第19章
六月の陽が差し込む道場。
障子越しの光は白刃を鈍く照らし、張り詰めた空気の中で塵一つすら凍り付くかのようだった。
板の間の中央に立つのは古賀隼斗――。
空を揺らす片袖、その姿は痛々しくもなお堂々たる「一番隊組長」であった。
彼の残された左腕に握られた刀が、道場の全ての視線を受け止める。
対するは二番隊組長・永倉新八。
剛毅なる武辺者の眼は烈火のごとく燃え、唇は不敵な笑みに歪んでいる。
「池田屋で鬼のごとく戦ったそうじゃねぇか……」
永倉の声が、板壁を震わせる。
「だが片腕で、その“鬼”が出せるか? この俺が見極めてやる!」
その言葉は挑発であり、同時に武士としての純然たる問いかけだった。
道場を囲む隊士たちは息を呑み、畳の縁を握りしめる。
上座には近藤勇が座し、腕を組みながら鋭い目で二人を見守る。
その横に立つ土方歳三は、まるで氷の刃のような視線を古賀へと注いでいた。
そして斎藤一――薄氷の静謐を湛えたその眼差しは、誰よりも深く試合の行方を射抜こうとしていた。
沈黙。
蝉すら鳴かぬこの場に、ただ二人の吐息のみが重なり合う。
そして――畳を蹴る音。
永倉が一歩、鋭く踏み込む。
その剛剣は奔雷の如く振り下ろされ、空気を切り裂く轟音が響く。
だが古賀は動じない。
隻腕に宿した刃をわずかに傾け、永倉の剛力をいなし、その勢いを返す。
火花が散る。
静と動、剛と柔。
隻腕の古賀は劣勢どころか、永倉の剣を受け止め、押し返していた。
観衆の胸は高鳴り、誰もが理解した。
これは稽古ではない。
新選組の未来を背負う二人の魂の衝突――。
その場に居合わせた全員が、歴史の頁に刻まれる瞬間を目撃していた。
竹刀が畳を叩き、鋭い風鳴りが走る。
永倉新八の剛剣は荒々しくも正確で、隻腕となった古賀を追い詰めるかのように次々と襲いかかる。
古賀は受け、流し、反撃を試みる。だが、どこか遅い。剣が淀んでいた。
観衆の息が詰まる。
その場に居合わせた斎藤一は目を細め、低く呟いた。
「……刃が澄んでいない」
古賀自身も感じていた。
剣に心が乗らない。迷いが剣を曇らせている。
脳裏に甦るのは――昨日、団子屋で対座した久坂玄瑞の笑顔。
褐色の肌に映える白い歯。
子どものように団子を頬張りながらも、ふと真剣な眼差しを見せ、次の瞬間には妖艶な微笑みに変わる。
その笑みはまるで夜に咲く花のようで、見る者の心を縛り、惑わせる力を持っていた。
「こうしてゆっくり話せるのも、これが最後かもしれぬな」
久坂は茶碗を持ち上げ、柔らかに笑った。
古賀は思わず声を荒げた。
「私は新選組一番隊組長、古賀隼斗。倒幕派の貴女を本来なら捕縛し、斬り殺してでも止めねばならぬ存在です。それなのに――何故、御所の動乱が近いと私に告げるのです!?」
久坂の笑みは揺らがない。
むしろ艶を帯び、どこか哀しみを孕みながら古賀を射抜いた。
「……お主を信じるに足る侍だと見込んでいるからだ」
その瞬間、古賀の胸に奔った衝撃。
敵であるはずの女が、自分を信じると告げる――その事実が、心を惑わせていた。
「池田屋でのことは聞いたぞ」
久坂はさらに言葉を重ねた。
「お主は修羅となりながらも、多くの志士を“生かして”捕らえた。宮部も吉田も拷問せず、京都の町は守られた。……それは、わしが掲げる不殺、無血の大義そのものだ」
――敵でありながら、わしの大義を完遂してくれた。
久坂はそう言い、微笑んだ。
その笑みは刃より鋭く、古賀の胸を穿ち、剣の冴えを鈍らせる。
「だからこそ、本当に嬉しかった」
満面の笑みで微笑む久坂玄瑞。
久坂の声が、耳の奥で囁く。
古賀の剣が揺らぎ、竹刀の切っ先がわずかに遅れる。
その隙を――永倉の剛剣が鋭く打ち据えた。
肩口に走る衝撃。
観衆がどよめき、古賀の左腕に痺れが走る。
(……俺は何を守ろうとしている? 新選組か、会津か、それとも……あの久坂玄瑞の大義か?)
心が惑う。
剣が淀む。
しかしその眼には、まだ消えぬ炎が宿り続けていた。
竹刀がぶつかり合う乾いた音が、道場に幾度も幾度も響き渡った。
永倉新八の踏み込みは荒々しくも研ぎ澄まされ、まるで烈火のごとく迫ってくる。
隻腕の古賀は応じるたびに体勢を崩され、畳の上を後退しながら必死に食い止めていた。
観衆の隊士たちは息を詰め、上層部は静かに見守る。
その中心で、古賀の剣は――澄んでいなかった。
(何を迷っている……俺は、剣士だろう……!)
心の奥で自らを叱咤する。
だが振り払えぬ影があった。
――久坂玄瑞。
別れ際に見せた、あの無邪気な笑顔。
「儂も、お主に負けぬよう、長州の連中を抑えてみようと思う」と言い残し、京の雑踏に消えていった姿。
敵であるはずのその女が、頭を下げ、真剣に民を想う心を口にした。
(新選組と会津を救えば、それでよかったはずだ……)
そう言い聞かせようとする。
だが脳裏に浮かぶのは、別の光景ばかりだった。
――沖田総司が子どもたちと笑い合う姿。
――団子屋の女主人が「お代はいらない」と差し出した甘味。
――決して裕福でないのに饅頭をくれた童の笑顔。
そして――久坂玄瑞が「だからこそ、本当に嬉しかった」と微笑んだ瞬間。
その一つ一つが、刃に迷いを生んでいた。
戦の理を超えた、“守りたいもの”を古賀の心に刻みつけていた。
(……俺は、この時代に生きる人々を、戦火から救いたい)
初めて、その願いをはっきりと意識した。
しかしそれは、新選組と会津を救うよりもさらに遥かに困難で、果てしない道。
祖母の涙を無駄にしたくない。だが同時に――この理想を見捨てることも、俺には出来なかった。
「どうした古賀ッ! 池田屋での修羅の如き姿はどこへ行った!」
永倉が吠え、竹刀を振り下ろす。
受け止めるも刃は鈍り、衝撃で肩が痺れる。
次の瞬間、永倉の横薙ぎが襲いかかり、古賀は防ぎきれず畳に叩きつけられた。
場内にどよめきが走る。
斎藤一の目が細められ、近藤勇の視線が鋭さを増す。
だが――畳に転がった古賀は、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
(俺は――まだ折れてはいない)
それは痛みを凌ぐ笑みではない。
理想に惑いながらも、なお剣に生きようとする決意の笑み。
血に飢えた修羅ではなく、ただの理想家でもなく――人を救いたいと願う、一人の侍の笑みであった。
永倉はその笑みを見て、目を見開く。
次の瞬間、吠えた。
「まだやれるかッ、古賀隼斗!!」
道場の空気が震え、観衆の胸を打つ。
試合は、ここから本当の意味で始まろうとしていた。
静寂。
道場の空気は張り詰め、竹の床板を踏む足音すら遠ざかった。
畳に沈んでいた古賀は、血を吐くように息を整え、静かに立ち上がる。
その姿に、ざわめいていた隊士たちが一斉に息を呑んだ。
額から滴る汗を袖で拭い、古賀は天を仰ぐ。
そこに映るのは梁でも瓦でもなく――
彼が背負う時代そのものだった。
(俺は、何を守るためにここに立つ?)
亡き祖母・邦子の涙。
沖田総司が子どもたちと戯れる光景。
池田屋で見た志士たちの必死の眼差し。
そして――久坂玄瑞の微笑み。
その全てが古賀の胸に重く積み重なり、燃え盛る炎となる。
(新選組と会津藩だけじゃない。
この時代に生きる全ての人々を……
そして久坂玄瑞を、禁門の変で決して死なせはしない!)
その誓いを胸に、古賀は静かに竹刀を構えた。
その瞳には、もはや迷いの影はなかった。
「……新八殿」
声は低く、しかし烈火のごとき気迫があった。
永倉新八の口角が釣り上がる。
「来いよ、隼斗! 本気を見せてみろ!」
次の瞬間、古賀の足が畳を蹴った。
その踏み込みは雷鳴の如く、振るわれた刃は烈風の如し。
「――ッ!」
永倉の竹刀が火花を散らし、受け止める。
だが衝撃は凄まじく、畳に亀裂が走るほどだった。
観衆の隊士たちが思わず悲鳴を飲み込む。
(これが……池田屋を修羅に変えた剣か……!)
反撃に転じた永倉の猛攻を、古賀は一切退かず受け止めた。
隻腕でありながら、その太刀筋には寸分の揺らぎもない。
それどころか――池田屋を凌駕する鋭さを帯びていた。
剣豪としての血と、医学生としての理想。
二つの魂が融合し、一つの刃と化す。
「俺は――守る!」
叫びと共に繰り出された一撃は、烈火を纏うかの如き迫力で永倉を押し返した。
竹刀と竹刀がぶつかり合い、雷鳴のような音が道場を震わせる。
その刃には「誓い」が宿っていた。
民を救うため。仲間を守るため。
そして、歴史を変えるために。
古賀隼斗の剣は、修羅を超え――「時代そのもの」に挑む刃へと昇華していた。
雷鳴のような打ち合いが幾度も重なり、道場の空気は灼熱に包まれていた。
古賀の竹刀が永倉の猛攻を受け止め、逆に押し返すたびに畳が軋み、見守る隊士たちの喉が鳴る。
しかし次の瞬間、鋭い声がその熱狂を切り裂いた。
「――そこまでだ!」
土方歳三。
副長の低い一喝は、嵐を鎮める稲妻のように場を支配した。
竹刀を交えたまま、古賀と永倉は息を呑む。
永倉は一瞬きょとんとした後、次いで豪快に笑い声をあげた。
「はははッ! 上等だ、古賀隼斗! 隻腕でこれだけの剣筋を見せやがるとはな。
池田屋の剣は偶然じゃねえ、本物だ!」
道場に響く笑いは、悔しさではなく、むしろ痛快な愉悦そのものだった。
土方は一歩前に進み、冷徹な眼差しを古賀へと向けた。
「……もう異論を挟む者はいまい。これで充分だろう」
広間にいた隊士たちは、一斉に息を呑み、誰も言葉を返せなかった。
その静寂の中、土方の声だけが低く、だが確実に響いた。
「――古賀隼斗。一番隊組長、続投だ」
その宣告は、刃よりも鋭く、雷よりも重かった。
沈黙を破ったのは、斎藤一だった。
彼は口元にわずかな笑みを浮かべ、ほんの少し顎を引いた。
「……あの池田屋の修羅の太刀筋。衰えていないな」
安堵とも、僅かな誇りとも取れる声だった。
こうして古賀隼斗は――再び新選組一番隊組長として、誰からも異論を挟まれぬ存在となった。