刺さる」
久坂玄瑞は、ふっと微笑んだ。
その笑みは、志士の威圧でも女の妖艶さでもなく、一人の人間としての素直な顔――無垢な乙女のようで、古賀は一瞬言葉を失った。
夜の帳が降り、虫の声が遠くからかすかに聞こえていた。
屯所の庭に置かれた灯籠の炎が、揺らめきながら二人の姿を照らし出す。
古賀は手入れ中の愛刀を傍らに置き、静かに夜気を吸い込んでいた。
そこへ歩み寄る影――久坂玄瑞。
彼女は灯籠の明かりに照らされると、その褐色の肌に艶やかな陰影を宿し、妖しくも気品ある微笑を浮かべた。
そしてまっすぐに古賀を見つめる。
「……古賀隼斗。
お主が見据えている未来、わしにも分かる気がする。
剣の時代は、終わりつつあるのだろう」
声は囁きにも似ていたが、確信に満ちていた。
久坂は扇子を閉じ、そっと膝に置く。
「わしの知る武器商人を紹介しよう。
銃だ。薩摩とも、異国とも繋がりを持つ……。
新選組に必要なのは、それであろう?」
古賀の表情が一変する。
驚愕、動揺、そして焦燥。
「――なりません!」
思わず声を荒げていた。
「それでは貴方は完全に長州藩の敵となってしまう!
味方の信を裏切り、立場を失い、最悪……命を狙われる!」
隻腕の自分を庇ったあの夜の記憶が脳裏に蘇る。
炎の中で、子供を抱いて必死に守ろうとした彼女の姿――。
その命が、今度は自分のために踏みにじられるかもしれない。
しかし久坂は、彼の焦りを見透かすように微笑んだ。
その笑みは艶やかでありながら、不思議と乙女めいていて、古賀の胸を揺さぶる。
「ふふ……古賀隼斗。
敵か味方かなど、わしにとっては取るに足らぬこと。
儂はただ――命を賭して儂を守ってくれた男の助けになりたい。
その想いだけで十分だ」
彼女は目を伏せ、一呼吸ののち、言葉を紡いだ。
「古賀隼斗。
お主は……誠の武士であった」
その声音は震えるほど真摯で、夜風に乗って古賀の胸に沁み入った。
心が熱くなる。否応なく揺さぶられる。
古賀は返す言葉を見失った。
医を志し、人を救うことを己の道としたはずなのに、剣を執り、血に塗れながらも進んでいる。
それを「誠の武士」と肯定する者が現れるなど、思いもしなかった。
隻腕の自分を救った久坂玄瑞の笑顔。
敵であるはずの彼女から向けられる信頼。
それが、何よりも甘美で、そして危うい。
灯籠の炎が二人の影を長く伸ばす。
夜の静けさの中、二人の距離は――心の奥深くで、確実に近づいていた。