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第16章

京の夜が明けても、池田屋の血の記憶は消えなかった。

命を懸けた斬り合いの果て――生き残った者たちの目には、なお炎の揺らぎが宿っていた。


その日、新選組の屯所とは別の、町外れにある静かな屋敷にて。

二人の男が、無言で椅子に座らされていた。


吉田稔麿。宮部鼎蔵。

倒幕派の志士にして、計画の中枢を担っていた男たち。


縄は――ない。

監視も――いない。

だが、刀を帯びた者たちの“気配”が、屋敷の隅々まで張り詰めていた。


その場に、静かに一人の男が足を踏み入れた。


古賀隼斗。

隻腕のまま、黒の羽織に包まれた身体を正し、二人の志士の前に立った。


「お変わりは、ございませんか」


その言葉に、

吉田が憤怒を孕んだ目を向けた。


「貴様……何を――見下ろしに来たか」


「いいえ」

古賀の声は静かで、決して揺れなかった。


「私は貴方たちの“意志”を、知りに来ました。

 剣ではなく、対話で。拷問ではなく、言葉で。

 命を賭して戦った者同士として、等しく目線を交わせるように」


宮部が目を細める。


「……剣を交えた者にしては、ずいぶんと、優しい口を利く」


「そう思われても構いません」

古賀は深く一礼する。


「ただ一つ、お願いがあります。

 どうか、貴方の“信念”の行く末を、私に聞かせてください。

 あの夜、市中に火を放ち、無辜の民をも焼き殺す必要が、果たして本当にあったのか――」


その問いに、

吉田が舌打ちをした。


「必要だったのだ。何もわかっていないくせに……」


「分かっていないかもしれません。

 だからこそ、こうして聞きに来たのです。

 貴方の戦いの正義を。貴方の言葉で、私に教えていただけませんか」


静寂。


雨でもないのに、どこかで水音が響いた気がした。


その時だった。

古賀はゆっくりと、自らの脇差を取り出し――


床に置いた。


「これは――信義の証です。

 今この瞬間、私は“武士”ではなく、“耳を持つ者”となる。

 拷問も、詰問も致しません。

 ただ、あなた方が命を賭けて追い求めた“尊皇攘夷”の本懐を、

 聞かせていただきたいのです」


驚いたように、宮部が目を見開いた。

吉田の呼吸が、少しだけ乱れる。


「……なぜ、そこまでする」


古賀はわずかに俯き、

そして“かつての自分”を思い出した。


――病と闘う者たちの痛みを、どうすれば和らげられるのか。

――人の死を“止める”には、どうすればいいのか。


「私は医を志しました。命を救う道を歩みました。

 ですが、今は剣を取り、多くの命を奪いました。

 あの夜……私は、貴方たちの命も、奪おうとしていたのです」


目を伏せ、拳を握る。


「だからせめて、今、

 貴方たちが“なぜここに立ったのか”を、知りたいのです。

 それを知らずして、私はこの先の道を歩けない」


再び沈黙。


長い、長い、重い沈黙の果て――


無言の時間が流れ、やがて宮部が口を開いた。


「……火を放とうとしたのは、無辜を焼くためではない」


その声は低く、しかし烈火のように揺るぎなかった。


「この腐った幕府と、その傀儡である京都の秩序を――一度焼き尽くすためだ」


言葉は刃よりも鋭く、しかしその奥には苦悩の影が漂っていた。


「我らは知っている。どれほど忠義を尽くそうと、下級藩士の声など決して届かぬ。

 志を掲げようとも、腐った仕組みは一片も揺るがぬ。

 だからこそ、火だ。焼かねばならぬ。すべてを、灰に還さねば……新たな朝は来ぬ」


彼の瞳には憎悪ではなく、悲願の炎が宿っていた。

罪なき民を巻き込むことの罪悪感を自覚しながら、それでも彼は敢えてその道を選んだ。

炎は破壊であると同時に、浄化であると信じていたからだ。


古賀は息を呑んだ。

この男はただの狂信者ではない。

矛盾を承知で、なおも火を選んだ――その覚悟の重さが、胸を抉った。


「俺たちも、“好きで”刀を振るっていたわけじゃない」


その声には苦みがあった。


「斬るか、斬られるかの時代に、生きるためには斬るしかなかった。

 誇りではない。必要悪だった。……それが俺たちの剣だ」


吉田は血に濡れた手を握り締め、低く続けた。


「俺はな、古賀殿。毎度、斬るたびに震えたんだ。

 相手も人であり、俺と同じように笑い、泣き、誰かを想って生きていたはずだと……

 それを、時代が俺に斬らせた。俺は加害者であり、同時に被害者でもある」


その吐露は、英雄譚ではなかった。

狂気でもなかった。

ただ、この時代に生き残るための慟哭だった。


二人の言葉は、鉄格子を越えて古賀の胸に突き刺さった。

――志士たちは狂ってなどいなかった。

彼らもまた信念を抱き、苦しみ、矛盾を背負いながら剣を振るっていたのだ。


古賀は深く息を吸い込み、膝をついた。


「……私は、あなたたちの覚悟を否定しません。

 だが、私はそれでも、不殺を掲げたい。

 奪わずして守る道を……あなたたちのような矛盾の果てに、終わらせたい」


言葉は震えていた。

だが、その震えは恐怖からではなく、彼自身の“理想”が打ち砕かれかけ、なお燃え上がる焔の証だった。


宮部はじっと古賀を見つめ、やがて目を閉じた。

吉田は苦笑し、わずかに肩を揺らした。


「……不思議な侍だな。

 だが、そんな侍がいたなら……少しは、この時代も救われたのかもしれん」


牢の空気は重かった。

だが、そこには確かに互いの“信念”が交わった一瞬があった。


捕縛された宮部鼎蔵と吉田稔麿は、壬生の屯所内――簡素ながらも清潔な一室に収監された。

そこは陰湿な土牢ではなく、光が差し込み、布団と湯飲み、そして食事が与えられる穏やかな空間だった。


土方歳三の命により、決して拷問にかけぬこと、食事と寝具の支給、看護を伴う医師の巡回、これらが厳しく徹底されていた。


それは、古賀隼斗の強い願いだった。


「彼らは敵であっても、信念を持った人間だ。

ならば、我らが掲げる“正義”に恥じぬ対応をせねばならない」


この言葉に、副長である土方も一切異を唱えなかった。


牢を見回る若い隊士が、食膳をそっと宮部たちの前に置く。

焼き魚に炊き立ての白飯、味噌汁に漬物。

質素ながらも、飢えを凌ぐだけの食事ではなかった。

人としての尊厳を損なわぬ、温かな膳だった。


宮部はその湯気に目を細め、箸を手に取った。

無言で食す吉田の横顔には、ややの戸惑いが浮かんでいた。


「……罵声も、拷問も、なしか。ずいぶんと“潔白な牢”だな」


吉田が呟くと、宮部は静かに答えた。


「これは――我々が掲げた正義とは違う別の“正義”なのかもしれないな」


夕暮れ時、古賀隼斗の手による短い文が二人に届けられる。

それは敬意と祈りに満ちた言葉だった。


> 「拷問を拒み、命を奪わず、あなた方と“対話”できたことを、私は誇りに思っています。

あなた方が語った理想と痛み、それを知った今、私はより深くこの時代を生きねばならぬと悟りました。

あなた方の信念が、無意味なものではなかったことを――この先、私が証明してみせます」




読み終えた宮部は手紙を膝に置き、ぽつりと呟いた。


「……あの男は、敵ではなかったな」

吉田も、何かを飲み込むように目を伏せた。


その夜、牢の灯は一つ、穏やかに灯っていた。

拷問の呻きも、嘲笑もない静寂の中――

ただ、“互いを理解しようとした者たち”の余韻が、そこにはあった。


そして宮部と吉田は、次の朝も、命ある者として、

まっすぐな背筋で立ち、茶を口にした。



夏の始まりを告げるように、寺の境内には蝉の声が木霊し、ただ風鈴が乾いた音を鳴らしていた。

陽はまだ高く、境内の木々の間から零れ落ちる日差しが、淡く苔むした石畳に模様を描いている。


古賀隼斗は、静かにその小道を歩いていた。

かつて沖田総司を送り出したあの日と同じ道。

だが今は、右の袖が空虚に風に舞っていた。


門前に立つと、すでに気配を察したのか、沖田総司が寺の縁側に姿を見せていた。

白い着物を羽織り、静かに扇をあおいでいた彼は、古賀の姿を見ると、すぐに立ち上がる。


「古賀さん!」


その声に、古賀は軽く微笑んで歩み寄る。

その微笑みの裏にある痛みを、沖田はすぐに悟った。


「ようやく、来てくれましたね」

「遅くなって……すみません」


いつも通りに返したつもりだった。

だが、沖田はその“いつも通り”に、少しばかりの違和感を感じた。


「……右腕が……なくなったんですね」


そう言った沖田の声には、哀しみよりも、驚きと痛みが滲んでいた。

古賀は軽く肩をすくめると、逆光の中でふっと笑った。


「剣士の勲章みたいなものです。……まあ、一本残ってますから」


笑ってはいた。

けれど、それがどれほどの代償で得た笑顔だったかを、沖田は知っていた。


「……僕の代わりに、戦ってくれて……」


沖田は縁側に腰を下ろすと、笑顔で扇をひとあおぎした。


「古賀さんの顔を見ると、元気が出ますねぇ」

「……なら何よりです」


古賀も隣に腰を下ろし、ふと庭先に視線をやった。

陽光に洗われた木々が風に揺れている。

その柔らかな光景に一拍おいてから、古賀は穏やかに口を開いた。


「……労咳の方は、いかがですか?」


その問いに、沖田は一瞬だけ間を置いたが、すぐににっこりと笑って答えた。


「平気ですよ! 何ならもう少しで剣を持てます!」


言い終えた瞬間だった。


「馬鹿者が!」


鋭く響く叱責の声。

背後から現れたのは、白髪をきっちりと束ねた老医師。

竹の杖で地を突き、ぎろりと目を見開いて沖田をにらんでいた。


「貴様、またそのような妄言を口にしおったか!

 労咳はな、ひとたび静まったように見えても、必ずぶり返すのだ。体を動かせば肺は咳き込み、血を吐き、命を削る。己が病を侮るでない!」


沖田は首をすくめ、扇を畳んで小さくなった。


「は、はい……ごもっともです……」


「まったく……」


老医は古賀にも一瞥をくれると、やれやれといった様子で奥へと引き下がった。

その背中が見えなくなるまで、沖田はじっと背筋を伸ばしていた。


「……怒られるとは思ってましたけど、まさかここまでとは……」


ぽつりと呟いた沖田の声には、苦笑とも諦めともつかない色が滲んでいた。

古賀はそんな沖田の横顔を静かに見つめ、言った。


「……でも、剣を持とうとする気持ちは、わかりますよ」


沖田は、驚いたように古賀を見た。

古賀は柔らかく微笑んでいた。右袖が風に揺れ、空を掴もうとしては届かずに舞っている。


「私だって、もし……沖田さんと同じ状況だったら、同じ事をきっと言っていました。まだ、やり残したことばかりだと。けれど、あなたは剣だけで生きてきたわけじゃない。市中の子どもたちも沖田さんの帰りを待ってますよ」


沖田は少しだけ視線を落とし、静かに笑った。


「そうですね。早く子どもたちに会いたいな……でも古賀さんも、ほんと、無茶をしますよね」


「お互い様です」


二人の間に、しばし風の音だけが吹き抜けた。




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