第2章
月は冷たく輝き、灯籠の炎が夜風に揺れていた。
血は土を黒く染め、斃れた者の呻きが路地に漂う。
その只中に立ちながら、古賀隼人は己の存在を理解できずにいた。
――ここはどこだ。
――なぜ刀を握っている。
――なぜ、血が滴り落ちる。
病院の白光は跡形もなく消え、残されたのは生と死の匂いだけだった。
鉄の臭気は肺を焼き、胸の奥をむかつかせる。
心は混乱し、身体は震え、視界は夢とも現ともつかぬ霞に覆われていた。
「古賀隼人! 剣を握れ!」
叱咤の声が背を打つ。
しかし隼人の腕は鉛のように重く、握るべき刀はただ指先で震えるばかりだった。
彼の内に響くのは、ただ一つ――
これは夢であってほしいという祈りだけ。
だが現実は祈りを許さなかった。
血に伏した志士が、獣のような眼をぎらつかせ、最後の力を振り絞って立ち上がる。
刃が月光を受けて閃き、隼人の胸めがけて振り下ろされる。
避けられない。
足は動かず、声も出ない。
全てが緩慢に流れ、ただ死が迫るという確信だけが鮮明だった。
――その瞬間。
夜風が裂かれた。
ひときわ鋭い閃光が横合いから疾り、金属の悲鳴が夜を震わせる。
志士の刃は弾かれ、身体は弓なりに折れ、虚空を裂く呻きと共に地に伏した。
隼人の前に、ひとりの剣士が立っていた。
浅葱の羽織は月明かりに揺れ、華奢な体躯は影を長く落とす。
顔立ちはあまりにも整い、眼差しは鋭く澄んで、敵を射抜く光を放っていた。
その姿は、歴史の頁を超えて隼人の目の前に現れた幻のようだった。
――沖田総司。
「……下がってください、古賀さん」
静かな声が夜を渡る。
それは優しさを含みつつも、斬撃の余韻を帯びた冷たい響きであった。
隼人は震える胸に手を当て、崩れ落ちるようにその名を心で反芻した。
己が立つ場所は夢ではない。
血と剣と月光が織り成す現実。
運命はすでに、彼を歴史の只中へと投げ込んでいた。
竹刀の響きが絶え間なく続く稽古場で、古賀隼人は汗にまみれ、ただ構えを崩して立ち尽くしていた。
周囲の隊士たちの目には、それは「冴えを失った姿」に映った。
――実力者でありながら調子を落とした。
――古賀もまた、不振に陥っているのだろう。
彼らはそう思い、互いに視線を交わした。
だが真実は違う。
古賀隼人の剣は、もとより素人のもの。
歴史という奔流に無理やり捩じ込まれた異形の存在――それが彼の本質であった。
仲間たちが「迷い」と呼んだものは、未来の記憶に心を縛られた証にほかならない。
稽古を終えた夕刻、隼人はひとり屯所の縁側に腰を下ろした。
吐き出す息は重く、胸を締めつけるのは自らの無力感だった。
「……古賀さん」
柔らかな声に振り返れば、沖田総司が立っていた。
日差しに濡れた髪を払い、静かな笑みを浮かべながら隣に腰を下ろす。
「少し調子を崩しているようですね。誰にでもあることです」
その声音は軽やかで、仲間を案じる温かさに満ちていた。
隼人は言葉を失い、ただ首を横に振った。
それでも沖田は、笑みを絶やさず続ける。
「古賀さんは強い。皆がそう思っていますよ。だから、焦ることはありません」
その言葉は、竹刀の打ち合いで荒れた稽古場の空気とは不釣り合いなほどに、柔らかく澄んでいた。
仲間を慰める以上のものではない。
けれど隼人には、それが胸の奥に深く沈んでいくのを感じた。
――強い、だと?
自分は剣を学び始めたばかりの素人にすぎない。
未来を知るがゆえに、刃を振るうたび迷いを抱え、動きは鈍っている。
それでも彼は、疑いもせず「強い」と言った。
その一言の中に、沖田総司という人間の本質が宿っている気がした。
仲間を信じ、軽やかに受け止め、否定ではなく肯定の言葉を選ぶ。
戦場にあっても血の匂いに呑まれぬ、澄んだ光のような存在。
隼人の胸はわずかに揺らぎ、痛んだ。
――自分はこの時代にいるべき存在ではない。
――だが、この人は、何も疑わずに自分を仲間と呼んでくれる。
その落差は苦しく、同時に救いでもあった。
未来を知る孤独に押し潰されそうな隼人の心を、沖田の声はふわりと支えていた。
まるで暗い水底で溺れる者に、ひと筋の光が差すように。
隼人は言葉を返せなかった。
ただ胸の奥で、あの声を繰り返し反芻する。
――焦らなくてもいい。
――お前は強い。
その響きは、隼人にとって剣よりも重く、深いものだった。
夜は更け、壬生の空には朧月が浮かんでいた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり、屯所の庭には虫の音と風のざわめきだけが漂う。
古賀隼人はひとり、木刀を手に立っていた。
灯籠の淡い光が、地面に長く影を落とす。
額には汗が滲み、息は浅い。
何度構えても、剣先は定まらず、動きはぎこちない。
――古賀さんは強い。
――焦らなくてもいい。
昼間にかけられた沖田総司の声が、耳に残っていた。
その声音はあまりにも澄んでいて、心を欺くものではなかった。
本当は弱い自分を、彼は「強い」と言った。
その言葉は、まるで未来から来た己の正体を赦すかのように響いた。
「……俺は強くなんかない」
隼人は小さく呟き、木刀を振り下ろした。
風を切る音は頼りなく、夜に吸い込まれていく。
だが、繰り返さずにはいられなかった。
何度も何度も木刀を振るう。
握る掌は痺れ、足は震える。
それでも、止めることはできなかった。
――強い。
――焦らなくてもいい。
その声を信じたい。
信じられなければ、この世界に踏みとどまる術を失う。
未来を知るがゆえの迷いと、仲間として呼ばれた救いの言葉が胸でせめぎ合い、隼人はただ木刀を振り続けた。
やがて夜風が吹き抜け、タチアオイの花影が月明かりに揺れた。
それは祖母の記憶と重なり、未来の惨劇を想起させる影でもあった。
隼人は立ち尽くし、木刀を下ろし、胸の奥に問いを抱いた。
――本当に自分は、この歴史の中で剣を握れるのか。
――そして、この人たちを救うことができるのか。
答えはまだ出ない。
だが沖田の声だけが、彼を支えていた。
月明かりの下、孤独に剣を振るう姿は、やがて来る決意への静かな序章であった。
京の夜は深く、月明かりに霞む町並みの影は長く伸びていた。
酒に酔った浪士の喚き声、辻堂に集う者たちのざわめき、そして闇に潜む怨嗟の気配。
その不穏を断ち切るように、浅葱色の羽織をまとった一団が通りを進んでいく。
――新選組。
古賀隼人はその列に加わっていた。
腰の刀はまだ異物のように重く、握る掌には緊張が滲む。
だが隣に並ぶ沖田総司の笑みが、その緊張を幾分和らげていた。
「気を楽にしてください。巡察は、皆こわばるものです」
沖田の声は柔らかく、夜気の中に溶けていった。
しかし、次の瞬間。
闇の中から影が現れた。
浪士数名が刀を抜き、通りを塞ぐ。
鋭い殺気が一行を包み、隼人の背筋に冷たいものが走った。
「……退け」
低く響いた声は、一閃のように鋭かった。
列の先に歩み出たのは、斎藤一。
月光に濡れた瞳は冷ややかに光り、口数少なくしてただ剣の理そのものを体現するような男だった。
彼の歩みは静かでありながら、刃を抜く前から敵の息を奪っていた。
浪士が嘲るように叫ぶ。
「壬生狼が、夜回りか!」
次の瞬間、光が走った。
誰もその速さを捉えられぬまま、一人の浪士が膝を折り、地に崩れた。
斎藤の刃は月明かりをかすめ、血の滴を一筋だけ残した。
古賀隼人は息を呑む。
それは人を斬る所作ではなく、まるで「存在を断つ」動きのように見えた。
沖田の剣が優美な舞ならば、斎藤の剣は冷徹な断罪。
同じ剣でありながら、その在り方は対照的であった。
「……古賀隼人」
戦いが終わり、斎藤の視線が闇を裂いて隼人を射抜いた。
名を呼ぶその声音には、感情の色はほとんどなかった。
ただ、測るように、試すように、その存在を値踏みする冷ややかさだけがあった。
隼人の胸に走ったのは恐怖であり、同時に奇妙な昂ぶりでもあった。
――これが斎藤一。
新選組の剣が持つ、もう一つの顔。
月明かりの下、冷ややかな眼差しと柔らかな笑み。
沖田総司と斎藤一、二人の対照的な存在の狭間で、古賀隼人は己の立つ場所を改めて思い知る。
ここは血と運命に彩られた場所。
その歴史に抗う覚悟を、やがて決めざるを得ない場所であった。