幕末4大人斬りが一人
池田屋の空気が変わった。
無数の足音、怒号、血飛沫――そのどれもが“死”の音色を帯びていた。
古賀隼人の背後には、血に塗れた藤堂平助がもはや立ち上がれず、永倉新八が息を荒げて立ちふさがっている。
近藤局長も全身が傷にまみれ、額から流れ落ちる血が白衣を染めていた。
そして目前には――
新たに雪崩れ込んだ長州藩士・尊攘浪士たちが、濁流のごとく迫っていた。
数はすでに六十を超えている。
絶望が、真っ赤に牙を剥いた。
「……皆、一時退け!!!」
古賀の咆哮は、まるで雷鳴だった。
乱戦の喧噪を切り裂き、瞬間、全てが静止する。
「退け……だと!?」
「何を――」
近藤局長が、数拍の沈黙の後に叫ぶ。
「全員、古賀の声に従え! 一時撤退だ! 土方たちと合流するッ!」
「近藤さん……ッ!」
永倉が顔をしかめ、怒鳴る。
「古賀を置いていくつもりか!! あいつ一人で――!」
「黙れ!!!」
近藤の怒声が炸裂する。
「このまま全員がここで死ねば、それこそ新選組は潰える! 古賀の想いを無駄にする気か!!」
永倉が唇を噛みしめた。
その隣で、藤堂平助が力なく笑う。
「……あいつ、かっこつけすぎだよ」
「うるせぇ! 立てるか!」
永倉は藤堂を背に担ぎ、歯を食いしばる。
そして、近藤、藤堂、永倉――三人は屋敷の裏手から撤退を開始した。
その瞬間。
古賀は、背を向ける三人の姿を瞼に焼き付けた。
その命を、自分が繋いだ――ただその事実だけが、彼を前に進ませた。
「行け。お前たちは……生きろ」
そう呟いた瞬間。
その瞳に、鋭く鋼の光が走る。
敵――約六十。
自らはただ一人。
だが、古賀隼人は微笑んだ。
「これでようやく……"本気"になれる」
刀を静かに構える。
かつての医学生の柔和な面影は、もはやどこにもなかった。
あるのは、ただ“剣に生きる者”の覚悟。
かつて、白衣に袖を通し、人を癒し救うことだけを願った青年の姿は、そこにはない。
代わりに立つのは、一人の“剣に生きる者”。
いや、剣でしか世界を繋げなくなった者。
だが――
その眼差しは、不思議なほど穏やかだった。
不敵な笑みが浮かぶ。
血に濡れた頬に、月明かりが冷たく落ちる。
(……そうだ。これでいい)
ここに至り、古賀はようやく確信する。
これほどまでの数の尊攘派を――この手で、不殺のまま制圧することが叶えば。
仲間を生かし、敵を殺さず、真の意味で「大義」を立てた池田屋事件として、歴史に記される。
その先にあるものは、倒幕と佐幕の流血を最小限に抑える分岐点。
新選組が正義として記され、会津が滅びず未来に繋がる可能性――
かつて夢と諦めの狭間で朽ちた者たちの「もうひとつの運命」だ。
幸いにして、仲間は撤退した。
その生命の道筋は、たしかに繋いだ。
残るは、自身の命と引き換えに、歴史を削り、理想を刻むのみ。
ふと、視界の奥に鋭い殺気を感じる。
宮部鼎蔵。
吉田稔麿。
共に池田屋で討ち死にする運命を背負った、歴史に名を遺す志士たち。
二人の眼が、鋭く古賀を睨みつけている。
ただの剣士ではない。
死地に残り、同胞を逃がした男――敵ながら計り知れぬ者として、真正面から対峙している。
(……ここが、分岐点だ)
古賀は悟った。
ここで理想を貫き通せれば、“未来”は変わる。
しかし、同時に感じていた。
まるで何かが、意図的に彼を試すかのように、歴史の重みが肩にのしかかってくる。
【歴史の修正力】――
その名を持たぬ感覚が、今まさに襟元を掴み、引き戻そうとしている。
なぜ志士は増え続ける?
なぜ援軍はまだ来ない?
なぜ、自分ひとりがこの“極限の舞台”に立たされている?
(俺を……試しているのか)
敵は六十。
否、それ以上だ。
対してこちらは――古賀隼人、ただ一人。
「ならば……受けて立とう」
口元に、わずかに笑みを浮かべる。
恐れではない。怒りでもない。
それは、未来を背負う者としての覚悟の色。
「お前たち全員、生かして捕らえる。
――これは、俺の理想だ」
闘気が、風を巻くように膨れ上がる。
池田屋の床が軋み、畳がわずかにめくれるほどだった。
「かかってこい。
お前たちの"信じる正義"ごと、俺が止めてみせる――!」
孤影、月に照らされて立つ。
古賀隼人は、今まさにその刃で“もうひとつの池田屋事件”を刻もうとしていた。
「――新選組の犬を、殺せぇぇッ!!」
怒声が池田屋の梁を揺らした。
刀を抜き、猛り狂う志士たちが一斉に声をあげる。
だが――誰も動けなかった。
先陣を切るはずの者たちの足が、音もなく止まっている。
眼前に立つ一人の男――古賀隼斗。
その身体から放たれる闘気が、空間ごと支配していた。
血の気が引く。
殺気ではない、“覚悟”そのものが、空間を凍てつかせていた。
視線を交わした者は本能で悟る。
あの男に踏み込めば、自分の命が終わる――と。
恐れ。躊躇。
その僅かな“間”を、古賀は見逃さなかった。
「――甘い」
古賀が呟く。
瞬間、彼の身体が霞のように揺らぎ、次の刹那には左翼の布陣へと突っ込んでいた。
「なっ――!!?」
志士たちの動揺が遅れる。
古賀の刀が一閃、血飛沫が舞う――
しかし、それは命を断つ刃ではなかった。
左肩、右膝、手首、脇腹。
殺しの要を外した、“戦闘不能”を狙った非致死の太刀筋。
狙いは的確だった。
肉を裂き、骨を断ち、動きを奪う。
次々と、志士が地に伏す。
斬られた者は絶叫し、悶絶し、血の海の中でのたうつ。
「ぎゃああああッ!!」
「う、腕がっ!! うああああああっ!!」
叫びが充満する。
痛みによる錯乱、恐怖、恐慌――だが、古賀の眼には何も映らない。
情けはない。
哀れみもない。
あるのは、ただ“理想”への執念。
(俺は、殺さない。殺してはならない)
(この場で敵を屠ってしまえば、“正義”は失われる)
故に、無力化のみ。
血を流させ、剣を折らせ、意思を折る。
「逃がすか!!!」
怒鳴り声と共に、さらに一歩、斬り込む。
再び一人、二人と崩れる志士たち。
戦意を喪失し、刀を落とし、逃げ惑う者も出始める。
古賀は止まらない。
全身を紅に染めながら、剣を掲げて吠えた。
「まだ……まだッ!!!」
まさに錯乱。
修羅。
その場にいた誰もが、もはや人ではなく“鬼神”を見た。
七人――否、八人、九人。
志士たちは床に転がり、呻き、血に染まりながら剣を手放していく。
それでも――敵はまだ、半数以上が残っている。
この地獄は、まだ終わらない。
だが古賀は構えを解かない。
呼吸を乱すことなく、冷たく、鋭く――剣を走らせる。
その姿は、まさに理想の刃を掲げる修羅であった。
血と怒声と絶叫が交錯する池田屋の二階――
床に倒れる志士のうめき、叫び、呻きが木の節から響き出すように満ちていた。
「くそッ……あの男……!」
「斬れ!斬れぇ!!」
剣士・古賀隼斗の名は知らぬはず。
だが誰の目にも明らかだった。
彼の剣こそが、この場における“正義”を制していた。
不殺。
それは理想ではなく、今や“恐怖”となって、倒幕派に牙を剥いていた。
そのとき――
階下の暗がりに、ひときわ異質な「影」が差し込んだ。
すっ……と。
まるで風のように音なく踏み込んだその者の足音に、場が沈黙する。
下から、ゆっくりと階段を上がるひとりの人影。
袴の裾を揺らしながら、月明かりの隙間を背負い、静かに、冷ややかに現れたその姿――
「……っ、河上さん……!!」
「河上彦斎……っ!」
志士たちが、一斉に吠えた。
空気が一変した。
張り詰めた糸が軋むように、全身に冷汗が走る。
【幕末四大人斬り】――
その異名を持つ剣士が、今まさに池田屋に現れたのだ。
宮部鼎蔵が口元を歪めて言う。
「……まさか、お前が来るとはな」
吉田稔麿もわずかに目を細め、笑う。
「これは思わぬ強援ですね、河上殿」
河上彦斎は何も答えない。
ただ、鋭く細めた瞳で階上を一瞥する。
次いで、視線は一点に留まった。
――古賀隼斗。
「……何者だ、貴様は」
その声音は、微塵の感情すら感じさせぬ冷淡。
だが、そこには確かな“警戒”があった。
古賀は一瞬、背筋が凍るのを感じた。
まるで“死”そのものが階段を上がってきたようだった。
背後に背筋を焼かれるような気配を感じる。
(なぜ……河上彦斎がここに? 史実にはいないはず……)
歴史の修正力。
この“誤差”が何を意味するのか、古賀には理解できなかった。
だが今、そのことに思考を割いている余裕はなかった。
志士たちは“河上の到着”によって完全に士気を取り戻していた。
もはや誰一人怯えてなどいない。
いや――高揚していた。
“勝てる”と、確信していた。
「総員――斬りかかれ!!」
「河上さんが来た今、奴に勝てぬ道理などあるものか!!」
怒声、足音、斬撃の音が雪崩のように押し寄せる。
だが――
古賀の瞳は、なお曇りなかった。
「……なら、こちらも理想を通す」
“不殺”を貫く。
そのためにこの場に立ったのだ。
彼の剣が再び閃く。
急所は外す。殺さぬよう、ただ確実に無力化する。
流れるような所作。
斬って、かわし、崩し、打ち、払い――
その剣は、殺意を持たぬがゆえに鋭さを研ぎ澄ましていた。
河上彦斎の眼が細められる。
「……この者……殺気が、ない。だが、恐ろしく鋭い」
まるで――自身を映す鏡のような、あるいは相反する者を見るように。
斬り落とすでも、屠るでもない。
それでいて、誰よりも速く、正確で、狂気じみて美しい――
それが古賀隼斗の“理想の剣”だった。
池田屋の二階。
かつて畳が敷かれ、茶の香が漂っていたこの空間は、もはや地獄絵図と化していた。
古賀隼斗――その名を、誰一人知らずとも
今、この空間で彼を知らぬ者は存在しなかった。
「ぐあああッ!!」 「う、腕がっ……動かねぇ……っ!」 「脚が……俺の脚がああああッ……!」
斬られてなお、生きている。
それが、彼が貫く“理想”だった。
致命の太刀ではない。
だが、動きを止めることに関しては、まさに神業。
その足元には、すでに二十余名。
悶え、呻き、転げ、叫ぶ志士たちが折り重なっていた。
だが――止まらない。
血をすすりながらも、次の剣が古賀を目指す。
死に物狂いで仲間の仇をとろうと斬りかかる。
古賀は、止まらない。
だが――
「っ……ぐ……」
一瞬、足がもつれた。
(何……だ……?)
視界が揺れ、呼吸が浅くなる。
全身を包んでいた闘気が、ふっと、風に揺れるように脆くなった。
(……スタミナ、か)
それは明白だった。
ここまで――不殺を貫くという無謀な戦い方を続けた代償。
殺さずに戦闘不能に追い込むというのは、殺すよりも遥かに技量も体力も必要とする。
人間である以上、限界はある。
そして――
その“一瞬”を、河上彦斎が見逃すはずがなかった。
「――甘い」
無音。
だが、確かに“風”が切られた音がした。
河上の身体が、影のように溶け、まるで瞬間移動でもしたかのように古賀の間合いに入り込む。
「ッ――!」
古賀はとっさに構えを上げ、受ける。
火花が散った。
鍔と刃が激突し、衝撃が古賀の肩までを貫く。
重い。鋭い。深い。
圧倒的だった。
これまでの志士の太刀筋とは、次元が違う。
“殺す”ことにのみ磨き抜かれた剣筋。
「ぐ……あッ……!」
押し負ける。
脚が床を軋ませ、滑る。
それでも必死に鍔迫り合いに抗う。
しかし――
「……砕けたか」
金属が裂ける音がした。
河上の刃が、古賀の刀身を食い破り――
カンッ……!
刀身の一部が欠け、破片が鋭く飛び散った。
古賀の頬を鋭利に裂く。
ピッ……
頬から血が垂れる。
静かな、赤い一滴。
それが、床に落ちる音さえ聞こえる気がした。
河上彦斎の瞳が僅かに細められた。
「……なるほど。貴様、ただ者ではないと思っていたが――なるほど、命を奪わずここまでやったか」
敵ながら、驚嘆と僅かな尊敬すら滲んだ声だった。
だが古賀は答えない。
その代わりに、口の端に血を滲ませたまま、静かに笑った。
「……俺は……ここで死ねない……」
まだ立っている。
まだ眼を伏せていない。
手の中の折れた刀身は、たとえ不完全でも、なお理想を貫くために在った。
火花が散る。
血が飛ぶ。
叫びが渦巻く。
池田屋の修羅場にあって、古賀隼斗の刃はなお冴えていた。
彼の剣は確かに“命を奪わぬ道”を模索していた。
腕を落とし、脚を穿ち、刃を逸らして戦闘不能に追い込む。
その数、二十余名。
だが——
(……これ以上、理想に縋ってはいけない)
息が荒い。
手のひらは汗に濡れ、握る柄が滑りそうになる。
疲労は極限に達し、刃はすでに欠けていた。
そして、目の前に立つのは河上彦斎。
人を殺すためだけに磨き抜かれた剣豪。
理想では、決して斬り伏せられぬ敵。
古賀は、静かに己の胸に言葉を刻む。
——俺は不殺を貫くために剣を振るうのではない。
——新選組の為に。会津の為に。
——斬らねばならぬ時は、斬る。
ただし。
ただし、命を奪わずとも制せるなら、それに越したことはない。
それが、未来を知る者としての“現実”であり、医を志した者としての“理想”だった。
「……」
古賀の瞳から迷いが消えた瞬間、河上が動いた。
影が揺らめき、殺意の刃が閃く。
古賀は正面から迎え撃つ。
踏み込み、体重を刃に乗せ、押し返す。
ガキィィィン!!
金属の絶叫が響き渡る。
鍔迫り合いの火花が二人の頬を照らす。
血が滲む。
肉が裂ける。
それでも二人は一歩も退かない。
河上の剣は問う。
——理想など、斬られて消える幻にすぎぬ。
古賀の剣は答える。
——幻であろうと、掴み取るまで退くものか。
互いに声は発しない。
だが刃が語り、血が応え、命を賭けた“対話”が続いていた。
音が、世界から消えた。
ただ、刃と刃がぶつかり合う音だけが、
——いや、刃同士が言葉を交わすような火花だけが、
池田屋の闇に閃いていた。
「……!」
河上彦斎。
その瞳が、今や獣のそれに変わっていた。
口を結び、息さえ静かに、
だが、“殺す”という一点に魂のすべてを注ぎ込んだ剣士の気迫が、
激流のごとく古賀に押し寄せてくる。
古賀もまた、全身を総動員してその剣を受け止めていた。
足は震え、腕は痺れ、
——それでも、引けぬ。
この一撃を受ければ、新選組の未来は潰える。
(まだ……負けられない……!)
だがその時だった。
床に蹲っていた志士のひとりが、
血まみれの腕で、狂気の叫びをあげながら、
古賀の足元に飛びかかった。
「うおおおおおおおおおお!!」
刹那。
古賀は踏み込んだ足を奪われ、
体勢が崩れた。
(しまっ——)
脇が甘くなる。
刃を振るう肘が、刹那の迷いで封じられる。
反撃の間もなく、そこに——
河上の本気の斬撃が、突き刺さった。
「……っ!!」
閃光のような衝撃。
斬られたのが事実か幻かも分からぬまま、
古賀は身体を弾かれたように後方へ吹き飛ばされた。
その瞬間——
ぶしゅ、と音を立てて血が噴き出した。
右腕。
それは確かに、彼の身体から、斬り落とされていた。
「が……っ……は……っ」
視界が赤に染まる。
喉から漏れたのは呻きではない、魂の叫びだった。
腕がない。
刀が握れない。
この剣がすべてだった自分から、その剣をもぎ取られた。
周囲の志士たちが凍りつく。
一人の化物が、もう一人の化物を“超えた”瞬間だった。
河上は一歩、血の海を踏みしめて前へ出る。
「……見事だ」
それは、皮肉でも、侮蔑でもない。
戦った者同士の、純粋な敬意。
だが古賀は——まだ、倒れてはいなかった。
片膝をつき、血を吐きながらも、
なお左手で鞘を握り、倒れたまま睨み返していた。
「俺は……まだ終わってない……」
その声は震えていた。だが、心は折れていなかった。
右腕を斬られ、仲間たちもいない。
それでも立つのは、彼が“この時代を変える”ために生まれたから。
河上の眼が、わずかに揺れた。
静寂。
血の香りが満ちる池田屋に、再び修羅の音が満ちる前の、
静かな“間”。
——だが、物語は、ここで終わらない。
血が、滴る。
染み出した鮮血は畳の目を黒く滲ませ、
池田屋の床はまるで地獄の胎動のように脈打っていた。
右腕はすでに存在しない。
それでも——
古賀隼斗は立ち上がっていた。
左膝を震わせながら。
砕けかけた気力を、残された左腕で引きずり上げるようにして。
「……ッ」
倒れた志士の一人から、左手で刀を奪う。
柄を逆手に握るようにしながらも、構えたその姿は美しかった。
殺意でも、執念でもない。
それは“責務”という名の意志だった。
宮部鼎蔵が瞠目する。
吉田稔麿が息を呑む。
河上彦斎は微かに目を細め、静かに刀を構え直した。
「……立つか」
その声にはもはや敵意はなかった。
あったのはただ、“敬意”と“決着”を望む者の声。
「ならば、次の一撃で終わらせる」
声は静かだった。
だが、その言葉はまるで死神の宣告のように冷たく鋭く、池田屋の空気を凍らせた。
古賀は何も言わない。
目だけで、語った。
来い、と。
そして、河上が踏み出す。
刀が風を裂き、音が鼓膜を突き破る。
宮部と吉田が動こうとした、その時——
「――――御用改めである!!」
声が轟いた。
その一声は、雷鳴のように池田屋を揺らした。
乱戦の果てに荒れ果てた階下から、
剣の音が幾重にも重なって聞こえてくる。
「御用改めと申すに!!」
叫びの主は――土方歳三。
その背後には、斎藤一、原田左之助、井上源三郎、篠原泰之進……
歴戦の新選組主力部隊が、刀を抜いて一気に階段を駆け上がってくる。
「副長……っ!」
古賀の瞳が揺れた。
刹那、張りつめていた空気が破裂したように、
志士たちが慌てふためき、次々と武器を構え直す。
だが河上彦斎だけは、動かなかった。
その刀は、なお古賀に向けられたまま。
「……運が、味方したな」
河上彦斎の声は、静かに宙へと零れた。
その一言に、池田屋を満たしていた緊張の空気が、わずかにほどけた――その刹那だった。
古賀隼斗の身体が、前へと動いた。
「……!」
血に濡れた足を、力強く一歩、踏み出す。
左手に握る日本刀が、夜の空気を斬り裂き、
火花とともに河上の刀とぶつかる。
——鍔迫り合い。
右腕を失ったとは思えぬほどの力が、
震える左腕から河上の刃へと叩きつけられる。
呻き声を上げたのは、河上の方だった。
「……まだ、立てるのか……」
「立てるとも……この刃は、まだ折れていない!!」
吠えるように叫ぶ古賀。
隻腕のまま、なお刀を振るい、
その眼は、戦士ではなく守人のそれだった。
そして、叫ぶ。
「――副長!!! 宮部と吉田の捕縛を!!!」
鍔迫り合いの火花に掻き消されそうな声。
だが、それは命を賭けた“願い”だった。
「二人を……死なせてはなりません!!!
この時代を変えるには、彼らの命が必要だ!!!」
河上の眉がわずかに揺れた。
目の前の男の狂気にも似た執念、
それでも“殺す”という選択ではなく、
“生かす”という刃を振るう信念に、
河上は一歩、押し込まれていた。
「……それが貴様の理想か」
古賀は答えない。
ただ歯を食いしばり、左腕を震わせながら、
全身で、自らの“覚悟”をぶつけていた。
やがて河上は鍔を押し返し、一歩、後ろへ跳ぶ。
そして、静かに言った。
「見事だった。あれほどの修羅を越えて、なお理想を捨てなかった……」
刃を返し、夜気にひらりと刀を納める。
「いずれまた……どこかで刃を交えよう。剣士、古賀隼斗よ」
それだけを残し、
河上彦斎は闇の帳のように、
ひとり池田屋を離脱していった。
静寂が一瞬、池田屋の二階を覆った。
だが、
それは終わりではなかった。
「……まだ……終わっていない……!」
古賀隼斗は血に濡れた顔を上げ、
荒れた息の中で、左手の刀を再び構えた。
目の前には、
まだ宮部鼎蔵と吉田稔麿が立っている。
逃げようとはせず、
むしろ覚悟を携えて、刃を向ける古賀を睨み返していた。
「この命、捨てる覚悟はとうに出来ている……」
宮部の呟きは、誰にでもなく、己に向けた詩のようだった。
その一瞬、古賀の瞳に再び“剣士”の光が戻った。
一歩踏み出す。
左腕だけの構えではあったが、
その足取りには迷いがなかった。
――だが、次の刹那。
ギィィンッ!
鋭い金属音が空気を裂く。
「……それまでだ、古賀」
古賀の刃は、別の刃によって受け止められていた。
「……斎藤……さん?……」
斎藤一は、冷静だった。
だがその目は、どこか憐れみと誇りを湛えていた。
「もう良い。今宵の戦いは、終わった」
鍔を押し返すようにしながら、
斎藤の声は静かに、だが確かに響いた。
「見ろ。池田屋の周囲は、我ら新選組が包囲している」
古賀の視線がわずかに揺れる。
そして、開かれた窓の外に目をやると――
そこには、次々と志士たちが縄を掛けられ、地に伏せられていく光景があった。
叫ぶ者も、泣き叫ぶ者もいない。
皆、諦めと敗北をその背に纏い、
新選組の手によって生きたまま、捕らえられていた。
「……まさか……」
古賀の手から、力が抜ける。
「そうだ」
斎藤の声が重なる。
「お前が目指した“生きての捕縛”、叶ったんだ。宮部も、吉田も。――もう、刃はいらぬ」
左手の刀が、かすかに震える。
怒りではない。
興奮でもない。
それは、願いが叶った者の、震えだった。
古賀はゆっくりと刀を下ろした。
膝が震え、
そしてそのまま、がくりと地に膝をつく。
斎藤一は無言でそれを支え、
血に濡れたその身体を抱き留めるようにして、静かに言った。
「よくやった。隼斗――お前は、たった一人で池田屋を乗り越えたんだ」
闇に、朝の気配が滲み始めていた。
池田屋事件――それは、
ただの“戦い”ではなく、
未来を選ぶための夜だった。