表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/46

第17章

寺を後にした古賀隼斗は、静かな市中を歩いていた。

陽は高く、夏の光は容赦なく照りつける。

だがその光を受けて、彼の纏う浅葱色の羽織は、まるで一枚の旗のように鮮やかに輝いていた。


池田屋事件の後――

京の人々の眼差しは、確かに変わった。

つい昨日まで「壬生狼」と呼ばれ、忌み嫌われていた新選組。

その名が、今や市井の口からは「町を守る者」として語られつつあった。


「池田屋の夜、火を放たれれば京は灰になっていた」

「それを防いだのは新選組じゃ」

「奴らはただの人斬りではなかった。御用を受けた、まことの武士だった」


路地の陰で交わされる囁きが、古賀の耳にも届く。

人々の眼差しは、警戒と恐怖から、畏敬と感謝へと変わっていた。

屯所に残る仲間たちも、最初は戸惑っていた。

「俺たちが……市民に頭を下げられる日が来るなんて」

驚きと戸惑い、そして僅かな誇りが、隊士たちの胸を満たしていた。


古賀は歩きながら、無意識に左手で右袖を押さえた。

そこには、もはや腕はない。

池田屋で河上彦斎と渡り合い、命を拾うために失ったもの。


疼くような痛みが、熱を帯びて脈打っている。

だが、その痛みに顔を歪めることはなかった。

むしろ、心の奥底からこみ上げるものがあった。


(……後悔はない)


それが、古賀の確固たる思いだった。


池田屋で掲げた理想――

“志士を可能な限り生かして捕らえる”という選択は、確かに果たされた。

京の町は燃えず、人々の命も救われた。

そして新選組は、民の信頼を得た。


右腕を失おうとも、理想を形にできたという事実が、古賀の胸を温かく満たしていた。


だが同時に、古賀は知っていた。

この変化は、あまりにも急すぎる。

歴史は必ず、帳尻を合わせようとする。


「……だからこそ、気を緩めるわけにはいかない」


彼は心の中で静かに呟いた。

右袖が風にひらめく。

それは欠落ではなく、彼の歩んできた証であり、これから背負う誓いの象徴でもあった。


市民に「英雄」と呼ばれるその日でさえ、古賀隼斗は自覚していた。

自分は英雄ではなく、歴史に抗う異端者であることを。


だが、異端であろうと構わない。

彼の背にあるのは、新選組と会津、そして未来を守り抜くという決意ただ一つだった。


夕刻。京の町は西日に染まり、往来を抜けた路地裏は橙の影を濃くしていた。

そこから、荒々しい声と、女の甲高い笑い声が交錯する。


「てめえが先に煽ったんだろうが!」

「ふはは……お主らが我らを侮ったからではないか!」


声の主は、一人の女だった。

褐色の肌に映える艶やかな黒髪、異国の血を思わせる鋭い輪郭。

その眼差しは烈火のごとく強く、長州弁を交えて高らかに嘲笑する。


「我らの大義を笑うたか。お主ら、命拾いしたのう。

 もし我が同志らがここにおれば、とっくに首を刎ねられていた。

 ……だが、わしは優しいでな。笑って済ませてやろう」


町人の顔は朱に染まり、怒りに震えた。


「女だからって調子に乗りやがって!」

拳を振り上げ、暴力の影が女を覆いかけた――。


「やめろ」


鋭い声が割り込む。

浅葱色の羽織が夕陽を浴び、白刃を抜かずとも圧倒的な存在感を放って路地裏に現れる。


古賀隼斗だった。


その歩みは迷いなく、町人の振り上げた腕を左手で制する。

押し返すのではない。ただ静かに、しかし確実に力を封じた。

町人は目を見開き、息を呑む。


「ここは戦場ではない。

 刀も拳も、己の鬱憤を晴らすために振るうものではない。

 ――京は、市井の人々の暮らす場所だ」


静かなる声には、剣を抜く以上の威圧が宿っていた。

町人の力が抜け落ち、怒りが恐怖に変わっていく。


女はその光景を眺め、くつくつと笑いを漏らした。

黒曜石のような瞳が、鋭く古賀を射抜く。


「……ほう、浅葱色。新選組の男か。

 しかも隻腕。されど、その目はまだ死んでおらぬ」


挑発にも似た声音。

だがそこには確かに、侮蔑を超えた“賞賛”の色もあった。


古賀はわずかに眉を動かし、静かに応じる。


「……怪我はありませんか?」


その声音は、剣士の威圧ではなく、医学生としての柔らかさを宿していた。

振り上げられた拳を制してから、古賀は町人たちを睨みつける。


「下がれ。ここから先は、我らが預かる」


浅葱色の羽織に射抜かれた町人たちは舌打ちを残して退き、やがて路地裏には、女と古賀だけが残された。


女はじっと古賀を見据え、やがて喉の奥から愉快そうに笑い声を漏らした。


「ふふ……壬生の狼と恐れられる新選組に助けられるとはな。

 皮肉なものよ。だが愉快だ、愉快極まりない」


燃えるような瞳で古賀を射抜き、女は一歩、彼に近づく。

その歩みにさえ威圧感が宿っていた。


「……助けてくれた礼は言わねばなるまい」


女は静かに頭を垂れた。

その仕草は不思議と誇り高さを失わず、むしろ烈火のような気迫を孕んでいた。


意外な行動に、古賀は一瞬目を見開いた。

しかしすぐに柔らかく笑みを浮かべ、首を振った。


「頭を下げる必要はありません。

 我らの務めは秩序を守り、市井を安寧へと導くこと。

 ――それが新選組の責務です」


その言葉は真っ直ぐで、嘘偽りのない誠実さを帯びていた。


女はふと瞳を細め、その唇を吊り上げた。

「……面白い男よ。浅葱色の羽織に似合わぬ“優しさ”を持つとはな」


夕暮れの路地裏に、火花のような視線が交わる。

それは敵か味方か、未だ定まらぬ運命の出会い――。


褐色の女は、夕暮れの路地裏で一歩前へ出た。

その瞳には炎のような強さが宿り、挑むように微笑む。


「……名を名乗ろう。

 長州より参った――久坂玄瑞」


その名を聞いた瞬間、古賀の胸に冷たい衝撃が走った。


「……久坂玄瑞、だと……?」


古賀の喉が、不意に詰まったように震えた。

耳にした名は、あまりにも重く、そして鮮烈だった。


(そんなはずはない……俺が知る久坂玄瑞は――)


頭の中で、近代史の書物に刻まれた記録が次々と蘇る。

尊攘の旗を掲げ、幕府を糾弾し、禁門の変で京を火に包もうとした張本人。

江戸で活動し、関門海峡で異国船を砲撃した、過激なる志士。

――そう、“男”の久坂玄瑞。


だが今、路地裏に立つ人物はどうだ。

褐色の肌に映える艶やかな黒髪。

涼やかな眼差しは強い意志を宿しながらも、どこか女性らしい柔らかさを秘めていた。

その姿は、古賀の知る歴史像を根底から否定する。


(女……? 久坂玄瑞が、女だというのか……?)


思考が渦を巻く。

体の芯が冷え、視界が揺らぐ。

まるで世界の基盤が音を立てて崩れ落ちていくかのようだった。


「……ふふ」

久坂はその動揺を愉快げに見つめ、口角を上げた。


「どうやら驚いたようだな。

 私の名が“男のよう”だからか?」


褐色肌の美しき指先が、ちょん、と古賀の頬を突く。

軽い仕草なのに、古賀には鋭い刃を当てられたように感じられた。


反射的に後ずさり、距離を取る。

心臓が痛いほどに打ち、呼吸が乱れる。


「……からかわないでください」


かろうじてそう口にした声は、掠れ、弱々しかった。


久坂は高らかに笑った。

その声は路地裏の夕闇を震わせ、古賀の耳に焼き付く。


(史実と違う……。

 これは歴史の修正力なのか、それとも――俺自身が別の歴史に踏み込んだのか?)


胸の奥で冷たい疑念が芽を噛む。

これまで積み上げてきた「史実をなぞる」という指針が、久坂の存在によって粉々に砕かれ始めていた。


(違う……。この人は、俺の知る久坂玄瑞じゃない。

 ……だが、“久坂玄瑞”とこの者は名乗っている。一体何故?)


矛盾と齟齬が、古賀の心を締め上げる。

まるで世界そのものが、彼を試しているかのように。


「……ひとつ、問わせてください」

古賀は静かに、しかし胸の奥を焼くような熱を込めて声を発した。

「――あなたは江戸で活動し、関門海峡で外国艦への砲撃を指揮したのですか?」


その問いは、彼の心に巣食う“史実”という名の鎖そのものだった。

もし目の前の女が史実どおりの久坂玄瑞なら、この世界は自分が知る歴史と変わらぬ軌跡を辿る。

だが、もし違うのなら――。


(俺の立っている場所は、もう俺の知る幕末ではなくなってしまう……!)


古賀の呼吸は浅く、掌は汗でじっとりと濡れていた。


女は一瞬だけ古賀の瞳を見据え、次いでふっと微笑んだ。

その笑みには、余裕と挑発、そして何かを秘めた影があった。


「……ふふ。やはり新選組は恐ろしい。

 まさか私の江戸での動きや、異国艦への砲撃の話まで嗅ぎつけているとはな」


挑発的な言葉。

だがその声音には、誇りとも諦観ともつかぬ色が滲んでいた。


古賀の胸がざわめく。


「……誤魔化さないでください!」


声は鋭く、ほとんど悲鳴に近かった。

古賀は思わず一歩踏み込み、女の瞳を射抜く。


女はその熱を正面から受け止め、口元を歪めた。

艶やかな褐色の頬に、月光のような笑みが浮かぶ。


「なるほど。だが安心せよ」

その声音は、刃を鞘に納めるように静かで強かった。


「お主の問いに対する私の答えは――“半分正解”だ」


古賀の眉が震える。

「……半分?」


「確かに仲間たちは江戸で策を巡らし、異国艦に砲を放った。

 だが――私は違う」


彼女の声は低く、しかし烈火のように揺るぎなかった。


「私は、暴力が嫌いだ。

 血と炎で世を変えるなど、あまりに愚かしい。

 お主の言った江戸での動きも、関門の砲撃も……あれは、私が必死に反対したにもかかわらず、仲間が押し切って行ったことだ」


古賀の視界が揺らぐ。

目の前にいるのは、歴史が刻んだ“血に飢えた志士”ではない。

むしろ――暴力を嫌い、流血を拒む者。


(そんな……。これでは史実と違いすぎる……!

 久坂玄瑞は血と炎を選んだはず……だが、この人は……!)


古賀は立ち尽くした。

己の知る幕末の地図が、音を立てて崩れ去っていく感覚。

その軋みに、心臓が押し潰されそうになった。


だが女――久坂玄瑞は、何事もないように凛と立ち、まるで自らの矛盾すら誇りに変えるかのように、微笑みを浮かべていた。


路地裏にひりつくような気配が走った。

古賀の耳に、荒い息遣いと複数の足音が迫る。

松明の赤い光が、闇を切り裂くように近づいてくる。


「――久坂! 久坂玄瑞はどこだ!」


怒号が夜を震わせた瞬間、褐色の女は鋭い眼差しを古賀に向けた。

その双眸には、焔にも似た光と、妖しい影が宿っていた。


気づけば彼女の細い身体が、迷いなく古賀にぶつかってきた。

「な――」

言葉を発するより早く、古賀の背は土壁に叩きつけられる。

そのまま彼は闇の物陰に押し込まれ、息を詰めた。


覆いかぶさる女の体温が、町の冷気とあまりに対照的に熱い。

視界いっぱいに迫るのは、褐色の肌と、月明かりに濡れた唇。


「――静かに」


指先が、古賀の唇を柔らかく押さえた。

声は発せられなかった。ただその仕草ひとつが、圧倒的な命令だった。


彼女の長い髪が頬をかすめ、古賀の鼻先をくすぐる。

香のような甘い香りが、血の匂いに満ちた幕末の町には不似合いで――だからこそ鮮烈だった。


妖艶な微笑みが、目の前でゆっくりと形を成す。

挑発でもなく、慈愛でもなく、それは人の理を外れた“魔”の微笑みに近かった。


古賀の胸が激しく脈打つ。

叫ぼうとすればするほど、喉は言葉を失い、ただ息だけが乱れていく。


「久坂殿! 返事を!」

「どこに行かれた!?」


足音が近づき、松明の影が物陰を舐めるように走る。

古賀の耳元で響くその声は、死の気配にすら思えた。


だが、女は少しも動じない。

まるで舞台の上に立つ舞姫のように、優雅に、妖しく――古賀を押さえ続けていた。


やがて、女はゆっくりと身を離した。

何事もなかったかのように立ち上がり、志士たちの元へ歩み出る。


「ここにおったか!」

「久坂殿、心配したぞ!」


志士たちが駆け寄る。その中心に立つ彼女は、確かに“久坂玄瑞”としての威を放っていた。


ただ一度だけ、振り返る。

その双眸は古賀にだけ向けられ、艶やかに細められた。

――秘密を共有した者にだけ与えられる、甘美で危険な微笑み。


古賀の胸を、熱と冷気が同時に貫いた。


そして――久坂玄瑞は、志士たちと共に闇に消えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ