池田屋での激闘
その夜の空は、不気味なほどに晴れ渡っていた。
雲ひとつなく、月は青白い光を地上へと投げ落とし、
まるで神が何かの“審判”を見下ろすように京都を照らしていた。
「池田屋に、浪士が集まっているかもしれません」
監察方の報告に、誰もが緊張を走らせた。
だが、その報告は“どこまで真実か”は定かではない。
むしろ情報が錯綜する中、最も濃厚だったのは「四国屋」という名だった。
それでも、古賀隼人は……あえてその報告に異議を挟まなかった。
(四国屋へ、主力が向かえば……池田屋は空く)
(もし池田屋に本命が潜んでいたとすれば、俺の一太刀で歴史は繋がる)
古賀はその判断を下した。
それは“未来の記憶に賭けた”選択であり、
同時に、“もう後戻りできない”という決意の証でもあった。
「池田屋へは、別働隊を送ります」
静かに言った古賀の声に、土方歳三は少しだけ目を細めた。
それは、理解の眼だった。
「――よかろう。ならば、そちらは近藤局長に任せよう」
副長はそれ以上、問わなかった。
いや、敢えて問わなかったのだ。
隊は分かれた。
■ 四国屋方面:
土方歳三を筆頭に、主力となる隊士が集う。
■ 池田屋方面:
近藤勇、永倉新八、藤堂平助――そして古賀隼人。
それは、歴史上ではあり得ぬ布陣だった。
史実では池田屋に向かうはずだった沖田総司は、今、遠くの寺で静養している。
その場所に立つのは、あの日、総司の剣で命を救われた男――古賀隼人だ。
古賀は刀の柄にそっと手を添える。
それは、未来から持ち込まれた“知識”などでは覆せぬ覚悟だった。
「池田屋……その扉の向こうに、歴史が待っている」
誰に聞かせるでもなく、古賀は呟いた。
隣で、永倉新八が笑った。
「よう、やっと剣士の顔になったじゃねえか。あのとき道場で俺たちぶっ飛ばした男の面構えだ」
藤堂平助が続けた。
「気をつけてくださいよ。俺は冗談抜きで本気出しますから」
古賀は、ゆっくりと頷いた。
「……死なせない」
その言葉は誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
浪士たちか、仲間たちか、あるいは――
(沖田さん。貴方の代わりに、俺がこの夜を生き抜いてみせます)
――間もなく、池田屋の扉が開かれる。
刀の鞘が軋む。
足音が石畳に重く響く。
歴史は今、修正力を持ってこの異物を排除しようとしている。
だが古賀は、立ち向かう。
己の知識も覚悟も、剣も、すべてを懸けて。
今宵、史実にはなかった池田屋での死闘が、始まる。
五月二十七日、暮れかけた京の空に、微かな風が舞っていた。
火急の報が飛び交い、隊は静かに動く。
三条の橋を渡り、灯がともる町家の並ぶ中――
近藤局長率いる別働隊は、池田屋へと向かっていた。
提灯の灯りが揺れ、足音だけが石畳を叩く。
その列の先頭に立つ男――古賀隼人は、前を見据えたまま黙していた。
だがその胸中では、嵐のような思考が荒れ狂っていた。
(……俺はこの夜、歴史に踏み込む)
転生してこの時代に現れたその日から、
己は「異物」として、運命を変え得る剣を与えられてきた。
剣筋はすでに、かつての“剣豪・古賀隼人”のそれと完全に重なっている。
幾度の稽古と死線、鍛錬を重ね、今では斎藤一すらもその刃を恐れる。
だが――。
まだ、ただの一度も、人を斬っていない。
本当の意味で血を浴びたことはない。
刃を通し、命を断ち切ったことは、ない。
それが何を意味するか、医学生だった自分が最もよく知っていた。
(人を救いたいと願い、知を学び、技を磨いた)
(それが俺の出発点だった。祖母の涙を見て、会津を、命を救いたいと誓った)
(だというのに――俺は今夜、人を殺す)
その事実が、胸の奥を焼いた。
焼けるような罪悪感。
背骨を貫くような恐怖。
喉が渇く。手がわずかに震えている。
これが、“命を断つ覚悟”の重さだと、ようやく思い知らされた。
(だが……この手を震わせたままでは、誰も救えない)
ふと脳裏に浮かぶ。
沖田総司の笑顔。
土方歳三の鋭い眼差し。
永倉の豪快な背中。
――そして、子どもたちのあの笑顔。
守るべきものは、たしかにある。
ならば、自分が“清らか”であり続けることに意味はあるのか。
古賀は、そっと柄に指をかける。
その感触が、今夜、自らの手を血に染めることを告げていた。
剣が命を絶つ道具であるならば、
それを握る手に必要なのは、清廉さではなく――覚悟だ。
(……俺は、医学生であることを裏切る)
(人を救うために命を奪う)
(矛盾している。破綻している)
(それでも、ここで斬らねば――この時代は、また血に沈む)
ほんのわずかに震えていた手を、古賀は自らの意志で鎮めた。
胸の奥にあった恐怖を、静かに、沈めていく。
冷たく澄んだ水のような思考が戻る。
鼓動が整い、足取りが静かに力を増す。
目の前には、池田屋がある。
灯が揺れる。
乱れる気配。
命の奔流が、あの格子戸の向こうにある。
古賀は刀を抜きかける。
「――俺は、今宵、人斬りになる」
誰に聞かせるでもなく、静かに、告げた。
それは懺悔でも、祈りでもなかった。
ただ、覚悟だった。
この未来を変えるために。
誰かの命を守るために。
新選組の剣士として、今夜、この手を血で濡らす。
近藤局長が、ゆっくりと振り返った。
その眼が、古賀の変化を見逃すはずもなかった。
古賀は静かに頷いた。
もう、迷いはない。
池田屋――その扉の先で待つのは、
史実と異なる“死闘”。
そして、未来を変えるために初めて放たれる、“命を奪う刃”だった。
池田屋。
それは、京の町家のひとつにすぎない。
だがこの夜、その扉の向こうに――国家を覆す火種が潜んでいた。
「……間違いない。あの中に、いる」
永倉新八の声は低く、だが明確だった。
玄関脇に身を潜めたまま、彼は静かに手をかざす。
障子の隙間から漏れる灯り、張り詰めた空気。
中に潜む影の数を、その剣士の勘がはっきりと告げていた。
「気配は……二十、いや、それ以上」
背後の隊士たちがざわついた。
わずか六名の別働隊。
ここには、近藤勇、永倉新八、藤堂平助、そして古賀隼人。
それに若き隊士が二名。
本隊は、四国屋方面へ――この場に主力は、いない。
「……な、二十人以上って……」
「局長、どうします? これは……」
言葉を飲み込む隊士たちの肩が微かに震えていた。
それは恐怖であり、迷いであり、理性だった。
“無謀”という言葉が、喉の奥で何度も反響していた。
だが、静かに前に進み出た者がいた。
古賀隼人――
その顔に、恐れはなかった。
剣豪として鍛え抜かれた目でもなければ、
人の命を救おうとしていた医学生の面影でもない。
その眼差しは、ただひとつの光――
“覚悟”だけを宿していた。
(これが、死地か)
殺す覚悟。
殺される覚悟。
そして――仲間が命を落とすかもしれぬ覚悟。
この場にいる誰もが、そんなものを口に出す余裕などなかった。
だが確かに、空気が、肌が、それを告げていた。
近藤局長が立ち上がる。
その背中は、いつも以上に大きく見えた。
「……ここで引けば、奴らは京に火を放つ。
天子様を攫い、戦乱を起こすだろう。
我ら新選組が、ここで止めねばならぬ!」
振り返る局長の顔は、青ざめてなどいなかった。
むしろ、熱を帯びていた。
それは“誠”のために命を懸ける男の、静かな猛火だった。
永倉がその背に並び、刀の柄に手をかける。
「局長の言うとおりだ。六人だろうが、二十人だろうが……この道を退く気はない」
藤堂平助も笑う。
「だったら俺たち、六人で二十人叩く伝説作りましょうよ」
彼らの声は、確かに震えていた。
それでも前に出る。
それが、新選組という名の魂だった。
古賀は静かに、刀の鍔に指を添えた。
(……俺も、行く)
ここで、彼は決して「不殺」を口に出そうとは思わなかった。
どれだけ理屈を並べようと――
この場に立っている者は、皆、死を覚悟している者たちだ。
それを否定すれば、自分の信じた“義”さえ崩れてしまう。
(誰も死なせたくない……でも、ここでは“生きて帰ろう”なんて言葉は、甘すぎる)
だから古賀は、黙して刃を握った。
その胸には、燃えるような矛盾があった。
“命を奪わずに守りたい”
――だが、それを言葉にせず、剣に託す。
藤堂平助がふと、古賀の横顔に目を向けた。
「……なんか、怖くねぇんすか?」
古賀はゆっくりと、彼の方を見た。
そして、静かに言う。
「怖いさ。……でも今、震えてるのは――俺の手じゃない。俺の心だ」
近藤勇が鞘を抜いた。
その音が、夜の静寂を引き裂いた。
「突入する。目標――池田屋。
生きて帰れ。……だが、何より、止めろ」
誰も応じなかった。
だがその代わり、全員が鞘に手をかけた。
古賀は深く息を吸い、視線を池田屋の戸口へと定めた。
(もう戻れない。ならば、この剣で、切り拓く)
静寂の中――
新選組、池田屋突入する。
歴史が動く瞬間が、目前に迫っていた。
「御用改めであるッ!」
近藤勇の咆哮が、夜を切り裂いた。
池田屋の戸口が大きく震え、押しのけられた店主の叫び声が廊下に響く。
そのまま近藤は駆け上がり、板階段をきしませながら二階へ。
その背を追い、古賀隼人も躊躇なく駆けた。
廊下は狭い。畳の香りと油の匂いが混じり、息苦しいほどに濃い。
だが古賀の瞳は冴え渡っていた。
(六人で二十余り……制圧は不可能だ。だが、持ち堪えることはできる)
考えは明快だった。
援軍――四国屋に向かった本隊が戻るまで、いかに時間を稼ぐか。
その間、誰一人として討ち死にさせぬ。
仲間の命を繋ぎ、援軍の刃で一斉に捕縛する。
それが、古賀の描いた唯一の勝機だった。
「――行くぞ!」
近藤局長の叫びと同時に、襖が蹴破られた。
木片が飛び散り、乱れた紙が舞い上がる。
その向こう――。
灯火に照らされた十数の影が、一斉に振り返った。
酒を手にしていた者、刀を抱いていた者、顔を紅潮させた者。
皆が皆、驚愕の表情で新選組の突入を迎える。
「新選組だァッ!」
怒声が飛び交う。
瞬時に刀が抜かれ、畳の上で金属音が火花を散らした。
古賀は、その混乱の渦へと突っ込んだ。
瞳には一片の迷いもなかった。
(ここで、怯んではならない)
狭い座敷。敵の数は圧倒的に多い。
だが、畳の間は刀を振るうには窮屈であり、その密集が逆に味方した。
敵の大半は立ち上がるだけで精一杯、斬撃の自由を奪われている。
古賀の刃が閃いた。
まずは敵の刀を受け、腕を薙ぎ払い、敵を畳に転がす。
その刃先は命を断つことなく、致命を避けていた。
だが、それを知る者は誰もいない。
ただ“新選組の斬撃”が始まったとしか映らなかった。
「斬り込めぇッ!」
近藤の咆哮が響く。
永倉が続き、藤堂が声を張り上げ、六人の刃が二十の影へと踊りかかる。
火花と叫声が交錯する。
畳の上で転げる浪士、倒れながらも刀を振りかざす影。
血が飛び、襖に赤を散らす。
混沌と恐怖、怒声と断末魔が、座敷を戦場へと変貌させていった。
古賀の呼吸は静かだった。
ただ仲間の位置を測り、敵の動きを読み、冷徹に刃を振るう。
(誰も死なせない――だが、俺は人を斬る)
その矛盾を胸に抱えながら、古賀隼人の剣は、池田屋の修羅場で冴え渡った。
畳が、悲鳴をあげた。
剣戟と叫びが交錯するなか、古賀隼人の周囲には、いつの間にか五人以上の志士が立ちはだかっていた。
その刃は鋭かった。
いずれも只者ではない。
恐らく、京に潜伏していた中でも最も血気に満ち、剣を嗜んできた連中だ。
その瞳には迷いも恐怖もなかった。
(……囲まれた)
視界の周囲がすべて敵に塞がれ、退路すらない。
もはや一瞬の躊躇が、死を呼ぶ。
目の前のひとりが叫びとともに踏み込む。
背後からは二人が回り込んだ。
脇からの刺突――それに呼応する斬り下ろし。
一息の間に、全方位から襲いくる五つの刃。
(……間に合わない。躱せない)
その刹那。
古賀の中で、“医学生”としての自我が崩れ落ちた。
「――そこを、どけ」
刹那、刃が一閃した。
乾いた音と共に、男の喉から悲鳴が漏れる。
血飛沫が、障子に鮮やかな赤を咲かせた。
続けて、横薙ぎ。
二人目の腹部を浅く斬り、畳に叩き伏せる。
まだ、三人いる。
だが古賀の気配は、明らかに変わっていた。
不殺の理想を背負っていた目は消え、
今ここで仲間を守るために“人を斬る覚悟”の目に変わっていた。
(……殺した)
意識の隅がささやいた。
だが、それに囚われている暇はなかった。
そのまま三歩先へ滑り込み、脇から斬りかかってきた志士の右腕を、肘から断つ。
刃を持った手が床に転がり、男が絶叫をあげる。
(――もう一人)
眼前の志士の振り下ろしを、下から巻き上げた逆袈裟で受け止め、
そのまま刃を逸らして胴を断つ。
切先が止まると同時に、男の体が力なく崩れ落ちた。
息をつく暇もなく、古賀は視線を前へ。
(永倉新八……! 藤堂平助……!)
戦場の奥で、二人が苦戦しているのが見えた。
畳の間で乱戦に巻き込まれ、敵に囲まれている。
「……通させてもらう」
己の道を切り開くように、古賀は再び走った。
敵が立ち塞がれば迷わず斬り、膝を割り、剣を奪い、突き飛ばし――
その一太刀ごとに、命が断たれた。
もはや血の匂いに鼻は慣れ、悲鳴は耳に届かず、
振るう剣は本能のままに冴え渡る。
数分――いや、数十秒にも満たないか。
だが、その一瞬の奔流の中で、古賀の足元にはいくつもの命が倒れていた。
(もう、止まらない)
罪悪感など、感じている暇はなかった。
後ろにいる隊士たちの命が、前で戦う仲間の命が、
この剣の届く範囲にかかっている。
「死なせない……俺の仲間は、誰ひとり」
声にならない呟きと共に、古賀隼人は死地の只中を駆け抜けた。
その剣筋には、もう“ためらい”の欠片もなかった。
畳はすでに、赤く染まっていた。
灯明の光に照らされ、汗と血が交じり合う。
刀と刀がぶつかり合うたび、火花が弾け、息苦しいほどの鉄の匂いが立ち込めた。
「ぐあっ……!」
鋭い悲鳴が上がる。
振り向いた古賀隼人の視線に飛び込んできたのは、藤堂平助の姿だった。
脇腹を深々と斬られ、畳に膝をついている。
若き顔は蒼白に染まり、血の泡を口から吐きながらも必死に歯を食いしばっていた。
「平助ッ!」
永倉新八の咆哮が夜を裂いた。
彼は即座に藤堂の前に躍り出て、迫る二人の志士を一刀両断にする。
だがその刃筋は、いつもの豪胆さに鋭さを欠いていた。
藤堂を庇えば庇うほど、攻め手は鈍り、わずかな隙が生まれてゆく。
「任せろッ!」
古賀は血を蹴り上げ、永倉たちのもとへ飛び込んだ。
振り下ろされる刃を受け止め、逆袈裟で一人を畳に沈め、続けざまにもう一人を斬り伏せる。
その剣には迷いはなく、ただ仲間を繋ぐための、冷徹な決意だけが宿っていた。
「……助かったぜ、古賀!」
永倉が息を吐く。
だが笑みに混じる血の匂いは、決して軽くなかった。
そのときだった。
――どおん!
池田屋の正面が轟音と共に揺れ、障子が破裂するように吹き飛んだ。
瓦礫と共に雪崩れ込んできたのは、怒声と新たな刃。
「長州の援軍だ! 斬れェェッ!」
怒号が波のように広がり、闇に紛れた黒装束の影が一気に突入してきた。
その数、三十――いや、それ以上。
「なっ……!」
「バカな、そんな……!」
新選組は、六名。
すでに藤堂は戦闘不能。
実際に戦えるのは五名にすぎない。
刀がぶつかるたび、古賀の思考は冷たく研ぎ澄まされていった。
(……おかしい。四国屋に向かった主力が、来ない)
(いま頃なら、この乱戦に駆けつけているはずだ。それが……影すらない)
胸の奥に、重苦しい絶望が広がる。
これは単なる遅延ではない。
何者かが新選組を分断し、この場を孤立させている――。
「古賀! 下がれ!」
近藤勇の怒声が飛んだ。
見ると、局長自身も三人の志士に囲まれ、渾身の剣で押し返していた。
鮮血を浴びながらも、眉ひとつ動かさず踏み止まるその姿は、まさに一騎当千。
だが、長くは持たない。
畳の上に血が散り、刃が閃き、絶望が濃くなる。
(……ここで潰されるのか? 新選組も、俺の夢も――すべて)
だが次の瞬間、古賀の眼が烈しく光った。
恐怖を呑み込み、己を縛る理想を押し殺し、ただ仲間を繋ぐための一点に意識を集中させる。