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壬生の狼と薩摩の鬼神

燃え上がる長州藩邸を背に、戦場は一瞬、不気味な沈黙に包まれた。

剣戟も、怒号も、血の匂いすら押し殺されてしまう。

ただ一つ――そこに歩み入った男が放つ、圧倒的な殺気だけが空気を支配していた。

「……なんだ、この気配は」

新選組の若い隊士が、声を震わせながら呟いた。

闇の帳を裂くように現れたのは、一人の侍。

黒羽織の裾がゆらりと揺れ、抜かずとも刀そのものが血を欲しているかのように見える。

その眼光は鋭く、獣のように戦場を射抜いていた。

――中村半次郎。

幕末四大人斬りの一人、その名を耳にしただけで侍が震え上がる、修羅の剣客。


現れた瞬間――中村半次郎の殺気は戦場全てを呑み込んだ。

久坂玄瑞の胸に抱かれた子供の泣き声すら、一瞬で凍りつく。

「朝敵もろとも……斬り捨てる!」

言葉と同時。

半次郎の身体が霞のように揺れた。

次の刹那、彼はすでに久坂の眼前――間合いなど存在しなかった。

抱きしめられた子供の小さな頭めがけ、剛烈な一閃が振り下ろされる。

「――っ!」

周囲にいた新選組隊士たちは誰一人、その動きを目で追えなかった。

刃が閃き、血が散る――そう確信した瞬間。

火花が散った。

「なっ……!?」

半次郎の斬撃は止められていた。

彼の刃を、たった一人――隻腕の剣士、古賀隼斗が受け止めていたのだ。

鋼と鋼が擦れ合い、耳を裂くような音が響く。

古賀の左腕に巻き付けられた刀が半次郎の一撃を辛うじて支え、その体は烈風に煽られるように軋んでいた。

「……やはり、人斬り半次郎!?」

古賀の声は低く、しかし揺るぎなかった。

他の誰も追えぬ速度――その死神の一撃を見切り、受け止められるのは自分だけだと。

半次郎の眼が細められる。

不気味な笑みが唇に浮かぶ。

「隻腕でこの速さを止めるとは……壬生の狼は、お前か」

火花が散り続ける中、両者の間で静かな殺意がぶつかり合う。

周囲の時間が止まったかのように。

ただ二人――古賀隼斗と中村半次郎だけが、この修羅の場に存在していた。


鍔迫り合う刃と刃。

金属音が空気を裂き、火花が夜闇を照らした。

中村半次郎の剛腕が古賀の刀を押し込む。

圧倒的な膂力、凄絶な殺気。

「……朝敵を、生かしておくわけにはいかん!」

半次郎の眼は血走り、その声音は死神の咆哮のごとく響く。

刃がきしみ、古賀の左腕に激痛が走る。だが彼は退かない。

「黙れ……!」

歯を食いしばり、古賀は吠えた。

「久坂玄瑞は――朝敵にあらず! その胸に抱く子をも、無辜の民をも、何故斬ろうとした!!」

怒りが爆ぜた。

その瞬間、古賀の眼は焔のごとく燃え上がり、隻腕で握る刀に信念を宿した。

半次郎が不気味に笑う。

「情で刃を振るうか……愚かよ。だからこそ、お前はここで死ぬ!」

次の瞬間、二人の身体が弾け飛ぶように離れた。

張り詰めた空気が一瞬にして爆ぜ、修羅の舞が幕を開ける。

半次郎の一撃は疾風のように速く、獣のように鋭い。

古賀の刀はそれを迎え撃ち、軌跡が幾重にも交錯する。

鋼がぶつかるたび、稲妻の閃光が迸り、鼓膜を震わせる轟音が戦場を包んだ。

「斬れるものなら斬ってみろ! 俺の刃は――誰一人、無辜を殺させはせん!」

古賀の声が血煙に響く。

「面白い……ならば俺が証明してやる! 命を懸けた剣は、理想など軽々と踏み砕くことを!」

半次郎の眼が妖しく光った。

二人の刃は烈火のごとく舞い、夜を裂く雷鳴のようにぶつかり続けた。

それはただの剣戟ではない――思想と信念、命と命が衝突する、宿命の死闘だった。


火花が散る。

刃と刃がぶつかる音は雷鳴のように轟き、夜の空気を震わせた。

中村半次郎の剣は、容赦なき死を告げる黒き閃光。

振るうたびに空気が裂け、敵の命を当然のごとく奪うためだけに研ぎ澄まされている。

「ふん……!」

疾風のような斬撃が幾度も繰り出される。

だが――古賀隼斗は退かない。

隻腕。

刀を握る手は一つきり。

それでも彼の身体は、欠けたものを補うように柔軟に動き、刃は淀みなく閃く。

呼吸も間合いも乱れず、むしろ“隻腕であるがゆえ”に無駄を削ぎ落とした動きは研ぎ澄まされていた。

鋼と鋼が重なり合う瞬間――半次郎の眼が見開かれた。

「……ほう」

唇の端がわずかに吊り上がる。

「隻腕にして、俺の剣に後れを取らぬとはな」

その声には、侮蔑ではなく純然たる感嘆があった。

剣鬼として数多の屍を踏み越えてきた中村半次郎が、初めて認める“生者の強さ”。

古賀の眼は、烈火のように燃えていた。

「俺は……退かぬ!」

声は力強く、刃と同じく揺るぎなかった。

「誰であろうと――民を巻き添えにする貴様を、止めてみせる!!」

半次郎は笑う。

「ならば証明してみろ。隻腕の侍よ……俺の殺しの剣を超えられるのか!」

再び二人の身体がぶつかる。

一閃一閃が命を削り、互いの存在を試す。

その速度は常人の目には捉えられず、ただ閃光の乱舞と雷鳴の残響だけが残る――。


鞘に収められた中村半次郎の刀が、夜気を震わせる。

ただ“鞘にある”というだけで、そこから噴き上がる殺気は、既に何十人をも斬り伏せてきた証そのものだった。

「……っ!」

近くにいた新選組隊士が思わず息を呑み、膝を震わせる。

誰もが動けない。誰もが声を失う。

その中で、ただ一人、古賀隼斗だけが前へ歩み出ていた。

背後には久坂玄瑞と幼子。

彼らを庇うように立ち塞がり、隻腕で刀を構える。

その姿は、無謀にして孤高――だが確かな覚悟の影を帯びていた。

「同士討ちが愚かだとは思わんか?」

古賀の声は、嵐を切り裂くように鋭く放たれる。

だが半次郎は、不敵に嗤った。

「朝敵を庇う貴様が……仲間だと? 笑わせるな」

その声音は冷たく、しかし刃のように澄み切っていた。

「だが――剣は嘘をつかん。貴様の太刀筋は見事だ。……死ぬ前に、名を聞かせろ」

その瞬間、古賀の眼差しが変わった。

光を失ったかのような深い静けさが宿り、闘志が消えていく。

しかしそれは敗北ではなかった。

嵐が過ぎ去った後の大海のごとき“静謐”が、逆に半次郎を圧倒する。

「新選組一番隊組長――古賀隼斗」

名乗りは低く、しかし天地に轟くほどの響きをもって広間を満たした。

一瞬、空気が揺らぐ。

半次郎の背筋に、氷のようなものが走った。

――敵であるはずのこの男。隻腕でありながら、己の一撃を止める覚悟を背負っている。

「面白い……!」

半次郎の口元が大きく歪み、闘志が火柱のように燃え上がった。

彼は刀を握り直し、腰を落とす。

抜刀術――“一の太刀”に全霊を籠める構えだ。

古賀もまた、ただ一歩前へ進む。

背後の民を、仲間を、久坂を――そのすべてを守るため。

避けることは許されない。

受けて、止めて、命を賭してなお立ち続けねばならぬ。

静寂が訪れる。

炎も、血の匂いも、悲鳴すらも遠のいた。

そこにあるのはただ二つの命の刃――。

「来い、中村半次郎!」

古賀の声は天を衝き、運命を切り裂く叫びとなった。

次の瞬間、世界は閃光に満たされる。

二人の太刀が、命を賭した初撃をもって交錯した――。


雷鳴のような轟きをもって、その一撃は放たれた。

風を裂き、光そのものの速度で――中村半次郎の“一の太刀”は走った。

それは人の目で追えるものではない。

抜刀の動作に入ったと気付いた時には、すでに刃が眼前に迫っている。

常人ならば意識の届くより早く、胴を両断されていたであろう。

だが、古賀隼斗は違った。

「……ッ!」

隻腕の身体をわずかにひねり、刀を正面に掲げる。

瞬間、轟音が広間を打ち破った。

金属が軋み、火花が飛び散る。

真正面から受け止めた――そう見えた。

だが実際には違う。

古賀は刃を“わずかに斜め”に立て、殺到する力を右へ左へと分散させていた。

ただし、その技は完璧ではなかった。

ギリギリと、愛刀が悲鳴を上げる。

鋼の断末魔。

次の瞬間――古賀の刀の刃は、大きく欠け飛んだ。

破片が宙を舞い、頬を裂き、赤い筋が走る。

(これほど……!)

分散させてもなお、刀身を砕かんばかりの威力。

もし真正面で受けていれば、刀ごと胴を断たれていただろう。

しかし――折れてはいない。

命の線は、かろうじて保たれている。

鍔迫り合いの中、半次郎の瞳がわずかに見開かれた。

「……受けた、だと……?」

驚愕。

それは人斬り中村半次郎にとって、ほとんど“想定外”という言葉に等しかった。

己の必殺の一撃を、真正面から立ち止まって受けた侍が存在する――その事実。


だが、半次郎は一拍も遅れなかった。

「面白いッ!」

咆哮とともに、二撃目が走る。

古賀の刃毀れした愛刀が悲鳴を上げる。

鋼の軋みは、まるで寿命を削る音だった。

火花が飛び散り、頬を掠める度に血が舞う。

(……このままでは押し潰される)

刃は欠け、腕は悲鳴を上げている。

だが、ここで退けば、背後にいる久坂玄瑞と子どもは斬り殺される。

古賀は確信した。

――中村を倒すには、もはや“不殺”では足りぬ。

殺すほどの覚悟と勢いを、己に宿さねば、この死闘は終わらない。

鍔迫り合いを振りほどき、古賀は一歩、静かに後退した。

その瞳は深い闇に沈み込み、研ぎ澄まされた殺気だけを放つ。

それは烈しくも、恐ろしく静かな気配だった。

まるで、嵐の前の深淵の静寂。

その構えは――“確実に相手の命を絶つ”ためだけに存在していた。

半次郎はその変化を敏感に嗅ぎ取り、逆に愉悦を燃やした。

「クク……良い眼だ。そこまでその女にこだわるか!」

声は嘲弄にも似ていたが、その奥に確かな敬意が滲んでいた。

「いいだろう……お前の必殺を、俺に見せてみろッ!」

人斬り中村半次郎もまた、鞘を叩き、正面から迎え撃つ構えを取った。

二人の呼吸が重なり、空気が張り詰める。

見守る者たちは息を呑み、誰ひとりとして瞬きすらできなかった。

その場にはただ、

――修羅と修羅。

命を賭して相手を斬る覚悟を宿した二つの影が対峙していた。


その瞬間だった。

古賀が一歩を踏み込み、刃が閃光のように振り下ろされようとした刹那――。

「――そこまでッ!!!」

京の空気を震わせるような声が轟いた。

炎の唸りも、血の臭いも、その響きに押し流される。

剣を交えたままの古賀と中村半次郎の全身が、まるで雷に打たれたかのように凍り付いた。


声の主は、堂々とした姿で炎の光を背に立つ一人の武将。

その顔には憂いと威厳を宿した、会津藩主 松平容保。

その背後からは、山のような体躯を持つ男が歩み出る。

重厚な眼光は、修羅をも呑み込むよう。

薩摩の獅子、西郷隆盛であった。

炎を背負った二人の巨影は、まるで乱世を裁断する天の審判者のように映った。

志士も隊士も一斉に息を呑み、戦場に重苦しい静寂が落ちた。

松平容保の声は鋼のごとく冷たく、だが確固たる威を帯びていた。

「ここから先は、藩と藩の責において裁かれる。剣で命を奪い合うは無益――退け!」

その言葉に、尚も息を荒げる古賀の胸が震えた。

その声音は、血に塗れた戦場にあってなお「義」を失わぬものだった。

西郷隆盛は深い吐息を吐き、どこか悲しげに呟いた。

「ここで血を流せば、京は地獄と化す。武士の本懐は、無辜を護ることではなかか?」

その重厚な響きは、修羅と化した戦場の魂を静かに諭す鐘の音のようだった。

中村半次郎は刃を収め、冷ややかに笑った。

「……なるほど。お偉方に止められては致し方あるまい」

古賀もまた、全身の闘志を抑え込み、刃を下ろす。

背後には怯える子どもを抱きしめたまま震える久坂玄瑞の姿がある。

その命の重みが、古賀の胸をさらに締め付けた。

(……助かった。しかし、これは終わりではない)

中村半次郎の鋭い瞳が、なおも古賀を射抜いていた。

「古賀隼斗――その名、忘れぬ。次は誰も止めぬ場所で、必ず果たす」

一方、松平と西郷の登場は、ただの剣戟ではない「時代の奔流」を告げていた。

歴史が再び、大きく動こうとしている――。

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