第18章
京の空は、黒煙に覆われていた。
燃え広がる炎は御所を中心に町家へと延焼し、都は一瞬にして戦場と化した。
禁門の変は、長州藩が前年の「八月十八日の政変」で京から追放された雪辱を果たそうと兵を挙げたことに始まる。
久坂玄瑞、真木和泉ら尊攘派の志士たちは、御所の蛤御門(蛤御門:現在の京都御苑の西門)を突破し、朝廷を再び長州の手に取り戻そうとした。
幕府方は会津藩・薩摩藩を中心に、御所を死守すべく布陣。
朝廷の名のもとに立つ軍勢と、尊皇を掲げつつも逆賊とされた長州藩勢が、皮肉にも「尊皇」の旗を挟んで激突したのである。
戦いは瞬く間に市中へ広がった。
長州兵は御所を攻めるため放火を繰り返し、その火は強い風に煽られて四条から三条、さらには鴨川を越えて東山の町家をも焼き尽くしていった。
黒煙は昼を夜に変え、轟音とともに炎は天へと昇る。
町人は泣き叫びながら逃げ惑い、老も子も容赦なく炎と矢弾に倒れた。
後世、この日を「どんどん焼け」と呼ぶ。
京の町のおよそ三分の一が灰燼に帰したと伝えられる。
蛤御門周辺では、会津藩と薩摩藩の兵が激戦を展開。
長州藩の来島又兵衛は銃弾に倒れ、指揮を失った長州軍は次第に劣勢に立たされる。
御所を背に戦う幕府方は、ここで退けば朝廷そのものを失うと必死であった。
一方の長州藩は、討幕の悲願を果たすために命を賭して攻め続けた。
剣戟の響き、銃声、火薬の匂い。
混乱の中で、斬るか斬られるかの殺し合いが繰り広げられた。
戦いは一日で終わった。
長州勢は敗走し、首謀者の一人・久坂玄瑞は自刃。
多くの志士が命を散らし、京の町には数え切れぬ死体と焼け跡だけが残された。
死者・負傷者は数千。
家を失った町人は数万。
京は血と炎と灰にまみれ、尊皇を唱えたはずの戦いは、最も尊ぶべき「民」を犠牲にした。
古賀の心に刻まれたのは――
「尊皇を叫んだ果てに、最も多く血を流したのは民であった」という皮肉。
祖母・邦子が語った言葉が、耳の奥で蘇る。
「あの日、京は正義の御旗によって地獄と化したのよ……」
古賀は震える拳を膝の上に置いた。
自分が変えようとする歴史とは、まさにこの「禁門の変」。
会津を、そして京の民を再び地獄に沈めてはならない――そう深く誓うのであった。
禁門の変。
京を炎と血で染め上げた張本人――その首謀者の名こそ久坂玄瑞。
古賀隼斗の記憶にあるその人物像は、烈火のごとき信念を抱き、倒幕の先頭に立ち、やがて自刃に散った「過激なる志士」であった。
教科書に記され、祖母が嘆き語った“悲劇の旗手”。
それが、歴史の久坂玄瑞のはずだった。
だが、己の眼前に立った「久坂玄瑞」は――あまりにも違っていた。
長州弁を軽やかに操る、美しき褐色肌の女。
火ではなく、無血の理想を語り、敵である新選組の自分を助けすらした。
(……これが、久坂玄瑞? 俺の知る“久坂玄瑞”とは……何だ、この乖離は)
性別すら異なる。
思想も違う。
そして何より――その眼差しが、ただの革命家ではなく、妖しく人を呑み込む力を帯びていた。
古賀の胸中を灼き続けていたのは、あの路地裏での一瞬だった。
志士らの眼を欺くため、女が自分を押し倒した場面――。
不意に絡められた視線。
頬にかかる吐息。
声なき命令として、唇に添えられた指先。
「静かに」と微笑む、あの艶やかな仕草。
その瞬間、古賀は確かに圧倒された。
医学生としての理性も、剣豪としての矜持も吹き飛び――ただの一人の青年として、女の存在に呑まれていた。
(……俺は抗えなかった。あの妖艶さに……)
記憶の中で、女の高笑いが何度も響く。
それは挑発であり、同時に誘惑だった。
久坂玄瑞。
史実では「炎の志士」として散るはずのその名が、今は「妖艶なる女」として、己の前に現れた。
これはただの偶然ではない――。
歴史そのものが、自分を試している。
「お前の理想は本物か」と。
「お前の覚悟は、抗い難き運命にも揺るがぬのか」と。
古賀は唇を噛み、俯きながら小さく笑った。
(……もしこれが“歴史からの挑戦”だとしたら――初戦は、俺の完敗だ)
その笑みは悔しさではなく、畏怖と感嘆の入り混じったものだった。
あの女は、ただの敵ではない。
歴史を狂わせる“試金石”であり、自分の未来を映す“鏡”でもある。
古賀の胸には、重苦しくも確かな予感が芽生えていた。
――この女と交わることが、俺の運命を変えていく。
そして、史実すらも変えてしまう。
六月初旬の京は、湿り気を帯びた風に新緑の匂いが混じり、人々の息遣いがいつもより落ち着いていた。
古賀隼斗は浅葱色の羽織を揺らしながら、市中を静かに歩を進める。
(禁門の変――あの嵐は確実に近づいている。
長州と幕府が激突すれば、この街は再び炎と血に飲み込まれる……)
彼の思考は常にそこへ戻ってしまう。
いかにして民の犠牲を減らすか。
いかにして新選組を「血に飢えた狼」ではなく、「市中を守る武士」として立たせるか。
古賀の歩みに気づいた町人たちは、一様に足を止め、左右へと身を引いた。
まるで大名行列でも迎えるかのように、道が自然と割れていく。
「道を譲る必要はありません」
古賀は苦笑し、手を軽く振ってみせる。
だが、誰一人としてその言葉に従わなかった。
むしろ人々の目は、敬意と感謝を宿していた。
かつて“壬生狼”と呼ばれ、恐れられた新選組を――いまや市を救う守護者として見ているのだ。
(……変わったな)
古賀の胸の奥で、確信が芽吹いた。
そのとき、小さな足音が駆け寄る。
まだ七つにも満たぬだろう幼い男児が、両手に小包を抱え、古賀の前に立ち塞がった。
「これ……!」
男児は息を弾ませながら差し出す。
中身は粗末ながら丁寧に包まれた饅頭だった。
「街を救ってくれて、ありがとう!」
満面の笑み。
その笑顔はあまりに純粋で、まぶしすぎて、古賀の胸を突いた。
一瞬、右腕の無い自分を思い出し、疼く感覚がよぎる。
だが、次の瞬間にはそれすらも忘れていた。
古賀は膝を折り、男児の目線に合わせる。
そして左腕でそっと頭を撫でた。
「……ありがとう。君の笑顔こそ、私にとって何よりの贈り物だ」
あまりに漠然とした目標――新選組と会津を救う。
幾度も挫けそうになり、己の選択が正しいのか疑った夜もあった。
だが今、子どもの小さな掌から贈られた温もりは、何よりも雄弁に告げていた。
「確かにお前の歩みは、誰かを救っている」と。
古賀の胸は、静かな温かさに満たされていた。
「じゃあね! また来てね!」
先ほどの幼子が小さな手を振り、古賀は笑顔で応じた。
(……あの笑顔を守りたい。たとえ歴史がどうあろうとも)
胸に温かな余韻を抱え、再び見廻りの足を進めようとしたその時――。
「ちょいと! お侍様!」
明るい声に振り返ると、一軒の団子屋の女主人が腕まくりしたまま立っていた。
ふっくらとした笑顔の女主人は、いきなり古賀の片腕をつかみ、力強く引っ張る。
「いつも町を守ってくれてありがとう! 団子とお茶くらい、ご馳走させておくれ!」
「い、いえ、大丈夫です! お気持ちだけで充分ですから!」
慌てて手を振る古賀。
だが女主人は一切耳を貸さない。
「なに言ってんだい! 英雄様を空腹のまま返せるかってんだ!」
あれよあれよという間に団子屋の戸を潜らされ、座敷の特等席へと押し込まれる古賀。
「少し待ってな! 今すぐ用意するから!」
女主人は腰に手ぬぐいを差したまま、勢いよく奥へ引っ込んでいった。
古賀は頭を掻き、ため息を漏らす。
「……参ったな。無碍にするわけにもいかないし……」
半ば諦めの境地で、静かに腰を落ち着ける。
その時だった。
戸口の鈴が軽やかに鳴り、涼やかな風が店内を抜けた。
足音はゆっくりと――しかし確かな気配を伴って座敷へ近づいてくる。
「……お主、また会ったな」
ふと顔を上げた古賀の視界に映ったのは、鮮やかな褐色の肌を持つ女。
その瞳は夜明けのように冴え、笑みはどこか人を翻弄する妖艶さを帯びている。
久坂玄瑞――。
禁門の変の首謀者であるはずの人物。
だが目の前に立つのは、史実を裏切るような、美しき女の姿。
「……っ!」
古賀の胸に衝撃が走る。
ここで再び邂逅するとは――。
久坂は片手で団扇を軽くあおぎながら、古賀を見下ろす。
その唇に浮かんだ微笑みは、あの路地裏で彼を押し倒し、指先で口を塞いだ時の妖艶さを思い出させた。
「また驚いた顔をして。……私の名を聞いた時と同じだな?」
挑発めいた声音に、古賀は思わず背筋を伸ばす。
団子屋の温かな空気は、一瞬にして張り詰めたものへと変わっていた。
「女将! このお侍と同じものを、私にも頼むぞ!」
涼やかな声が店内に響いた。
堂々としたその声音に、団子屋の女主人はすぐさま奥から返事をした。
「へい! 二人分ね!」
驚く古賀をよそに、久坂玄瑞は軽やかに歩み寄り、よいしょと腰を下ろす。
卓を隔て、まっすぐ古賀の目を覗き込む。
その視線は、挑発とも戯れともつかぬ妖艶な光を帯びていた。
「……見ていたぞ」
「え?」
古賀の声は思わず低くこぼれた。
「先ほどの少年が、お主に“ありがとう”と笑顔を向けていただろう。
それだけではない。この店の女将も、通りの町人たちも……皆が新選組を称えていた」
久坂の口角がわずかに上がる。
その笑みは柔らかくも、どこか鋭い。
「壬生の狼――人斬り集団と散々聞かされてきた。
だが、あれはどうやら虚構であったらしい。
……またしても、私に誤った情報を吹き込んだ者どもがいたということだな」
古賀は返す言葉を見つけられず、ただ静かに息を呑んだ。
史実の記憶にある久坂玄瑞と、今目の前で穏やかに語りかけるこの女――。
その落差が、古賀の思考を乱す。
そこへ、盆を抱えた女主人が戻ってきた。
湯気の立つ茶碗と、蜜に照らされた艶やかな団子が二人分、卓に並べられる。
「お待ちどうさま!」
「ありがたい!」
久坂は満面の笑みで頭を下げ、古賀の方を振り返る。
その瞳には無邪気な輝きが宿り、甘やかな空気を纏っていた。
「さあ、食べようではないか!」
串を掴むと、迷いなく団子を口に運ぶ。
もちりと歯が沈み、蜜が唇に煌めいた。
「……んん! これはうまい!」
久坂は目を細め、まるで子どものように笑みを浮かべながら頬張る。
その表情には剣戟の血風を浴びてきた志士の影などなく、ただ素直に喜びを表す一人の人間がいた。
古賀は呆然としたまま、正面に座る久坂を見つめる。
(これが……本当に“久坂玄瑞”なのか?)
史実で語られる血腥い志士の姿と、蜜団子を頬張る美しい女の姿。
その二つがどうしても結びつかず、古賀の胸はただ強く揺さぶられていた。
古賀は、茶碗を手にしたまま、ついに口を開いた。
その声音には硬さがあった。
「……久坂殿。貴方は新選組が追う身でありながら、なぜ私のところへ?
今ここで、捕縛しても良いのですよ」
言い放つと同時に、店内の空気がわずかに張り詰めた。
だが、その張りつめた糸をあっさり断ち切るように、久坂は団子の串を唇に運び、もちりと噛みちぎる。
「ん……まあ、良いではないか!」
蜜を舌先で味わいながら、満足げに言う。
まるで古賀の言葉など耳に入っていないかのように。
「幕府方と倒幕派――違えども、我らは同じ国に生きる者同士。
仲睦まじくすることこそ、最善だと常々考えておる」
にこやかに言い放ち、久坂は再び団子を頬張る。
その仕草はあまりに無邪気で、同時に艶やかでもあった。
「だから今は、敵味方の概念など捨ててしまえ。
団子を食おうではないか! ……おーい、女将! おかわり!」
朗らかな声が店内に響く。
茶を飲んでいた古賀は思わずむせ、顔を赤らめながら叫んだ。
「く、口に物がある状態で喋らないでください!」
久坂は目を細め、まるで子供をあやすような優しさで微笑んだ。
「おっと……失礼、失礼」
その笑みは妖艶さと無邪気さが入り混じり、古賀の胸を不思議に締めつけた。
団子を頬張っていた久坂玄瑞の笑みが、ふと翳った。
艶やかな眼差しに影が差し、低い声で呟く。
「……お主の目は、血に濡れた剣士の目ではないな」
古賀は一瞬、返答に迷う。
その言葉は真実を突き刺すかのようで、胸の奥に冷たいものが落ちた。
久坂は続ける。
串を置き、茶を一口含み、吐息を零すように。
「……我が長州にも、熱に浮かされた過激な者が多い。
幕府を倒すことこそ正義と叫び、手段を選ばぬ。
だが――民を苦しめ、家を焼き払うことの、どこに大義があろうか?」
その声には怒りと悔しさが混じり合っていた。
妖艶な笑みを見せる女の貌ではなく、国を憂う一人の志士の貌。
古賀は思わず目を見張った。
久坂は卓の縁に指を置き、視線を遠くにやる。
「……近々、京都御所で争いが起こるだろう。
止められれば良いが……今の私には、あやつらを縛る力がない」
その言葉に古賀の胸が跳ねた。
(禁門の変――史実の運命……)
「何故、それを私に?」
古賀は押し殺すように問いかけた。
久坂は再びこちらを見据えた。
その双眸には柔らかな光が宿り、やがて微笑が広がる。
「言ったであろう? 儂は、民が苦しむ姿を見たくはないのだ」
そして、突然――久坂玄瑞は卓の向こうで深々と頭を垂れた。
美しい褐色の髪が肩を流れ落ち、団子屋の灯火に揺れる。
「もし……もしも私が奴らを止められなかったなら……」
沈黙を割るその声音は震えていた。
「頼む……民を守ってくれ」
その一言は、妖艶な微笑よりも強烈に、古賀の心を揺さぶった。
敵として相対すべき人物が、いま目前で「同じ願い」を託してきている。
古賀は茶碗を握りしめ、言葉を失った。