そして池田屋事件へ
道場に沈黙が満ちていた。
畳の上に倒れ伏す五つの影。
鴇田の肩は大きく上下し、井口は竹刀を取り落としたまま膝をつき、榊原は片腕を押さえて顔を歪めている。
葛西は喉元に汗を伝わせ、久世は口元に血の味を感じながらも、静かに息を吐いた。
そんな中――最初に動いたのは榊原だった。
「……ふざけるな……」
ぐらつく足で、しかし膝を立てる。
その動きに、他の四人もゆっくりと、まるで引き寄せられるように立ち上がる。
「この程度? 冗談じゃねぇ……まだ終わってねぇぞ、古賀……!」
鴇田が歯を食いしばって竹刀を拾い、構える。
「これで倒れて終わりなら、精鋭なんて名乗れねぇ……」
井口が息を切らしながらも立ち上がる。
葛西は喉をかばいながら、竹刀を取り直す。
久世は血の味を舌で確かめ、静かに足を開いて構え直す。
古賀は、それを見ていた。
誰一人、剣を捨てなかった。
倒れながらも立ち、痛みに耐えながらも構えた。
怒りでも悔しさでもない。そこにあるのは――誇りだった。
「……なるほどな」
古賀は低く呟き、再び竹刀を正眼に構える。
「それがお前たちの“芯”か。ならば、今度は俺が証してやる」
一歩、二歩と歩を進める。
その姿に、再び五人は息を呑んだ。
「俺が――この一番隊の“柱”に相応しいかどうかを」
古賀の言葉が落ちると同時に、彼の足が床を蹴った。
先ほどまでの一瞬の動きとは違う。
今の古賀は、“組長”として、一番隊を背負う者の剣を振るっていた。
最初の鴇田の打ち込みを、古賀は下段で受けて弾き返し、
井口の面打ちには刃筋の角度で滑らせて逆胴を返す。
榊原の突きには踏み込みの間で制し、葛西の絡めを腕ごと押し戻し、
久世の影打ちは逆手で防ぎ、そのまま肩口へ押し流した。
打ち合い、叩き合い、弾き合い。
今度は圧倒ではなかった。
古賀は「潰す」のではなく、「超える」ことで示していた。
力ではない、速さでもない――理と覚悟の剣だった。
最後の打ち合いのあと。
五人の竹刀が同時に畳に落ちた。
肩で息をする鴇田が、額の汗を拭いながら呻くように言った。
「……沖田組長以外では……あんたしかいねぇ……」
井口が静かに頭を下げた。
榊原が拳を固めて、深く、黙って礼をした。
葛西が立ち姿を崩さぬまま、目を閉じる。
久世が、ただ一言だけ呟いた。
「……やっと見えました。影の形が、変わった」
道場には静寂が戻っていた。
だが、それは先ほどまでの“拒絶の沈黙”ではなかった。
今ここにあったのは――信頼の静けさだった。
古賀は竹刀を静かに下ろし、汗一筋も拭かずに言った。
「……これが、俺の剣だ。
この一番隊を、命を賭してでも守る。
それが組長の務めだと、俺は思っている」
誰も返さなかった。
ただ全員が、深く、頭を垂れた。
――その日、一番隊の中に「異物」はいなくなった。
新選組一番隊組長・古賀隼人。
彼は名実ともに、精鋭たちの頂に立った。
夜。
屯所の一室は、灯明の火が小さく揺れ、影を長く引いていた。
机に広げられた紙には墨の跡が重なり、黒い筋がまるで川の流れのように走っている。
古賀隼人は膝を正し、じっとその黒の筋を見つめていた。
(……池田屋を越えたとしても、その先に待つのは――禁門の変)
頭の中に、炎に包まれた都の景色がよぎる。
城下を覆う黒煙、焼け崩れる町家、叫ぶ女と子供。
新選組はその渦中に投入され、刃を交える。
勝利すれば名は轟く。だが一つの判断を誤れば、また「壬生狼」の汚名が積もる。
(禁門の変を“勝利”とするには、池田屋での大義を揺るがせてはならない。
一滴でも血を流しすぎれば、それが後に響く)
筆を握り、強く紙に当てる。
墨がにじみ、丸い黒が広がった。
古賀はそれをじっと睨みつけた。
(そして――その後に待ち構えるのは、油小路の闇)
闇の中で斬り結ぶ新選組。
味方同士が刃を向け合い、血を流す姿が脳裏に浮かぶ。
外敵との戦いよりも、内部の不協和が新選組を崩壊へと導いていく。
未来の記憶が、背筋を冷たく撫でた。
(外の戦は大義で。中の戦は信義で。どちらを欠いても新選組は潰える)
ふっと息を吐き、古賀は竹刀立てに掛けてある浅葱色の羽織を見やった。
昼間、己に向かって竹刀を振るった一番隊の五人の姿が脳裏を過ぎる。
怒りをぶつけ合い、剣を交え、それでも最後には“芯”を示した彼ら。
その精鋭を束ねる座を――沖田総司は自分に託したのだ。
「……無駄にはせぬ」
小さく呟いた声は、夜の室内に溶けた。
池田屋は始まりに過ぎない。
禁門の変も、油小路も、すべてはこれから訪れる試練だ。
だがそのどれも――勝利として刻まなければならない。
「沖田さんから預かった一番隊……この命に代えても守り抜く」
決意の言葉を、古賀は胸の奥深くに刻んだ。
灯火の炎が一度揺れ、影が畳に大きく伸びる。
その影はまるで、これから古賀が進む長く険しい道の象徴のようだった。
夜は深まり、油の火は尽きかけ、影がゆらめきながら壁を這っていた。
古賀隼人は机の上に両の手を重ね、静かに目を閉じる。
心に浮かぶのは、やがて訪れる池田屋の夜――そしてその発端となる古高俊太郎の捕縛であった。
未来を知る己には、その顛末が刻まれている。
新選組は古高を捕らえ、凄惨な拷問を加える。
爪を剥がし、火箸を押し付け、痛みに絶叫する中で情報を吐かせた。
それがやがて池田屋襲撃へとつながり、新選組は名を轟かせた――だが同時に、「壬生狼」の悪名を一層濃くする火種ともなった。
(……あのやり方は繰り返させてはならない)
医学生としての自分は、それを誰よりも拒んでいた。
人を殺めてはならない。まして、拷問で情報を引き出すなど――それは武士の義にも背き、人の道を踏みにじる行為だ。
拷問の痕は証言を汚し、大義を曇らせる。
(古高からは……必ず話を聞き出す。だが――殺めるな。決して)
古賀の瞼の裏に、未来の祖母・邦子の面影が浮かぶ。
「会津の人々は血に沈められた……」
そう震える声で語った幼き日の夜。
古賀は唇をかみしめ、己の迷いを叩き斬る。
(池田屋の成功は“勝利”ではない。ただの血塗れでは、禁門の変も油小路も勝ちにはならない。
古高一人の命を削って得る勝利ではなく――古高の命を残したまま、大義を得る。それこそが俺の戦いだ)
拳が机を打ち、紙が揺れた。
油の火がふっと揺れ、影が壁を広がる。
「俺がやる。俺が“聞き出す”。そして――殺さない」
声は低く、だが胸の奥から迸る熱を帯びていた。
沖田さんから預かった一番隊を、血に汚させてはならない。
自分の剣も、医の知も、未来を知るという異形の運命も――すべてそのために使う。
古賀は深く息を吸い、墨で一行を紙に刻んだ。
> 覚 古高俊太郎、拷問無用。
ただし口を開かせねば池田屋は止まらぬ。
剣を以て威を示し、医を以て命を繋ぎ、言を以て真を引き出す。
決して――殺さず。
墨の匂いが広がり、静寂が戻った。
古賀はその一文を何度も見返し、灯火が尽きるその瞬間まで、胸中で繰り返した。
――拷問は許さぬ。
――血の上に未来を築かせはしない。
五月の京は、湿り気を帯びた風が路地を抜け、時折遠くで雷鳴が響いた。
古賀隼人は、昼下がりの屯所で竹刀を握りながら、心ここにあらずといった面持ちで呼吸を整えていた。
(池田屋――起こるのか、否か)
史実では、池田屋事件の二週間前から倒幕派の動きが活発化する。
その兆しは、今この京にも確かにあった。
浪士が京の入り口に増え、品のない草履音が夜道に響き、旅籠では妙に筆を走らせる若侍が目に付く。
だが、確信がない。
確定的な動きも、具体的な騒擾の兆しも見えない。
(……本来なら、もう古高が枡屋喜右衛門の家に潜んでいた時期だ)
古賀は静かに稽古場の壁に目をやった。
柱の一つに、釘の跡がある。数日前、葛西がぶつけた時にできたものだ。
些細な変化すら気にしてしまうのは、全てが“分岐”に見えるからだ。
沖田総司が前線から退いた――
それだけで、歴史はわずかに“揺らいでいる”。
(池田屋事件が……発生しなければ?)
その思考が脳裏をよぎるたび、古賀の背に冷たい汗が浮かぶ。
池田屋事件は、新選組が「名」を得る機会であり、倒幕派を未然に封じる唯一の端緒である。
あれが無ければ、新選組の名声は築かれず、幕府内での発言力も薄れ、会津は孤立を深めていく。
(もし――あの夜が、なかったことになれば)
その瞬間から、古賀の知る歴史は霧に包まれる。
未来は見通せず、導く術も失われる。
“制御不能”。
それは即ち、自らの敗北を意味する。
「古賀組長」
呼ばれて我に返る。久世要が竹刀を構えていた。
道場では五人の一番隊隊士が、額に汗をにじませながら待っていた。
――稽古の途中だった。
「……すまない、続けよう」
古賀は静かに構え直し、気配を正す。
鍛錬は裏切らない。
この剣が鈍れば、たとえ池田屋が起こっても勝機を逃す。
そして、隊士たちの中に迷いが生まれれば、瞬く間に崩壊する。
自分が隊を“信じ”、剣を“信じ”、歴史を導かねばならない。
だが――
剣を振りながら、古賀の頭の中にはもう一つの戦場が広がっていた。
それは、京の東北。
枡屋喜右衛門宅。
すでに数人の者がその周辺の巡邏に当たり、町人に紛れて警戒網を張っている。
倒幕派に悟らせず、しかし“見逃し”はせず。
緊張感の針は、見えぬまま街路に刺さっている。
(動け、古高……そこにいろ。お前がいなければ、全てが崩れる)
刀ではなく、未来を握るのは、その男の“存在”だった。
だからこそ、絶対に殺してはならない。
同時に――絶対に逸してはならない。
竹刀が久世の刃を打ち払った時、古賀は確信した。
(すべては、ここから始まる。池田屋を“外させて”はならない)
油の火が揺れ、座敷に影が伸びた。
古賀隼人は膝を進め、深く頭を垂れる。
「――いま新選組に必要なのは“官命”です。しかも、公儀(幕府)からの御用だけでは足りません。正式に“勅命”の裏付けを得ること。
それによって初めて、我らの動きを大義として世に知らしめることが叶います」
近藤は腕を組み、土方は煙管を置いた。
沈黙。やがて土方が低く言う。
「官命にさらに勅命まで――二重の鎖だ。名は立つが、自由は狭まる。覚悟はあるか」
古賀は顔を上げ、まっすぐに射返した。
「あります。
倒幕の徒が火を放ち民を巻き込めば、官命なき我らの刃は“壬生狼”の暴れと受け取られる。
しかし勅命を奉じた官命であれば、我らは“狼”ではなく御楯――市中の守護として立てます。
池田屋で動くその一夜が、『虐殺』と記されるか、『救民の働き』と記されるか。分水嶺は、ここにございます」
近藤の眉がわずかにほどけ、土方の眼が険しさを保ったまま細くなる。
古賀は言葉を継ぐ。
「勅命の黒印の副状を御用札に添え、町奉行へも即時に写しを。
瓦版に先んじて、“新選組は朝旨に従い市中を守る”と、形式で示します。
剣だけでは大義は立ちません。印判と言上こそが、血より強い証になります」
長い呼吸ののち、近藤が静かに頷いた。
「……分かった。歳、手筈を整えよう」
数日後――。
守護職邸での口上、町奉行所での受理、そして勅許の副状。
土方が文言を整え、井口が見届け、古賀は深く礼をとった。
御用札の横に据えられた黒印は、墨の丸い影にすぎない。
だがその小さな影が、京の町に大義の輪郭を与える。
屯所への帰途、土方が横目で言う。
「これで“市中取締御用”に朝旨の背がついた。名は立つ。――が、足もとを一度でも滑らせば、名は一転して重石になる。分かるな」
「承知しております」
古賀は拳を握り、浅葱の袖口を正した。
(これで、池田屋で新選組が動く道理は整った。
剣は最小に、証は最大に。
禁門の変にも、油小路の闇にも、この勅命を帯びた官命が盾となり、刃となる)
――沖田総司から預かった一番隊を、決して無駄にはしない。
――池田屋の一夜を、救民の夜として刻む。
古賀は静かに息を吐き、心の内で誓いを重ねた。
刃を抜く前に、世に示す印はそろった。
あとは、誤らずに抜くのみである。